戦国人物伝


南部 晴政
(なんぶ はるまさ)

1517年〜1582年

異名:――――

 陸奥北部の戦国大名。南部家の当主。三戸城主。
 南部信直の従兄弟であり、養父。
 初名は安政。通称は彦三郎。官職は右馬助・大膳亮・大膳大夫。
 分裂気味だった南部一族をまとめ、その武威で広大な所領を獲得。南部家の全盛期を築き上げたが、晩年は、自らの手で家中を混乱させてしまった。

 陸奥の国の北部の戦国大名・南部安信の子として、1517年に生まれる。
 領地があるのは本州の北部の北部なのに、名字は「南部」。おもしろい家である。

 1539年。まだ、家督を継ぐ前。安政と名乗っていたころ。彼は、自身の居館であり、南部家代々の本拠地でもあった聖寿寺館を、家臣・赤沼備中によって焼かれてしまう。
 実は安政、備中の美人妻を、しばしば居館に連れ込み、何やら不埒なことをしていたそうなのである。そのことで備中から恨みを買い、館に火を放たれてしまったというわけなのだ。
 逃げた備中は追っ手に成敗されたが、聖寿寺館は、すっかり全焼。安政にとっては悔しい話だが、しかしどう見ても、身から出たサビである。

 同年中に安政は、遥か彼方の京へと旅に出る。そこで時の将軍・足利義晴と謁見し、彼から、「晴」の一字を賜り、名を、「晴政」と改めた。
 家来の妻に手を出して館を燃やされたのは、あくまでも、南部安政とかいう奴。これからの俺は、南部晴政。安政のやってしまったことなんぞ、関係ないのだ。

 1541年、父・安信が死去。晴政は南部家の家督を継承する。

 聖寿寺館の焼失後は、仮の居館を転々としていた晴政だったが、ここいらで、一ヶ所に落ち着くことを決意。領内に新たに城を築き、居城とした。三戸城である。

 1565年、晴政は、父方の叔父・石川高信の子である、信直を婿養子とした。
 晴政には、娘こそあったものの、息子が、いなかったのである。そこで、この、年の離れた優秀な従兄弟に、娘と、南部家の将来を託すことに決めたのだ。

 南部家と領地を接する、出羽の国の戦国大名・安東愛季。
 1566年、この愛季配下の5000の軍勢が、南部領である鹿角郡に侵攻してくる。
 南部勢は、長牛城にてこれを迎え撃ち、無事、追い返すことに成功した。

 翌1567年、今度は、安東愛季自らが出陣。6000の兵で、長牛城を攻撃してくる。
 今回も、南部家は、なんとか勝利。安東勢は撤退する。
 しかし、同年中に、もう一度愛季に攻められた時には、そうはいかなかった。
 安東家のしつこい攻撃に、ついに長牛城は落城。鹿角郡は、敵の手に落ちてしまったのである。

 年が明けて、1568年。怒りで熱くなった晴政は、鼻息荒く、鹿角郡奪回の兵を挙げる。
 婿養子である南部信直。それから、晴政の有力な家臣であり、南部一族でもある、九戸政実。彼らと共に、鹿角郡に怒涛の進撃をしたのである。
 これには安東勢も、長牛城を放り出し、退散。晴政は、旧領を見事に奪還。その後、安東家が、南部領に大々的に手を出してくることはなくなった。

 これら、一連の安東家との抗争を通して、独立心旺盛な九戸政実なども、晴政に心服。一枚岩とはいえない状態であった南部一族が、晴政を中心にして、しっかりと結束するようになった。外敵の襲来が、身内の和の乱れを、正してくれたのである。
 こうして絆を深め、力を強めた南部家は、周辺に、どんどん勢力を拡大させていく。
 そうして、陸奥北部のかなりの範囲を領地とするに至った。
 その支配域の大きさは、「三日月の丸くなるまで南部領」とまで、言われるほどであったという。
 南部領に入った時には、月は三日月であったはずなのに、あんまりその領地が広すぎるもんだから、南部領から出るころには、すっかりお月さんが真ん丸になってしまう、という話だ。
 南部領が大変広かったのは事実なのだろうが、これはちょっと、持ち上げすぎな気もする。面積が広かっただけではなく、田舎な上に山がちな土地だから、交通の便が悪く、通行に時間がかかったという面も、あったのではなかろうか。おそらく、きっとおそらく、当時はまだ、東北新幹線も開通していなかったと推測されるしな。

 このころの、ある初夏。大きく広がった所領を、自らの目で確かめたいという気持ちもあったのだろうか。晴政は、領内に鷹狩りに出かけた。
 やがて、ある村に差しかかると、農民たちが、額に汗して田植えをしている。ちょうど、そういうシーズンなのだ。
 晴政がやってきたことを知った農民たちは、当然、その場にひれ伏す。
 だが、たった一人だけ、全然違う行動をする者がいた。
 なんと、田植えをしていた、10代後半くらいの泥んこ娘が、晴政に向かって、満面の笑みで突進。
「お殿様に幸せあれ〜」
 などと言いながら、彼の着衣や顔面に、ベタベタと泥を塗り始めたのである。
 このとんでもない暴挙に、農民たちは顔面蒼白。その場で凍りついた。
 実はこれ、農民たちの間に伝わる、風習だったのである。田植えの際に、周りの人に泥を塗り、豊作や無病息災を祈るという、微笑ましいおまじないだったのだ。
 だが、お殿様相手に、そんな百姓ルールが通用するはずがない。最悪の場合、村人全員ブチ殺されてしまう。もう、おしまいだ。
 しかし、泥まみれの晴政公は、なぜか、ニコニコと嬉しそう。結局、汚れた格好のまま、上機嫌で村を去っていった。
 それからしばらく経って、件の泥んこ田植えガールが、晴政のもとに呼び出された。
 晴政は彼女を、処罰しようとしたのではなかった。
 側室として、そばにいてもらうことにしたのである。
 彼は、この、無邪気で天真爛漫な娘さんのことを、えらく気に入ってしまったのだ。

 1570年、晴政の愛情を一身に受ける身となっていた、泥んこ田植えガールが、男児・鶴千代を出産した。
 一度は諦めていた、男子。それも、最愛の人が産んでくれた子である。ゆくゆくは、自分の家を、この子に継がせたいと思うのが、父親としての当たり前の気持ちだ。
 この、鶴千代の誕生により、晴政は、従兄弟の信直に次期当主の座を約束してしまったことを、激しく後悔。信直もそれを察し、二人の仲は、急速に悪化していくことになる。

 南部領の北西部を占める、津軽地方。
 1571年、その津軽地方の武将である、南部家臣・大浦為信が、南部家に対して謀反を起こした。
 為信は、晴政の叔父・石川高信の居城である、石川城を襲い、これを攻略。南部家の津軽地方総帥である高信を亡き者とし、その領土を切り取る。
 以前の晴政なら、軍勢を整え、叔父のカタキ討ち及び、領地の奪還に向かうところだが、今の彼は、そんなことはしない。
 だって、津軽のボスだった高信は、可愛い我が子・鶴千代の将来を邪魔する、目障りな南部信直の実の父であり、その強力な後ろ盾。そんな奴の旧領なんか、取り返しに行くわけないだろ。むしろ、石川家の土地なんか、このまま全部なくなってしまえばいいのだ。
 この、晴政のあんまりな態度に、信直が憤り、二人の関係がさらに険悪になったことは、いうまでもない。
 せっかく築いた一族の和を、自ら破壊し始める晴政。危険な兆し。たとえそれが、不倫に基づいたものであろうが純愛に基づいたものであろうが、こうやって溺れて、周りを見失って失敗したら、かつて聖寿寺館を焼かれた時と、なんにも変わらないぞ。

 このころ、婿養子の信直は、鉄砲にハマっており、毎日のように、射撃練習をしまくっていたという。
 そんな噂を聞きつけた晴政は、実態を探るため、婿養子殿の所まで、鉄砲修行の見学に行く。一応、二人は形式的には親子であるから、堂々と顔を出しに行けるのである。
 で、気になる、信直の腕前はというと、的に向かって射撃を繰り返すものの、外してばっかり。実に、ヘタクソなクソヘタであった。
 だが、その姿を目の当たりにした晴政は、供の者に、こう語る。
「信直ほどの者が、日々練習に励んでいながら、こんなに射撃がヘタッピなわけがない。俺を油断させ、いつの日か不意を突いて蹴落としてやろうとして、わざと的を外しているに違いない」
 このコメントを、人づてに耳にした信直は、以降、人前で鉄砲を披露する際には、晴政への当てつけのように、弾丸を的に命中させまくったという。
 晴政の、信直の才を見る目は、正しかったというわけだ。そもそも奴は、かつて自身の後継者として見込んだほどの男。むしろ、こうでなくっては困る。

 婿養子・信直の実力を危険視した晴政は、1572年、ついに強硬手段に出る。
 わずかな供を連れて、領内の毘沙門堂に参拝していた信直。そんな彼を、なんと、自ら手勢を率いて、襲撃しやがったのである。なんとも行動力にあふれた、獰猛な殿様だ。
 絶体絶命の信直であったが、さすが、簡単にやられはしない。こんなこともあろうかと持ち歩いていた、お得意の鉄砲で、すかさず晴政を狙撃。その乗馬に銃弾を命中させ、晴政を馬から落っことす。そうして、晴政の兵が慌てている隙に、辛くも、その場から脱出したのである。
 これだけの事件が起きたのだ。普通なら、これを引き金にして、内戦状態に突入するはずであるが、晴政と信直の場合は、そうはならなかった。二人とも、大規模な内戦になれば、南部家そのものが潰れかねないということが、理解できていたのだろう。
 二人は、お互いを完全に敵として認識しつつも、表面的には親子のままでいるという、極めて見てらんない関係を続けることになる。殺し合うよりも、かえって恐ろしいわ。

 1576年、信直の妻となっていた、晴政の娘が死去する。
 晴政との間をつなぐ、唯一の架け橋が崩れ、晴政と張り合う名分も失い、身の危険を感じたのだろう。信直は、ここで正式に、晴政の後継者になることを辞退。元の石川信直に戻り、その後は、暗殺を恐れたのか、居城・田子城に、ほとんど引きこもるようにして過ごすようになる。
 そんな信直を、晴政も、あえて追討するようなことはしなかった。
 かつては、我が子とまで頼んだ相手。すでに力を失ったところに、トドメまで刺しに行くのは、気が咎めたのであろうか。
 いずれにせよ、これで、鶴千代が南部家の次期当主となることは、約束されたわけである。

 日本の中央を押さえ、天下統一に向けて突き進む、新進気鋭の大大名・織田信長
 1578年、晴政は、その信長に使者を送り、鷹と駿馬を献上した。いずれ、信長が日本の主になるだろうと読み、早めにこれに接近したのである。
 東北の果てに身を置きながら、この、時代の流れを感じ取る確かな嗅覚。南部晴政は、優れた武将だ。
 しかし、そんな遠くに目を向けるだけでなく、もっと近くも見るべきであったろう。
 晴政がヒドい仕打ちをした石川信直は、怯えておとなしくしているわけではない。息を殺して爪を研いでいるのだ。
 それに、謀反人・大浦為信も、健在。石川城だけでは飽き足らず、いまだに、南部領を侵し続けているのである。

 息子が一人前になるまでは、そばで守ってやりたかったろうが、寿命が及ばず。
 1582年、南部晴政は病に倒れ、帰らぬ人となる。享年66であった。

 生前の彼の願い通り、南部家の家督は、一人息子の晴継(鶴千代の元服後の名)が、わずか13歳にして継ぐことになった。
 しかしこれは、猛獣の檻の中に、小動物を放り投げるようなものであった。
 晴政が死んで鎖から解き放たれた石川信直や、もともと独立心の強い九戸政実。南部家中の混乱を望む大浦為信などが、周りにはウヨウヨいるのだ。
 そうして、晴政の死の、ほんの少し後。その葬儀の、帰りの夜道。
 晴政が、後半生を捧げて慈しんできた、南部家の新当主・南部晴継は、正体不明の賊の群れに襲われ、その短い生涯を閉じることになってしまうのである。


(おしまい)


おまけ写真

三戸城
(青森県三戸郡三戸町 城山公園)
撮影日:2009年5月24日
周辺地図

戦を知る、勇猛な晴政が築城した、南部家の本拠。
それまでの、割と平らな場所にあった居館とは違い、戦闘的な山城である。

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