足利義政の右筆。阿波守護である、細川家の家臣でもあった。
彦六左衛門は通称。諱は常房。清方とも。
書道・和歌に精通した、一流の文化人であった。応仁の乱によって壊滅した都を見て、嘆き悲しみ詠んだ歌で、後世に知られている。
1422年、細川家が治める阿波の国にて、有職故実に通じた家柄である、飯尾家に生まれる。
若いころに、郷里を離れて京へと上り、細川家の在京家臣の一人として、そのまま滞在。
憧れの都であったろう京の地で、東常縁の師匠でもある、堯孝に歌を学ぶ。
和歌だけではなく、書道の勉強にも、熱心であった。
細川家中において、事務方の人間として働いていた彦六左衛門にとって、書の道は、自らの仕事に直結した道。身も入るというもの。
日々鍛練に励み、腕を上げ、やがて、飯尾流という、書道の一流を興すまでに至る。
1467年、京都を舞台とする、応仁の乱が勃発。
彦六左衛門が仕える細川家も、この争乱に加わることになるが、事務方だった彼が、戦と直接関わり合うようなことは、ほとんどなかったものと思われる。
しかし、この乱、彼の人生そのものには、大きな影響を及ぼした。
彼が暮らす、古よりの歴史を持つ町。憧れだった京の都が、戦乱の炎に焼き尽くされ、かつての賑わいが嘘であったかのように、廃墟となり果ててしまったのである。
この惨劇を目の当たりにした彦六左衛門は、暗く沈んだ心の底から、一首の歌を絞り出した。
「汝や知る都は野辺の夕雲雀 あがるを見ても落つる涙は」
大都会であったはずの京の都に、野っ原にしかいないような、ヒバリが住んでいるというのである。そりゃあ、とめどなく、涙もこぼれ落ちてくるというものであろう。
どうやら、1474年のことであったらしい。彦六左衛門は、前将軍である、足利義政の右筆に抜擢される。
書の道に秀でていることと、細川家での、事務屋としての仕事ぶりが評価されたのだろう。芸術を愛する義政から、和歌の才を買われたという面もあったのかもしれない。文化人としては、この上なく名誉なことであったに違いない。
しかし、足利義政といえば、応仁の乱で京都を荒廃させた張本人ともいうべき、どうしようもない人物。果たして、彦六左衛門と、馬が合っただろうか。どうだろうか。
二人の仲については、よく分からない。しかし、いずれにしても彦六左衛門は、抜擢された翌年の1475年には、もう、義政の右筆の職を辞してしまったらしい。
その後は再び、細川家へと戻っていったようだ。
1477年、都を散々に破壊した応仁の乱が、ようやくようやく終結する。
それから8年後の、1485年。彦六左衛門は、この世を去った。享年64。
大乱の爪跡は、京の町に深く刻まれ、時代は混沌に呑まれていた。愛してやまなかった都が、かつての繁栄を取り戻す日を、彼はついに、見ることができなかった。
(おしまい)