細川政元

1466〜1507

異名:半将軍


 応仁の乱の東軍の総大将であった、管領・細川勝元の子。
 幼名、聡明丸。通称は九郎。官位は右京大夫。
 「半将軍」と称されるほどの権力を持った、室町幕府の管領である。

 1467年から始まった、応仁の乱。その真っ最中の、1473年、父・勝元の病死により、わずか8歳で家督を継ぐ。しかし、管領職の方は、幼すぎたために継承することができず、彼の代わりに、東軍・畠山政長が就任している。
 ちなみに、同年には、西軍の総大将・山名宗全も病没している。

 翌1474年、東軍の総大将(もちろん、まだ坊やなので、名前だけである)として、西軍の新たな総大将となった、山名宗全の息子・山名政豊との間に、和議を結ぶ(もちろん、まだ坊やなので、政元本人の意思でやったわけではない)。
 ところが、せっかく両主催者が和睦してあげたのに、乱は、ちっとも治まってはくれない。すでに、応仁の乱は、細川・山名両家でどうにかできる規模の争いではなくなっていたのだ。

 応仁の乱が、事実上終結したのは、1477年になってからであった。この年に、西軍・大内正弘が、本国の周防に撤退、それをきっかけに、多くの大名たちが、京都から撤収、ようやく、都に平穏が訪れたのだ。
 しかし、その都も、すでに、町というより焼け野原。どうしようもない光景が広がっていた。

 大きくなった政元は、1486年、やっと、管領に就任することができた。

 1487年、9代将軍・足利義尚が、生意気な六角高頼を討伐することになった際、政元はこれに反対、同行を拒否している。戦乱で威勢を弱めた将軍の、その意向なんぞ、気軽に無視できるだけの力を、管領・政元は持っていたのだ。
 それどころか、なんと政元は、裏で、六角側と通じていたのである。そうすることによって、将軍の力を、抑え込もうとしていたのだ。なかなか、けしからん奴である。

 1489年、将軍・義尚が、六角攻めの陣中にて、25歳の若さで病没すると、政元は、その後継者に、足利政知の子・清晃(後の足利義澄。以降、義澄と呼ぶことにする)を推す。それに対し、足利義視の子・足利義材を推したのが、義尚の母・日野富子であった。
 結局、10代将軍は、足利義材に決定した。さすがの政元も、日野富子が相手では、分が悪かったのだろう。
 義材と政元の関係は険悪で、以降、新将軍のもとで、畠山政長が力をつけることになる。

 1493年、不満でプンプンの政元は、ついに、ことを起こす。将軍が京にいない隙を狙い、クーデターを決行したのだ。義材を勝手に廃立し、義澄を11代将軍としてしまったのである。
 畠山政長は、政元の派遣した軍勢に追い詰められ、自害。義材は、政元によって幽閉されることとなった(後に脱走したけどね)。
 「明応の政変」と呼ばれるこの事件は、将軍が、配下の気持ちしだいでどうにでもできる、単なるお飾りであることを、世の人々に知らしめた。「戦国」という時代の幕開けを、象徴する出来事の一つである。

 こうして、絶大な権力を手に入れた政元だったが、どういうわけか、政治にはあまり興味を示さなかった。
 実をいうと彼、かなり特殊な趣味にハマッてしまっていたのだ。修験道に没頭し、突然放浪の旅に出て幕政を混乱させたり、魔法を体得するために土を食したり、天狗に憧れて空を飛ぶ練習をしたり、そんなことばっかりやっていたのである。

 さらに困ったことに、彼は、大の女嫌いであった。「修験者は妻帯しないから」という理由で生涯独身を貫いたばかりでなく、生粋の男色家であったために、女を近づけることさえしなかったのだ(男色のたしなみ自体は、当時はごく当たり前のことだったが、彼は、女を受け付けない、一刀流のゲイであった。そこが問題だった)。
 女を好きになろうが男を好きになろうが、そんなもんは個人の勝手であろうが、管領細川家にとっては、政元に跡取り息子がいないというのは、一大事である。
 そんなわけなので、政元は、元関白・九条政基の子を養子とし、自身の後継者の地位を約束していた。これが、細川澄之である。

 ところが政元、ある日、「管領細川家が公家に乗っ取られるのは嫌。やっぱ細川一族の子を後継者にしよう」なんて、思ってしまったのだ。そして、澄之を廃嫡し、1503年、細川澄元を、養子に迎えてしまったのである。さらに、何を考えているのか、もう一人、やはり細川一門の、細川高国も養子として迎えている。

 これに腹を立てたのが、澄之である。当然の話だ。このままでは、自分の将来が危うい。
 澄元らと対立する澄之。この後継者問題は、次第に、細川家を内部分裂させるほどの事態へと発展していく。

 こうして、1507年、起こるべくして、事件は起こった。哀れ、細川政元は、入浴中に、澄之派の香西元長・薬師寺長忠らによって、暗殺されてしまうのである。
 以降、管領細川家は、内紛に内紛を重ね、没落していくことになる。
 将軍を追放し、京の支配者になったところまでは良かったが、どうにも詰めの甘い、半将軍殿であった。

(おしまい)



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