戦国人物伝


別所 長治
(べっしょ ながはる)

1558年〜1580年

異名:――――

 播磨の戦国大名。別所家の当主。三木城主。
 通称は小三郎。官職は侍従。
 播磨守護であった、赤松家の一族。羽柴秀吉率いる織田軍への反抗の果てに、家臣領民のため、その身命を捧げた。

 播磨東部を領する戦国大名・別所安治の子として、1558年に生まれたという。
 別所家は、かつての播磨守護である、赤松家の一門であり、その家臣筋の家であったが、当の赤松家は、長治が生まれたころには、すっかり弱体化。播磨中部や西部に多少の勢力を保持する程度となっており、播磨一国のボスとしてなんて、機能しない状態。そんなわけで、このころの別所家は、播磨東部を支配下に置く、事実上の独立勢力となっていた。

 1568年、美濃・尾張の大名である織田信長が、大軍を率い、上洛を果たす。
 この一報に触れた、長治の父・安治は、すぐに、京都にいる信長に使いを出し、別所家と織田家との間に、友好関係を築く。
 やっぱり、時代の流れを読む力って、大事ですよ。

 1570年、父・安治が病死。長治は家督を継ぎ、別所家の当主となる。
 しかし、さすがにまだ年少であるため、当面の間は、叔父である別所吉親が、後見人として、その政治を補佐することになった。

 1575年、長治は京へ赴き、ますます力を増す織田信長との、謁見を果たす。
 別所家が、正式に、織田家への従属を表明したものと考えていいだろう。
 やっぱり、時代の流れを読む力って、大事ですよ。

 播磨の東隣にある、丹波の国の戦国大名であり、長治の妻・照子の兄でもある、波多野秀治。
 長治と同様に信長に従っていた、その秀治が、1576年、織田家に対し反乱を起こした。
 波多野家のことは波多野家の勝手であるからして、別に、別所家に直接関係はないのだが、それでも、長治の胸中は複雑であったろう。

 1577年、新たに結成された、織田家の中国方面軍の総司令官として、信長直臣である羽柴秀吉が、播磨に着陣。織田家の協力者・小寺官兵衛の城である、播磨中部の姫路城に入る。すでに織田家の傘下に入り済みである、長治ら別所家も、この方面軍に加わる。
 秀吉は、旧守護家である赤松家や、その他の播磨諸勢力を、調略を駆使して次々と味方に引き入れ、味方になってくれない勢力は、武力でもって踏み潰し、あっという間に、播磨のほとんど全域を、その支配下に置いた。
 中国地方の玄関口・播磨を押さえた秀吉の、目指す先は、西。中国に一大勢力を持つ、毛利輝元を倒すことこそが、この方面軍の、最大の目標なのである。

 だが、そんな中国方面軍。そのあり方が、長治にはおもしろくなかった。
 方面軍の総帥である羽柴秀吉とかいう奴は、百姓から成り上がった下賤の者であるというし、そのビジュアルも、猿みたいな顔した、貧相な小男。織田家に従って戦うこと自体は、既定路線であるからいいとして、名門・赤松家の一門である別所家が、なんで、そんなふざけた野郎を上司として仰がなければならんのか。なんで、信長公は、そんなふざけた野郎を上司としてよこしたのか。若く、自分が持つ誇りに対してまっすぐな長治には、それらのことがムカついてしょうがなかった。
 若いっていうのは、それだけで、大変なことですなあ。
 しかし、それでも長治自身は、我慢することができた。だけれども、すぐ近くに、我慢できない人がいたのだ。それが、長治の叔父であり、後見人でもあった、別所吉親である。
 彼は、赤松血統原理主義者であり、困ったほどのタカ派のおっさんであった。長治より遥かに上を行くレベルで、秀吉や信長にムカついていた彼は、長治を焚き付け、半ば強引に、別所家を反織田路線に持っていってしまった。
 後見人が、熱い勢いで押してきたら、若い長治には、なかなか、逆らうことなどできない。
 若いっていうのは、それだけで、大変なことですなあ。

 かくして1578年。吉親は、別所家の城である加古川城にて開かれた、中国方面軍の軍議、通称・「加古川評定」に、長治の名代として参加。その席にて、終始、秀吉を小バカにした態度を取り、別所家と秀吉とは、そのままケンカ別れという形になってしまう。

 直後に、長治は、本拠である三木城にて挙兵。城下の民も城内に収容し、7500人もの人数で、籠城。織田家に対し、公然と反旗を翻す。
 こうなった以上は、やるしかないのだ。兵を挙げた長治は、西の毛利家や、東の義兄・波多野秀治とも連絡を取り合い、これらと組んで、織田家に対抗する。

 やがて、小早川隆景・吉川元春らに率いられた、約3万もの毛利家の軍勢が、播磨に到着。毛利と別所という、二つの敵の間に挟まれた秀吉は、窮地に陥ることになる。
 しかし、この毛利軍は、慎重すぎた。播磨の西の端にある、織田陣営の城。尼子勝久が守る上月城を落とすと、それ以上の東進をせず、播磨の国から撤収してしまったのである。三木城のことは、助けてくれねえのかよ。

 とりあえずの危機は去ったが、またいつ、毛利が出張ってこないとも限らない。なんとかして、後方で籠城中の別所家を片づけるため、秀吉は、軍勢を動かす。三木合戦の始まりだ。
 彼は、三木城を力攻めすることは避け、2万ともいわれる大軍を用いて、三木城を包囲しつつ、別所家のその他の城を次々と落とすという作戦に出た。いくら、織田軍のほうが兵力で勝っているとはいえ、別所勢も、結構な大人数。城に立て籠もられたら、正面攻撃ではそう簡単には落とせない。そこで、三木城を孤立させて、その補給路を断つという技を使ったのである。
 大人数で籠っているからこそ、兵糧の確保は、三木城にとっての死活問題。秀吉は、実に巧妙に、敵の弱点を突いたのだ。これが、後の世に、「三木の干殺し」の名で呼ばれることになる、必殺の兵糧攻めである。

 秀吉の狙い通り、城中の、食い物の雲行きが、だいぶ怪しい流れになってきたころ。ワラにもすがりたい気分の長治のもとに、嬉しいニュースが。
 播磨の東・摂津の国の有岡城城主である、信長の重臣・荒木村重が、織田家に対し、突如として謀反を起こしたのである。
 もちろん長治は、すぐさま、村重とも手を組む。少しだけれども、干殺し状態脱出への、希望の光が見えてきた。

 しかしながら、翌1579年。この年は、長治にとって、厳しい年となった。
 まずは、丹波で厳しいことが起こる。
 別所家と連携中だった、波多野家の八上城が、織田家の重臣・明智光秀によって落とされ、長治の義兄・波多野秀治も、命を落としてしまったのだ。

 それから、西の備前で、厳しいことが起こる。
 毛利家に従っていた、備前の戦国大名・宇喜多直家が、毛利を捨て、織田側に寝返ってしまったのである。
 これにより、別所家と毛利家の間を、宇喜多家が邪魔する格好になり、毛利家からの援軍や補給は、ほとんど期待できない状況となってしまう。

 さらにさらに、東の摂津で、厳しいことが起こる。
 荒木村重の城であった有岡城が、織田信長の手によって陥落してしまったのだ。
 このころには、三木城以外の別所家の城は、織田軍によってほぼ落とされ切ってしまっていたから、これでまさに、長治の三木城は、孤立無援の状態である。

 それでも、長治たち三木勢は、我慢強く籠城を続けるが、もはや、お先は真っ暗。兵糧も底を尽き、人々は、ネズミや虫や雑草を口にして、飢えを凌いでいる有り様。このままでは、みんな死ぬ。実に厳しい状況だ。

 そして、年が明けた、1580年。長治はついに、決断をした。
 三木城を包囲している秀吉に対し、使者を送り、お願いをしたのだ。
 自分や吉親などの別所一族は、この反乱の責任を取って自害する。城も明け渡す。だから、その代わりに、家臣や領民たちの命だけは助けてくれ、と。
 秀吉は、この申し出を、受け入れた。そればかりか、長治の、この自己犠牲的精神に心を打たれた彼は、飢餓状態の三木城に、酒とツマミの差し入れをしてあげた。
 ――どうか、自害する前に、みんなで最後の酒宴を開いてくれ。
 そんな思いを込めてである。
 長治は、敵将の、この厚意により、家族や家臣たちと、別れの盃を交わすことができた。

 一方、この展開が気に入らない人も、中にはいた。
 長治の叔父で、タカ派のおっさんである、吉親だ。
 彼、死ぬこと自体は、とっくに覚悟していただろうが、死後、自分の首が、あのクソ猿野郎の前に晒されることだけは、どうしても耐えられなかったのだ。
 そんなわけで吉親は、勝手に、城内に火を放つ。自分の死体が敵の手に渡らぬよう、城ごと燃え尽きてしまおうと考えたのである。彼にも意地があったのだろうが、これは、長治のせっかくの決意を台無しにする、ダメな意地だ。
 結局、この企みはすぐにバレ、吉親は、怒った城兵たちによって、その場でブッ殺されてしまうことになる。火も、燃え広がることはなかった。
 タカ派のおっさん、さようなら。

 さて。気を取り直して。長治と、その家族は、三木城内にて、粛々と、旅立ちの準備を始める。
 長治は、辞世を残す。

「今はただ恨みもあらじ諸人の いのちにかわるわが身と思えば」

 もはや、誰のことも、恨んでいないというのである。
 自分をここまで追い詰めた、あの卑しい猿野郎のことも。それを播磨に派遣してきた、猿の親玉のことも。自分を無謀な反乱に駆り立てた、あのタカ派の叔父のことも。あんまり役に立ってくれなかった、同盟各勢力のことも。
 自分の命と引き換えに、多くの人々の命が救えるのなら、それ以外のことは、些細なことだというのだ。
 若さゆえに、一時の感情に流されたり、他人の意見に引きずられたりするしかなかった長治だったが、運命に翻弄された果てに、達観。自らの、その崇高な意志を、高らかに表明したのである。

 長治の妻・照子も、辞世を残す。

「もろともに消え果つるこそ嬉しけれ おくれ先立つならいなる世を」

 普通ならば、夫婦のどちらかが残されなければならないのに、私たちは一緒に死ねる。そのことが、嬉しい。
 そう言い切り、彼女は、夫の悲壮な決意を、背中から支えた。

 そして。とうとう、その時がやってきてしまった。
 長治は、照子との間に授かった、5歳の竹姫・4歳の虎姫・3歳の千松丸・2歳の竹松丸。何も知らない可愛い我が子たちを、一人ずつ、自分の膝に抱きかかえて、涙をこぼしながら、次々と刺し殺す。
 それから、妻・照子の自害を見届けると、控えていた家臣たちの方へ向き直り、語りかけた。
「今回の、長きにわたる籠城戦。食べる物にも事欠く中、別所家のために、みんな、よく戦ってくれた。いくら感謝しても、感謝し足りない。私はここで死ぬことになったけれど、それでみんなの命が助かるなら、これ以上に嬉しいことはない」
 その顔は、にこやかに微笑んでいたというから、これもまた、紛れもない、この人の本心だったのだろう。
 これで、この世での、全ての仕事は終わり。長治は、すぐに切腹して果て、愛する妻子の後を追った。23歳であったという。

 城主一族の自害が済むと、三木城は秀吉に明け渡され、約2年に及ぶ三木合戦は、終わりを告げた。秀吉は、長治との約束をちゃんと守り、籠城していた別所の家臣や領民たちの命を、皆、助けた。
 長治の死によって、戦国大名・別所家は滅亡することになったが、彼の決断は、確かに、幾千もの人々の命を救ったのである。


(おしまい)


おまけ写真

別所長治夫妻の首塚
(兵庫県三木市 雲龍寺)
撮影日:2009年1月30日
周辺地図

郷土の人々を救い、英雄として称えられている、長治夫妻の首塚。
遥かな時を越えて、今でも二人、寄り添っている。

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