戦国人物伝


龍造寺 家兼
(りゅうぞうじ いえかね)

1454年〜1546年

異名:――――

 少弐家臣。水ヶ江城主。
 龍造寺隆信の曾祖父。
 通称は孫九郎。法名は剛忠。官職は山城守。
 龍造寺家を主導し、主家・少弐家を凌ぐほどの勢力に成長させた傑人。老齢にて災厄に襲われるも、膝を屈することなく立ち向かった。

 1454年、九州は、肥前の国の北東部の大名・少弐家の家臣である、龍造寺康家の子として生まれる。

 家兼は、康家の五男坊であったので、そもそもは、龍造寺家の家督を継ぐとか、そういう立場にいる人ではなかった。
 父・康家が、隠居して、居城である村中城を離れ、その近くに水ヶ江館を建てて移り住むと、家督と村中城は、家兼の兄である、家和が継いだ。
 このころの家兼は、あくまでも龍造寺一門の一人に過ぎず、少弐家中でも龍造寺家中でも、特に目立つ存在ではなかったようだ。

 1510年、父・康家が死去。
 家兼は水ヶ江館を受け継ぎ、分家を興す。ここに、本家である村中城の村中龍造寺家の他に、もう一つの小さな龍造寺家、水ヶ江龍造寺家が誕生したわけである。
 2つの龍造寺家は、共に少弐家に仕え、主家を盛り立てていく。
 この、分家創設の時点で、家兼は、すでに57歳。もうだいぶ、いい歳である。

 水ヶ江龍造寺家の当主となった家兼は、水ヶ江館の改修工事に着手する。
 これにより水ヶ江館は、規模も防御力も格段に大きくなり、そのうちに、水ヶ江城という名で呼ばれるようになった。

 大きくなったのは、何も、本拠地の建物だけではなかった。
 少弐家中における、家兼自身の役割や権勢も、日を追うごとに大きくなっていった。
 一つの家の長という地位を手にした彼は、それまでの立場では、なかなか表に出す機会に恵まれなかった、武将としての才を、存分に発露。主君・少弐資元からその実力を認められ、いつの間にやら、家兼率いる水ヶ江龍造寺家は、少弐家中において、本家である村中龍造寺家に匹敵するほどの勢力を持つまでになったのである。

 1528年、家兼の兄である、村中龍造寺家の当主・龍造寺家和が死去。家和の子・胤久が、その跡を継ぐ。
 家兼は、この、まだ比較的若い胤久を、老獪さでもって優しく寄り切り、村中龍造寺家の様々なことに介入。本家の新当主の補佐をするという名分で、事実上、村中龍造寺家の運営をも取り仕切ることになる。
 この辺りをもって、龍造寺の本家と分家の力関係は、完全に逆転したと見なして良さそうだ。

 1530年。周防を本拠に、中国地方・九州地方に跨がる一大勢力を持つ、大大名・大内義隆の、その重臣である、杉興運が、肥前の東隣の筑前より、陸路、少弐領に攻め込んでくる。義隆め、少弐家を討ち、その領土を我が物にしようというのだ。
 主君・少弐資元の命を受け、家兼は、同僚である馬場頼周らと共に、これを迎撃する。田手畷の戦いである。
 1万対1万という、互角の兵力同士で行われたこの戦い、当初は、侵攻の勢いに乗る大内勢が優勢であった。
 しかし、家兼に味方していた、水ヶ江城近隣の土豪である、鍋島清久・清房父子(鍋島直茂の祖父と父)の奇抜な活躍により、流れがガラッと変わる。
 鍋島父子の一団は、200名ほど。初め、清久率いる彼ら土豪衆は、戦場の外に身を潜め、待機していたのだ。赤毛の長髪のような、「赤熊」なる被り物を被り、顔には鬼の面を装着するという、化け物のような、あるいは祭りの催し物のような、とにかく場違いな格好で、待機していたのだ。
 そして、家兼ら少弐勢が、だいぶ押されて押されて、状況が危うくなったところで、一気に飛び出し、大内勢に突入したのである。

 大内の連中は、何が起こったのか理解できず、動きが止まる。中には、祭りでも始まったのかと勘違いする、のん気な兵すらいたようだ。
 その間にも、赤熊衣装の鍋島隊は、大内勢の中にカンカンと分け入り、グングンと敵兵を斬り伏せていく。大内の軍勢は、瞬く間に、崩れ始める。
 この機を逃さず、家兼は、反撃に転じる。率いる龍造寺隊1000にて、大内勢に体当たり。激しい突きを打ち込みまくったのだ。
 負けてはおれぬと、馬場頼周ら、その他の少弐勢も、後を追いかけ、敵勢を攻め立てる。
 これら猛攻撃の前に、大内勢は総崩れ。多数の将校が討ち死に。総大将の杉興運は、筑前へと敗走していった。
 大勝利。龍造寺隊だけで、800もの首級を挙げたといわれるほどの、大勝利であった。

 この、勝ち戦を演出した功績により、戦後、家兼は、少弐家中での地位を、さらに上昇させた。
 ついに、少弐家の筆頭重臣にまで、出世したのである。

 それから、もう一つ。あの人たちだ。
 忘れてはいけないのが、独特の戦いっぷりで家兼を助けた、土豪の、鍋島清久・清房父子である。
 家兼は、この親子の実力を認め、深く感謝。自身の家臣として、迎えることにした。
 それも、ただの家臣ではない。家兼は、まだ若武者であった清房に、自らの長男・家純の娘、要するに自分の孫娘を嫁がせ、親族として、この親子を招き入れたのである。
 以降、鍋島家は、龍造寺の柱石となる。

 1533年、またもや大内家が、少弐領である肥前北東部に攻め入ってくる。今度の総大将は、陶興房。やはり大内義隆の重臣であり、しかも、この前の杉興運より、格上の奴である。
 この興房による侵攻も、もちろん、防がねばならない。今回は、少弐家当主である少弐資元が、自ら兵を率い、迎え撃つ。
 が、結果は惨敗。資元は、居城・勢福寺城に逃げ帰って籠もり、重苦しい空気の中、少弐家のこの年は暮れてゆく。

 明けて1534年。いよいよ、少弐家攻略に本腰を入れる陶興房。一発逆転を狙い、大技を仕掛けたのは、龍造寺家兼であった。
 彼は、ある嵐の日に、ひっそりと出陣。大内勢の本陣に、夜襲を敢行したのだ。
 家兼は、夜の闇と激しい風雨の中、大暴れ。陶興房の本隊を、徹底的に打ちのめす。この時の家兼の年齢は、81歳。なんとも、パワフルなジジイである。
 無残な敗北を喫した興房は、命からがら、肥前から撤収していった。
 また、手柄を立ててしまった。家兼の、少弐家中での存在感は、さらに肥大化していく。

 その年のうちのことである。今度は、大内義隆が、自ら九州までお出まし。3万の大軍を率いて、少弐領へと進撃してくる。とうとう、本気を出してきたというわけか。
 だが、こうやって、武力を用いて少弐家を制圧するという、強い意思を見せつつ、同時に義隆は、話の分かる雰囲気をもチラつかせてくる。龍造寺家兼に声をかけ、彼を窓口に指名した上で、「条件次第では、少弐家と和議を結んであげてもいいよ」と、述べてきたのである。
 さすがに今回は、戦っても勝ち目は薄い。家兼は、義隆からの申し出の件を少弐資元に報告し、大内家と和議を結ぶことを進言。資元は、ウンウンと頷く。
 こうして家兼は、少弐家を代表する形で、大内家との和睦交渉を開始。この交渉を通じて、個人的に、結構、大内家と親しくなったみたいである。
 大内義隆としても、少弐はともかく、家兼とは、お友達になっておきたいところ。敵に回すと手強いのは、知ってるからね。
 結局、交渉は、家兼の頑張りのおかげもあり、どうにかまとまる。本拠地である勢福寺城を差し出すという、少弐家にとって、かなり苦みの強い条件を飲むことにはなったが、和議は確かに締結。大内軍の本隊は、肥前から去っていった。
 その間、少弐資元は、ひたすらウンウンと頷き、家兼に全面的に従っていただけである。これじゃもう、どっちが殿様なんだか、分からんぞ。

 次の年、1535年。家兼は、7歳になる自身の曾孫・長法師丸を、水ヶ江城のすぐそばにある宝琳院という寺に預け、出家させる。仏門に入った長法師丸は、円月と名乗る。
 家兼さん、この曾孫の才を見抜き、名僧になる大器であるとし、寺に入れたのだという。
 でも、そんなに器が大きいなら、名僧じゃなく、名将にもなれるだろうに。龍造寺家にとって、もったいないことをしてる気もするが、もしかしたらこれ、家兼は、分かっていて、わざとやったのかもしれない。
 武士の世界は、愚かな世界。ろくでもない争いばかりだ。将来有望な子だからこそ、修羅の道を行かず、仏の道にて、穏やかに生を全うしてほしいと、そう、思ったのかもしれない。

 同年、少弐家との間に、間違いなく和議を結んだはずの大内義隆が、ふざけたマネをしてくる。
 軍事力で大幅に優位に立っているのをいいことに、いきなり、少弐資元の直轄領を横領し始め、ほとんど全ての土地を奪い取ってしまったのである。
 この、許されざる動きを目の当たりにして、家兼が何をしたかというと、たまげたことに、何もしなかった。大内家に対し、抗議の一つもすることなく、ただ黙って、事態を静観した。
 少弐家中最大の実力者がこの態度では、その他の少弐家臣たちも、資元も、どうすることもできない。家兼の力がなければ、少弐家は、大内家に逆らうことなんてできないのだ。みんなで指をくわえて、大内の暴挙を見つめることしかできなかった。

 そして、翌1536年。ついに大内義隆は、公然と和議を破り捨てる。弱体化した少弐資元を、 陶興房の軍勢に攻撃させたのである。
 大変な状況だ。だがなんと、事ここに至ってもなお、家兼は何もせず、静観を決め込んだ。そんなわけだから、やはり今回も、多くの少弐家臣たちは、どうすることもできない。一部の忠臣たちは、それでも主君を守るために戦ったようだが、そんな程度では、どうにもならない。
 少弐資元は、梶峰城という城に籠り抵抗を試みたが、あえなく敗れ、自害して果てることになった。

 この、少弐家の受難の際の家兼の態度は、あまりにも、ヒドい。まるで、謀反みたいである。表面的な部分を眺める限りでは、大内家と裏で通じて、主君・少弐資元を自害に追い込んだようにしか、見えない。
 だけど、本当のところ、これはいわゆる謀反なのかというと、それはまた、ちょっと違う気がする。
 だって、もし家兼に、少弐家に背くという明確な意思があったのだとしたら、大内家の行動を黙認するなんていう、そんな中途半端なやり方、したとは思えない。こんなの、大内家と一緒になって資元を討ちに行けば、それで良かっただけの話なのだ。なにしろこのジジイは、パワフルなジジイだしね。
 それに家兼は、この、資元の横死後も、少弐家の家臣という立場を、崩していないのである。今回の危機から辛うじて逃げ切り、少弐家を継いだ、資元の子・冬尚のことを、その後もちゃんと、主君として仰いでいるのだ。

 きっと、家兼の中には、葛藤があったのだろう。
 力無き少弐家に代わり、強豪・大内家と親密で、将才も豊かな自分が、肥前北東部の親分になるべきなんだ、という気持ち。
 一方で、それとは矛盾する、主家・少弐家のために働きたい、少弐家に滅んでもらいたくない、という気持ち。
 これら二つの相反する思いが衝突し合い、彼を、この、消極的な謀反ともいえるような、静観の世界に駆り立てたのではなかろうか。たぶん、そんなところだろうと、思うのだ。
 だが、そんな、家兼の個人的な葛藤なんぞ、その他の多くの少弐家臣たちには、全然関係がない。少弐家臣団の中には、静観野郎と化した家兼のことを白い目で見る者も、大勢いたみたいである。
 中でも特に、少弐家に対し偏執的なまでに忠誠を誓う、馬場頼周などは、この、静観野郎化の一件以降、家兼のことを徹底的に軽蔑し、憎悪するようになったようだ。

 1538年、家兼は、水ヶ江龍造寺家の家督を、次男である家門に譲り、隠居をしたという。ようやっと、である。
 長男の家純ではなく、次男の家門を後継者としたのは、家純が、病気がちであったためだそうだ。
 なお、このご隠居。家督を譲渡したのは、あくまでも自家の未来を見据えてのことだったのだろう。実権のほうは、ちっとも手放さない。とてつもないジジイだぜ。

 また、この時に家兼は、出家も、した。
 法名は、剛忠。わざわざ、「忠」なんて字を入れてくるあたりに、少弐家に対する、彼の複雑な思いが窺える。

 1542年、剛忠こと家兼は、本拠らしい本拠もなく少弐領内で佇むばかりあった、か弱き主君・少弐冬尚のために、骨を折る。
 どんな技を使ったのか。少弐家のかつての本城・勢福寺城を、大内家の手から取り戻すと、冬尚を、この城の城主の座に落ち着かせて差し上げたのだ
 大内家とも仲良しである家兼が、今回は、完全に少弐家の味方に。やはり、少弐家のために動き回る姿こそが、この人の本質であったということか。いろいろと、葛藤もしたけれども。どうやらどうやら、このまま、少弐家の良き老臣として、余生を穏やかに過ごせそうな雰囲気である。

 ところが、1545年。途方もない惨劇が、家兼の身に降りかかる。
 例の一件以来、家兼のことを激しく憎み続けていた、馬場頼周が、ついに牙を剥いたのだ。
 まずは頼周、策を用い、巧みに水ヶ江龍造寺家の力を削ぐ。その上で、少弐家臣団内にまだ多くいる、家兼のことを白い目で見ている連中の力を糾合し、水ヶ江龍造寺家の本拠・水ヶ江城を攻囲。籠城する家兼に、開城を勧告する。
 頼周は、「家兼に謀反の疑いがかかっている」とし、自分はその討伐を命ぜられ、やってきたと主張。身の潔白を証明するため、すぐに城を明け渡し、主君・少弐冬尚の元へ釈明に向かうべきだと続ける。
 この、忠義に訴えかける勧告手法に、かつて葛藤もした、心中の繊細な部分を突かれたのか。家兼は、降伏することを決意。多くの、水ヶ江龍造寺一族の皆さんと共に、ほぼ丸腰状態で、城を出る。

 そんな、無防備で無抵抗な家兼一族に、なんと頼周は、非道にも襲いかかったのである。
 襲撃により、家兼の長男の家純と、次男の家門、家純の子である周家(円月の父)・純家・頼純、家門の子である家泰らが、悉く殺害される。
 家兼自身は、なんとか危地を脱出。宝琳院に預けられていた、曾孫・円月の手を引いて南東方向へ転がり、肥前の隣国である筑後へと落ち延びていった。

 一族の大半が殺されたが、家兼は、奇跡的に生き残った。もしかするとこれ、家兼を徹底的に憎む馬場頼周が、わざと逃げる隙を与えた、ということなのかもしれない。家兼に、死ぬよりツラい目を見せるために。
 家兼はこの時、92歳。さすがにもう、武将としては戦えないだろう。あとはただ、お迎えを待つばかりのはず。一族ほとんどが皆殺しにされた世界で、生き地獄を味わいながら、惨めに死んでいけばいいのだ。アヒャヒャヒャヒャ。
 確かに、そうである。これが普通のご老体なら、こんな目に遭えば、心身共に壊れ果て、そのまま人生を終えてしまうことだろう。
 だが、馬場頼周が、そんな認識でいたのだとしたら、甘かったといわざるを得ない。
 龍造寺家兼は、ただのジジイなんかじゃない。
 ものすごい、ジジイなのだ。

 家兼は、筑後の国人領主であり、義侠心に富む人物として知られる、柳川城主・蒲池鑑盛を頼り、その保護を受ける。
 柳川の地にて彼は、馬場頼周の卑劣すぎる行いに身を震わせ、
「この老身の余命を縮めてでも、肥前に帰る。だがその時は、間違いなく、頼周の首を討つ時だ」
 と、誓いを立て、3日間にわたり断食をしたという。

 殺気に満ち満ちた彼は、水ヶ江城近くに残る、自身の信頼できる配下・鍋島家と緊密に連絡を取る。
 時の鍋島家当主は、鍋島清房。先年他界した、先代・清久の息子。いわゆるあの、家兼の、孫娘の旦那である。来るべき時が来た際には、力になってくれるに違いない男だ。

 そして、翌1546年。家兼は、 蒲池鑑盛・鍋島清房の支援を受け、93歳にして、決起する。
 兵を率いて肥前に入ると、まずは、居城であった水ヶ江城に向かう。
 水ヶ江城は、馬場頼周の勢いに丸め込まれた少弐冬尚により接収されており、少弐家臣が詰めていたが、家兼勢が現れると、ろくに抗戦もせず、城を明け渡した。
 本拠を奪還した家兼は、この地元にて、自身に味方してくれる者たちと合流。そのまま、殺意に体を燃え上がらせながら、頼周の所へ斬り込んでいった。
 ジジイの憤怒は天を衝き、もはや、夜叉か羅刹のようである。子や、孫たちのカタキだ。馬場頼周、絶対にブッ殺してやる。

 馬場頼周は、築城中の、祇園城という城の普請現場に、いた。
 家兼は、そこを強襲。マトモに防戦もできぬままに頼周は敗れ、居城である綾部城を目指し、逃げていく。
 それを猛追撃する、家兼勢。道中にて頼周を捕捉すると、その首を、討ち落とした。
 終わった。カタキは、取った。

 短期間のうちに、激しい出来事が、ありすぎた。水ヶ江城に復帰した家兼は、すっかり燃え尽きて、灰のようになってしまった。寿命が、50年くらいは縮んだのだろう。
 最期の時が近いことを悟った家兼は、鍋島清房ら家中の者たちに、遺言を残す。
 仏門に入っている、曾孫の円月を還俗させ、水ヶ江龍造寺家を継がせよ、と。
 円月は、名僧となる器であるとして、かつて、家兼自身が、寺に預けた子である。しかし、その時とは事情が変わった。一族ほとんどが死に絶え、このままでは、家は滅びてしまう。円月には、名僧になる道を捨て、その大器でもって、名将となり、家のために戦って生きていってもらうしかない。
 それに、何が、何が仏の道だよ。所詮世の中は、血にまみれた、ろくでもないもの。凶刃に倒れた一族の、真っ赤な流血が、それを示してくれたじゃないか。

 家臣たちに後のことをしっかり託すと、同年のうちに家兼は、その生涯を閉じた。

 家兼の遺言の通り、水ヶ江龍造寺家は、還俗し、名を龍造寺胤信と改めた円月が、継いだ。
 後年、さらに名を改めた彼は、肥前の熊・龍造寺隆信として、九州の戦国時代に、大きな足跡を残すことになる。


(おしまい)


おまけ写真

龍造寺家兼の墓
(佐賀県佐賀市 高伝寺)
撮影日:2007年9月11日
周辺地図

高伝寺に建つ、龍造寺家の偉大なご長寿・家兼の墓。
この寺の創建者は、家兼の孫娘を娶った、鍋島清房である。

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