戦国人物伝


吉乃
(きつの)

1528年〜1566年

異名:――――

 尾張の戦国大名であった、織田信長の側室。
 織田信忠・織田信雄・五徳姫らの母。
 名は類とも。
 母の愛を得られなかった信長を、優しく包み込んだ、年上の奥方様。信長の、生涯最愛の女性であったといわれる。

 尾張国北部の土豪である、生駒家宗の娘として、1528年に生まれたという。
 生駒家は、一介の土豪ではあったが、肥料の原料や油などの販売や、馬借業などを大規模に営む、とても裕福な家であったという。
 その商売柄、生駒家が居を構える生駒屋敷は、たくさんの人や情報が行き交う場所となっていた。そしてまた、そこに行き交う情報を求め、多くの人が出入りを繰り返す。吉乃が生まれ育ったのは、そんな賑やかな家であった。

 やがて、優しく美しい娘さんに成長した吉乃は、生家を離れ、嫁いで行く。お相手は、尾張の北隣・美濃国の土豪。美濃中部地域の、南の端っこ。尾張との国境あたりに住まう、土田弥平次という侍であった。
 ちなみにこの弥平次、実は、吉乃の又従兄弟にあたる人物なのだという。当時としては、そう珍しくもない話。親戚同士で、結婚したというわけですな。

 めでたく、土田弥平次のとこに嫁いだ吉乃であったが、1556年、別れは、いきなりやってくる。
 美濃の支配者であった、父・斎藤道三を討ち、新たな美濃のボスとなった、斎藤高政。その高政が、配下に命じ、父・道三派であった、美濃・明智城の明智光安を攻撃。明智城のご近所に住み、明智家と親交の深かった土田弥平次は、救援に向かい、明智家の皆さんと共に、明智城に籠城。そうしてそこで、戦死を遂げてしまったのである。
 不慮の出来事にて、夫を亡くした、吉乃。結婚してから、それなりの月日が経っていたとは思われるが、彼女と夫との間には、残念ながら、子がなかった。つながりを失い、土田家での居場所を無くした彼女は、実家である生駒屋敷へと、帰されることになった。

 傷心の吉乃を迎えた生駒屋敷は、相変わらず、人々が行き交う賑やかな場所であった。
 このころ、情報収集などの目的のため、この屋敷に頻繁に顔を出していたのは、尾張南部の若き戦国大名である、織田信長。それから、この屋敷の近隣の土豪であり、川並衆という荒っぽい武士団の頭目である、蜂須賀小六や、小六の配下である、ひょうきん者の木下藤吉郎。といった面々であったという。
 その中でも、断然に、吉乃と深い仲になったのは、織田信長であった。
 実家に出戻ってきたばかりの、吉乃。この心優しい女性に、信長は、すぐに惚れてしまい、気づけば二人は、恋仲になっていた。
 実は吉乃は、信長の母・土田御前の、又従姉妹にあたるのだという。そして信長は、幼少のころより母から疎まれ、愛されずに生きてきた。彼は、とても甘えん坊で聞かん坊で暴れん坊で、それなのに、実母にすら甘えることができないままに、今日まで生きてきた若者なのである。
 この時、信長は23歳、吉乃は29歳。信長は、この、自身の母方の縁者、母の面影が浮かぶ、年上の優しい未亡人に、甘えたかった理想の母の姿を見たのであろうか。
 ちなみに、信長にとってはどうでもいい話かもしれないが、吉乃の亡き夫・土田弥平次は、信長の母・土田御前の、従兄弟にあたるらしい。なんだかみんな、親戚ばっかりですね。

 いざ、二人の仲が固まったならば、信長の行動は、速い。彼は、ササッと吉乃を、自身の側室に迎えた。正室としてではなく、側室としてであったのは、すでに信長には、濃姫という、正室がいたからである。
 こうして、吉乃を側室とした信長であったが、彼女を、居城である清洲城に迎え入れることは、しなかったという。彼女には、今まで通り生駒屋敷で暮らしてもらい、自らがそこに、足しげく通うというスタイルを選んだというのだ。
 この当時の価値基準で考えれば、信長くらいの立場の男が、幾人も側室を抱えるのは、当たり前のことである。何ら、社会的に後ろめたいことなどない。
 ではなぜ、信長は、こんな、人目を忍んだ逢い引き婚みたいなマネを選んだのだろうか?
 もしかしたら彼は、吉乃に、別世界での癒しのようなものを求めていたのかもしれない。
 日々の、ストレスあふれる戦国大名稼業の世界から切り離された、生駒屋敷の一室という別世界に赴き、心許せる吉乃に、たっぷり甘えたかった。もしかしたら、そんな気持ちが、あったのかもしれない。
 一方の吉乃のほうは、子も無いままに死別した、前の夫・土田弥平次と血の近い、この、年下のヤンチャな甘ったれのことを、どのように思い、愛でていたのだろうか。夫のように、だろうか。あるいは、子供のように、だろうか。

 さて、翌1557年。早くも吉乃は、信長の長男である、奇妙丸を産む。前の夫との間には、ついに恵まれなかった子宝だが、信長との間には、すぐに授かった。
 奇妙丸は、側室の子ではあったが、信長により、嫡男であるとされた。
 他ならぬ、吉乃が産んでくれた子であったからであろうか。

 1558年、吉乃は、生駒屋敷によくやってくる顔ぶれの一人であり、以前から交流のある人物である、木下藤吉郎の願いを叶えたのだとされる。
 彼の、「信長様にお仕えさせてほしい」という頼みを聞き入れ、信長に対し、是非とも藤吉郎を家臣にしてくれるよう、口添えをしたそうなのだ。
 そうして藤吉郎は、めでたく信長の家来となる。新たな主君の下、新たな人生を、出発させることになったのである。

 同年、吉乃は、信長の次男である、茶筅丸を出産。
 この年には、別の側室が、信長の三男である三七丸を産んでいるのだが、実は、この三七丸のほうが、次男・茶筅丸より、先に生まれている。しかしながら、母親の格の違いを理由とし、信長によって、茶筅丸が次男、三七丸が三男であるとされたのだという。
 やはり、信長にとって吉乃は、別格の存在だったっていうことかな。

 翌1559年には、信長の長女である、五徳姫を産む。実に3年連続の、出産である。
 ちなみに吉乃は、3人の子たちを、みんな、生駒屋敷で産んだのだという。そしてその後も、子供たちは、実母である彼女の膝下にて、育てられている。
 もちろん、織田家中の皆さんに対し、吉乃の子たちの存在が、秘密になっていたなんてことはない。なのに、信長が、子供たちを清州城に引き取って育てなかったのは、「優しさと母性あふれる、母・吉乃のそばで育ってほしい」と、そう、思ったからかもしれない。

 1565年、信長は、ついに吉乃を、自らの居城に招くことにする。
 吉乃は、嫡男・奇妙丸の母なのである。そろそろ、嫡男の御母堂様として、家臣たちにお披露目をしなければなるまい。
 このころの信長の居城は、尾張北部にある、小牧山城。生駒屋敷からも、ほど近い距離にある城である。先年、尾張を統一した彼は、次なる目標である美濃の攻略を見据え、美濃の近くのこの場所に、居を移したのだ。
 使者を通して、信長から招待された吉乃は、とても喜んだ。が、しかし、動くことができなかった。
 なんと彼女は、重篤な病により、臥せっていたのである。それも、ここ最近、ずっと。治るあてのない病で、食事もままならない日々を、過ごしていたのである。
 この時初めて、吉乃の身に、よろしくないことが起きていると知った信長は、すぐさま生駒屋敷に飛んでいき、彼女を見舞う。
 そしてその翌日、本来ならば彼女の身分では乗ることのできない輿を用意し、安静な状態を保ちつつ、丁寧に、小牧山城に移動させた。ここで、まずはゆっくり休んでもらい、さらに日を改めてから、織田家中のみんなに、彼女のことを紹介するのだ。
 そうして迎えた、家中一同へのお披露目の日。信長は、自ら吉乃の手を取り、支え、皆さんが待つ城内の広間へと、彼女を案内したのだという。

 お披露目の儀は、無事に終わる。そしたら信長、今度は吉乃に、療養に専念してもらう。皆さんへの紹介も大事だが、たぶん、信長が、多少無理をさせてでも、彼女を小牧山城に連れてきた一番の理由は、ここでじっくり、病を治してもらうことにあったのではなかろうか。生駒屋敷も良い所だが、織田家の本拠であるこの城のほうが、絶対に、医者や薬に不自由しないはずなのである。
 生駒屋敷には、帰さない。もはや、別世界がどうとかいっている場合ではない。吉乃の、命がかかっているのだ。
 療養に努める吉乃の元へ、信長は、しばしばお見舞いに訪れた。そのたびに彼は、彼女のために手厚く世話を焼き、二人は、とても穏やかな時間を過ごしたのだという。
 しかし、肝心の病状のほうは、一向に回復の兆しを見せない。吉乃は、どんどん衰弱していく。なんということだろう。

 そして、翌1566年。吉乃は、小牧山の城内にて、静かに息を引き取った。まだ、39歳であったという。
 彼女の死に、信長は、人目も全く気にせずに、ワンワン泣いたそうである。その涙は、葬儀が終わった後も乾くことはなく、たびたび彼は、小牧山城の櫓から、彼女の墓がある久昌寺のほうを眺め、メソメソと泣いていたのだという。

 しかし、やがて彼は起き上がり、力ずくで、悲しみを振り切ろうとする。
 以前から目標としていた、美濃の攻略に、心血を注ぐ。愛情を失った穴は、野望で埋めれば良いのだ。
 そうして織田信長は、吉乃のいない世界を、生きていく。美濃の平定、やがては天下の平定へと続く道を、突き進んでいく。
 時として、「魔王」と呼ばれることになる道を、突き進んでいくのである。


(おしまい)


おまけ写真

生駒屋敷跡
(愛知県江南市 布袋東保育園)
撮影日:2011年6月12日
周辺地図

愛する吉乃に会うため通い詰めた、織田信長の隠れ家の跡。
吉乃はここで、3人の子を産み、慈しんだ。

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