細川京兆家の家宰。讃岐守護代。
安富元家の父であるともいう。
名は盛正とも。通称は民部丞。
細川勝元の腹心として、応仁の乱において活躍した。
領国は讃岐であったが、彼自身は京都に身を置き、常に、主君・細川勝元の政治活動を補佐していた。
1467年、細川家を中心とする東軍と、山名家を中心とする西軍の、日本を二分する争い、応仁の乱が始まる。
元綱は、細川勝元を助け、本国である讃岐の兵を率い、京都各地での戦闘に参加する。
同年のうちに、応仁の乱における最大の激戦である、相国寺の戦いが起こる。
乱の勃発当初は劣勢であった西軍が、頼れる仲間・大内政弘の参戦によって力をつけ、勢いに乗って、東軍の重要な拠点である相国寺に侵攻してきたのだ。
この相国寺を守っていたのが、元綱率いる、3000の軍勢であった。対する西軍チームはというと、畠山義就・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角行高らが率いる、総勢3万。
平地にあるお寺さんである相国寺が、10倍の敵に同時に攻められてビクともしないほど頑丈だったとは思えず、とっても、厳しい予感しかしない。
戦いは、西軍と内通した相国寺の一部の僧が、内部から寺に放火したところから始まった。
元綱を援護するために、相国寺の近所に待機していた、東軍の、武田信賢・京極持清らの軍勢は、この、放火による炎を見て、相国寺が、もう陥落しちゃったものと勘違い。相国寺から、遠くへ離れていってしまう。安富元綱、いきなりピンチである。
一方の西軍は、炎が上がったのを合図に、一気に相国寺に襲いかかってくる。しかし元綱は、怯まず奮戦。門の内側に敵の侵入を許さないままに、なんと、7度までも、この攻撃を跳ね返した。
だが、もはや、次はないと悟ったのだろう。彼は、部下の一人を呼ぶと、こう伝えた。
「戦いは、もうすぐ終わるだろう。この寺が敵の手に渡れば、東軍は総崩れとなり、勝元様の身にも危険が及ぶかもしれん。私はここで、少しでも時間を稼ぎ、討ち死にする。お前はここを脱出し、この危急の事態を、すぐに勝元様に伝えてくれ。そして、もし勝元様が都を落ちるようなことになったら、その時は、お前が勝元様をお守りしてくれ」
どうやら、元綱こそを腹心と頼む細川勝元の目に、狂いはなかったようだ。
やがて始まった8度目の攻撃に、ついに破られる、相国寺の門。殺到する敵兵。元綱ら安富勢は、それでも一歩も退かず、死闘の末に、尽く討ち死にを遂げた。
この段階になって、ようやく、東軍の赤松政則勢が、相国寺に救援に駆けつけてきた。
元綱との戦いで多くの死傷者を出し、西軍チームもだいぶ弱っていたのだろう。赤松勢は、なんとか、相国寺周辺から、これを追い払うことに成功した。
しかし、赤松勢もまた、大きな被害を受けてしまったため、相国寺からの撤収を余儀なくされた。
相国寺から、一旦敵が兵を退いたことは、東軍にとっては朗報であったが、股肱の忠臣の戦死に、細川勝元は、深く嘆き悲しんだ。その他の東軍諸将も、皆、元綱の死を惜しんだという。
その後、相国寺には、西軍の、大内政弘・一色義直・六角行高・朝倉孝景ら数万の軍勢が入ったが、すぐに、東軍の畠山政長勢4000によって追い散らされた。
しかし、政長もまた、この寺を放棄することになってしまう。彼が奪取したころには、すでに相国寺は、こんがり焼けて焼け跡になってしまっており、かつてのような戦略的な価値のある代物では、なくなってしまっていたのだ。
こうして、相国寺を巡る戦闘は、終了したのである。
東西両軍が激しい損害を受けた、この、相国寺の戦い以降、両陣営は、自軍に被害が出ることを恐れ、積極的な対戦を避けるようになる。
おかげで、元綱が心配した、細川勝元が都から逃げ落ちるような事態にはならなくて済んだが、その代わりに、乱そのものは泥沼化し、10年後まで続くことになってしまった。
もしも、この応仁の乱に参加した武将たちが、皆、元綱のような、命を捨てて戦うサムライたちばかりであったなら、この大乱は、もっとずっと早くに終結していただろうか。
(おしまい)