長尾上杉家臣。為景・晴景・謙信の3代に仕える。柿崎城主。
通称は弥次郎。官職は和泉守。
上杉四天王の一人。猛者揃いである上杉謙信の配下の中でも、最強を誇った戦闘隊長。前だけを見据えて突き進むその突撃は、立ちはだかる敵を木端微塵に粉砕した。
越後の国人領主である、柿崎城主・柿崎利家の子として、1513年に生まれたという。
1536年、守護である上杉家を蔑ろにし、越後国主として振る舞う、守護代・長尾為景と、それが気に入らない、上杉家の一門・上条定憲との間で、戦いが起こる。
上越後の国人領主の一人として、それなりの独立性を保ち、割とフリーダムに暮らしていた景家も、この争いに巻き込まれ、上条勢に加わって戦場に赴くことになった。
ところが景家、敵である長尾家の未来に、明るいものでも見ちまったのだろうか。初めこそ、上条方としてマトモに戦っていたものの、突如として、部下たちと共に長尾勢に寝返り。背後から上条勢に襲いかかり、これをケチョンケチョンに叩き潰してしまった。
この、三分一原の戦いの勝利に貢献して以降、景家は長尾家に臣従。その忠実な家臣となる。
長尾家での景家は、主に戦で力を発揮。その勇猛さは、「鉄をも貫く」と言われ、数多くの合戦に、先鋒大将として参陣。軍装を黒で統一した軍勢を率いて突撃し、敵勢を散々に打ち破った。
勇名は近隣に轟き、その名前を聞いただけで、戦場から逃げ出す敵も大勢いたという。
1542年、景家は、越後を代表して、陸奥の戦国大名である伊達家との、養子縁組の交渉役を務める。
この当時、伊達家と、越後守護の上杉家との間にて、「伊達家当主・伊達稙宗の息子である実元を、上杉家当主・上杉定実の養子にする」という話が、持ち上がっていたのである。
一見これは、景家たち長尾家の人間には関係のない話のように思えるが、このころの上杉家を操縦していたのは、実質的に長尾家。そんなわけで、長尾家臣である景家が、その交渉役を担うことになったのだ。
重要な外交の場を任されるとは。この人、単なる猪武者ではなく、なかなかに頭の良い男であったようだ。
ちなみに、結局この養子縁組の話は、伊達家中で内紛が発生したことにより、交渉途中で消滅してしまうのだが、もちろんそこに、景家の責任はない。
1545年、長尾家臣である黒田秀忠が、長尾家に対して反乱を起こす。
景家は、秀忠の娘を妻としていたのだが、岳父には協力せず、長尾家に味方。そればかりか、「謀反人の娘など我が家にはいらん」とばかりに、妻と離縁。柿崎家から追い出してしまう。
景家夫妻はおしどり夫婦であったというから、彼にとっては苦しい決断だったろうが、景家は、夫婦の情よりも、主家に対する筋を通すことを優先させたのである。
その後、黒田秀忠の起こした乱は、時の長尾家当主・長尾晴景(為景の子)の弟である景虎によって、鎮圧されることになる。
なんとか命だけは助けられた黒田秀忠だったが、翌1546年、懲りずに再び謀反。今回も、長尾景虎が兵を率いて対応。2度目はさすがに許されず、戦いに敗れた秀忠は、景虎によって一族もろとも自害に追い込まれ、黒田家は滅亡してしまう。
この乱が平定されたあたりから、長尾家中にて、長尾景虎を当主に据えようという動きが起こり始める。一部の家臣たちから、「病弱で頼りない現当主・晴景には引退していただき、黒田討伐で活躍した景虎に、新当主となってもらおう」なんて声が上がり始めたのだ。
家臣団の気持ちがパカッと割れる中、景家は、景虎を支持。鉄をも貫く猛将は、戦の天才としての片鱗を見せ始めていた、長尾景虎を選んだのである。
結局、長尾晴景は、弟・景虎を擁する一派の意見に押し負け、隠居。景虎が、新たな長尾家当主となる。1548年のことであった。
自ら選んだ新しい主君の下でも、景家は、戦場を主戦場として、存分に働いた。その勇名は、ついには遠く中国地方にまで聞こえ出したというから、驚きだ。
「軍神」とさえ呼ばれることになるほどの戦の匠である景虎も、そんな彼の力を認め、
「景家に分別さえあれば、越後で彼に勝てる者はいないだろう」
と、評したという。
かなりの高評価であるが、しかし気になるのは、「分別さえあれば」と、先に言い置かれている点である。景家は、外交官を務めたり、主家のために妻と別れたりするほどの男なのだ。そんなの、分別がない奴にはできない芸当だろう。
おそらく、柿崎景家という男は、分別は人一倍わきまえているものの、一旦、その分別にかなう、正しいと信じる道を見つけると、周りを見失って、どこまでも突っ走ってしまうタイプだったのではなかろうか。戦場でも、そういう悪癖が垣間見えたのだろう。その様が、景虎たち周囲の人間には、かえって無分別であるかのように映ってしまった、と。なんだか、そんな感じがする。
1552年のことだとされる。景家の主君・長尾景虎が、長尾家に人質としてやってきていた、敵将の娘・伊勢姫と恋に落ち、プラトニックながら、ラブリーな関係に陥ってしまったらしい。
この出来事に、景家は大いに怒り、
「敵方の娘とデキるなんて、絶対にダメ。国が滅ぶ元ですぜ」
と、景虎を強く諌め、半ば強引に、二人を引き離してしまった。筋を通すために妻と離縁した景家らしい、一本筋の通った行いではある。
国元に帰された伊勢姫は、失意のまま出家。涙に暮れて過ごし、ほどなく自害してしまったという。
その悲報を聞いた景虎は、深く嘆き悲しみ、食事も喉を通らないような状態になってしまったらしい。可哀相な話だ。
1558年から、景家は、越後の国政に関わるようになる。長尾景虎政権の、中心メンバーの一人になったというわけだ。
政治家としても、主君に認められるとは。やっぱりこの人、バカじゃねえんだな。
1561年、信濃にて、第四次川中島の戦いが起こる。
景家の主君である上杉政虎(長尾景虎から改名)と、その最大の宿敵・甲斐の武田信玄。これまでも、信州を巡って争っていた二大巨頭が、ついに全力で大激突したのだ。
戦闘は、川中島を覆う霧が晴れたことをきっかけにして、開始された。真っ先に動いたのは、兵力1万3000を擁する上杉軍の、その先鋒。景家率いる、柿崎隊1500であった。
漆黒の軍装に身を包んだ柿崎隊は、武田信繁隊700目がけて、突撃、突撃、猛突撃。とてつもない猛攻に、武田信繁隊どころか、信玄以下8000の武田軍そのものが激しく揺さぶられ、あわや壊滅寸前にまで陥る。
しかし、いつもの悪いクセ。目の前の敵に集中するあまり、景家は、武田勢の中に深入りしすぎてしまったのだろう。敵の飯富昌景隊に横から突かれ、柿崎隊は後退。惜しいところで、後続の友軍に道を譲らざるを得なくなってしまう。
だが、ただただ、後ろに下がって終わりではない。上杉勢に一矢報いようと、武田信玄の軍師・山本勘助が、200程度の手勢と共に突っ込んでくると、これに応戦。見事にその首を討ち取った。
この激戦、途中までは、上杉勢の優勢で進んだのだが、武田軍の別働隊1万2000が到着したことにより、流れが変わる。
戦況の不利を悟った上杉政虎は、早々に撤退を決断。結局、政虎・信玄の両雄は雌雄を決するに至らず、この戦いは、引き分けに終わった。
1569年、上杉家は、関東に根を張る北条家と、同盟を結ぶ。
この同盟の締結交渉の、上杉家側の代表を務めたのが、またもや、景家であった。
今回景家は、北条家当主・北条氏康の子である三郎を、上杉輝虎(政虎から改名)の養子として迎え、上杉家に人質に取る代わりに、自身の子である晴家を、北条家に人質に出すこととし、話をまとめた。人質交換作戦だ。
主家のためなら、家族の犠牲も仕方なし。相変わらず、一本筋を一直線である。
それにしてもビックリなのは、上杉家の一家臣にすぎない景家の息子が、北条家当主の息子との、トレード対象の人質さんになり得た、ということ。このころの景家は、上杉家において、それほどの重鎮となっていたのだ。
1573年、上杉謙信(輝虎の出家後の名前)は、越後の西隣の、越中に出兵。反抗的な態度を取る、神保家や椎名家、一向一揆などと戦う。
この時も景家は、上杉軍の先鋒を務め、真っ先に敵に突っかかっていった。
その越中にて、とある城を攻めた際のことである。
景家の家来の一人が、弓で左手を射られながらも果敢に戦い、敵将の首を一つ取った。そうしてその首を、喜び勇んで景家の元へと持参する。片腕に、矢が突き刺さったたままの状態で。
家臣の、こんな立派な戦いぶりに、なぜか景家は、キレちまった。
「てめえ! 今は大事な戦闘中だぞ! 兜首一つ取ったぐらいで、いちいち後ろに引き返して来るんじゃねえ! 手柄なら、後でいくらでも褒めてやる。今は、目の前の敵をブッ潰すことだけを考えろ!!」
毎度毎度、アホみたいに一直線に、敵陣に突っ込んでいく景家。彼にそんな戦い方をさせていたのは、前しか見られない性格ばかりではなかったのだ。そこには、百戦錬磨の戦闘隊長としての、相応の信念があったのである。
そんな景家を、1575年、悲劇が襲ったとされる。
この年、まだ越中に在陣していた景家は、所有している馬のうち、不要なものを処分しようと考え、人づてに、京都のほうに売りに出したのだという。
それを買ったのが、当時、京を押さえていた、大大名・織田信長。馬の購入後、信長は、景家に宛てて、お礼の手紙と品物を贈ったらしいのだが、景家は、その、信長からの返礼の件を、主君である上杉謙信に報告しなかったそうなのである。
当時、上杉家と織田家は敵対関係にはなかったが、潜在的には、敵同士と言える関係。そんな相手に良くしてもらっておいて、ちゃんと事情を説明しないでいたらば、周囲で良からぬ噂が立つのは明白。「柿崎景家殿が織田家と内通している」とか、そういうデマが広まり、そのうちに、謙信公の耳にまで入ってしまうことになる。
信長の狙いは、まさに、それであったのだ。遠い国まで名前の轟いた猛将だが、分別に欠けているという評判の景家にちょっかいを出し、君臣の仲を裂いて、将来、敵となる可能性の高い上杉家を、弱体化させようしたのである。
謙信は、さすがに景家が裏切ったなどとは思っていなかったろうが、しかし、このまま、こんな困った奴を放置しておいては、他の家臣に示しがつかないし、道理を重んじる謙信自身としても、我慢がならない。
結局、景家は、謙信によって誅殺されることになってしまったのだという。
景家にとっても、謙信にとっても、無念極まる結末だ。
処刑される直前、景家は、
「この程度の謀略に引っかかるようでは、上杉家の未来は真っ暗だぜ」
と、言い残したとされるが、残念ながらどう見ても、一番豪快に引っかかっちまってるのは、アンタ自身である。
あまりにも程度の低いミスで、命を落としてしまった景家。主家のため、真っ直ぐに生きてきた彼は、主君である謙信から、絶対の信頼を寄せられていると、確信していたのだろう。自分と殿様との間柄であれば、堅苦しい報告など不要。そう、頑なに信じて疑っていなかったのだろう。その一途な思い込みが、命取りとなってしまったというわけだ。
とはいえ、いくらなんでも殺してしまうなんて、犯した罪に対して、罰が重すぎる気がする。
もしかすると、景家の不手際を知った謙信の脳裏に、ふと、かつて失った伊勢姫のことが去来したなんてことも、あったのかもしれない。
いずれにしても、この、柿崎景家の死は、長年、主君のために力を尽くしてきた老将の最期としては、あまりにも浮かばれないものであった。
(おしまい)