平手政秀

1492〜1553

異名:――――


 織田家臣。重臣として、信秀・信長の2代に仕えた。
 通称は五郎左衛門。官位は監物・中務丞。
 主に、財政・外交面でその手腕を発揮。信長の傅役として有名。

 彼は、茶道・和歌などに精通した、教養人であったらしい。
 1533年、尾張を訪れた、公家・山科言継に、その邸宅の風流度の高さを褒め称えられているほどである。

 信秀の嫡男・吉法師が生まれて以降は、傅役として、その養育を担当する。

 この吉法師、クソ生意気なガキであった。ルールの存在を知っていながら、そのルールを破ってみせるという不良少年で、政秀がいくらお説教をしても、全然、聞く耳も持ってくれなかった。政秀は、散々に手を焼かされたのである。
 しかし、マジメで責任感あふれる政秀は、それでも、諦めなかった。周囲の大人たちほとんどが、吉法師をバカ扱いし、見限る中、決して彼に愛想を尽かさず、根気良く諭し続けた。
 吉法師も吉法師で、素直に言うことを聞くことこそなかったものの、そんな一途な政秀を、心の中では慕っていたようである。

 元より、外交を主な活躍の場としていた政秀だが、教養の高さを買われてか、信秀から、朝廷外交をも任されていた。
 1543年に、織田家が朝廷に献金をした際、信秀の名代として直接禁裏に赴いたのは、彼である。

 1546年、吉法師が元服。信長と名乗るようになる。元服の後見役を務めたのは、政秀であった。

 1547年、今度は、信長、初陣を飾る。この初陣の後見人も、やはり、政秀が務めた。

 信長と、斉藤道三の娘・奇蝶(濃姫)との結婚を主導したのも、政秀であった。
 当時、織田家と、隣国美濃の斎藤家とは、非常に仲が悪かった。国内に不安を抱える双方にとって、無益な軍事的衝突が、繰り返されていたのだ。
 その状態を解消するための策として、政秀は信秀に、斎藤家と婚姻同盟を結ぶことを、提案したのである。
 実際に、斉藤家との交渉役を務めたのも、政秀。こうして1548年、彼の尽力で、信長と奇蝶は、めでたく、夫婦となったのである。

 長きに渡り、織田家のために信長のために大頑張り。信長からも信頼されていたはずの政秀だったが、あることをきっかけに、その信長との関係が、ギクシャクし始める。

 ある時信長が、政秀の長男・五郎右衛門に、言ったのだ。
「お前の持ってるその馬、いい馬じゃねえか。俺にくれよ」
 駿馬として知られていた、五郎右衛門の愛馬。信長は、それを欲しがったのである。
 だが、五郎右衛門は、断った。
「俺も武士ですから、この馬、仕事で使うんですよ。あなたにはあげられませんねえ」
 実に、嫌味ったらしい言い様であったという。
 このことを、信長は大いに恨んだ。信長と五郎右衛門の仲は、すんげえ悪くなった。信長と、五郎右衛門の父である政秀との間にも、気まずい空気が流れるようになる。

 そして1553年、平手政秀は、突然、割腹自殺を遂げてしまう。
 先代信秀が死に、家督を継いだにもかかわらず、一向に更生しない信長。そんな信長に、どうしても改心してもらいたくて、命を賭けて諫めたのだといわれる。
 しかし、裏には、彼が抱えていた孤独感もあったのではないだろうか。幼子のころから世話を焼いてきた、可愛い主君との仲が、冷たくなってしまったのだ。それが、自ら命を絶つことの手助けをしていたとしても、何の不思議もないであろう。

 政秀が、命まで捨ててダメ出ししたにもかかわらず、残念ながらその後も、信長の素行不良ぶりは、治まることを知らなかった。しかし一方で、信長が、彼の死を悲しんだことは確からしい。
 政秀の死後ほどなく、尾張国内に、その名も「政秀寺」という寺を建て、彼の菩提を手厚く弔ったのである。

 政秀の死から、かなりの歳月が経過。織田家が、畿内を平定し、ますます盛んになろうとしていたころのこと。ある、信長の近臣が、主君に媚びたつもりで、こんなことを言った。
「織田家がこんなにデッカくなることも知らずに、あっさり自殺しちゃった平手政秀は、バカでしたねえ」
 この、心ない言葉に、信長はキレた。
「バカ野郎! 俺がこうやって大勢力を築くことができたのは、全て政秀のおかげなんだ。政秀が死んだことで、自分の過ちを恥じ、不良から脱却したからなんだ。他に並ぶ者などいないほど立派な政秀を、バカ呼ばわりするお前らのバカさ加減が、この上なく悔しい」
 こんなこと言ってみても、実際には、政秀が死んだって不良から脱却などしていないのだから、全然説得力がないが、信長の、政秀を思う気持ちが伝わってくるエピソードではある。

 また、鷹狩りに出かけた際、鷹が獲ってきた獲物の肉をちぎって、
「政秀、これを食え」
 と言って天に向かって投げ、涙ぐむなんてことも、信長にはたびたびあったという。
 いくら死人だからって、生肉を食えというのは酷な話だが、やはり、信長の気持ちは伝わってくる。
 信長にとって政秀は、なんだかんだ言っても、終生忘れ得ぬ、大好きな「じい」だったのだろう。

(おしまい)



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