戦国人物伝


黄梅院
(おうばいいん)

1543年〜1569年

異名:――――

 相模の戦国大名である、北条氏政の正室。
 武田信玄の娘。母は三条夫人。武田義信の妹。武田勝頼・仁科盛信・松姫らの姉。北条氏直の母。
 黄梅院は法名。実名は不詳。
 冷徹な人物として知られる、父・信玄から、大変に慈しまれた、甲州の姫君。夫となった北条氏政からも、深く想われ続けた。

 1543年、甲斐の戦国大名・武田晴信の娘として、甲府に生まれる。母は、晴信の正室・三条夫人。

 1553年、11歳になった黄梅院は、婚約を結ぶ。
 お相手は、甲斐の南東隣、相模の国の、御曹司。武田家と同盟関係にある北条氏康の、その嫡男。北条氏政である。
 もちろん、この婚約は、両家の関係強化のため、武田晴信と北条氏康という、二人の大人たちが主導し、結んだものだ。
 いわゆる政略結婚であるが、黄梅院の父・晴信は、娘にとっても、この嫁ぎ先が良いものであると、考えていたことであろう。
 北条家は、武田家のお友達であり、関東に一大勢力を持つ、大大名。そう簡単に滅ぶこともないだろうし、ここの嫡男に嫁ぎ、大切に遇してもらえたなら、娘の生涯は、幸せなものになるに決まってる。
 黄梅院は、晴信にとって、長女にあたる。この、初めての娘のことを、彼は、だいぶ深く、可愛がっていたのだな。

 翌1554年、黄梅院は、12歳にして、国境を越え、相模へと嫁いでいく。
 その輿入れを守り、北条家まで送り届けた供の者の数は、なんと1万人にも及んだというから、驚きだ。
 晴信が、こんな、豪華を通り越して、勇壮すぎるほどの花嫁行列を編成したのには、政治的な意図があったものと思われる。完全な身内というわけではない北条家から、武田家がナメられないよう、動員力を誇示して見せたのであろう。
 そして、そこにはたぶん、親バカ的な、もう一つの意図も隠れている。
──もし、うちの可愛い娘を泣かせるようなことをしたら、その時はどうなるか、分かってるだろうな?
 と、嫁ぎ先に、しっかりと釘を刺しておく、という意図が。

 この、黄梅院と北条氏政の結婚により、多国間の婚姻同盟である、いわゆる甲相駿三国同盟が、完成した。
 これ以前に武田晴信は、同盟を結んでいる、甲斐の南隣・駿河の今川義元の、その娘である嶺松院を、嫡男・義信の妻に迎えており、また義元は、北条氏康の娘である早川殿を、嫡男・氏真の妻に迎え、北条家との間に同盟を締結していた。
 そこへ、今回の黄梅院たちの結婚が加わることにより、武田家・北条家・今川家は、皆、縁戚関係に。ここに、3家の大大名による、強固な婚姻同盟が、成立したというわけなのである。

 1557年、黄梅院は、夫・北条氏政の子を懐妊する。
 一報を聞き、歓喜しつつも心配に駆られた晴信は、富士山麓にある、由緒正しき神社、冨士御室浅間神社に、自筆の願文を捧げ、娘の安産を祈願する。
「どうか、子供が無事に産まれ、健康に育ちますように。願いを叶えてくれたなら、神社参詣客のため、参詣の通り道にある船津の関所を廃止することを約束します」
 と。
 武田晴信という武将は、政治の世界に情など持ち込まない、冷酷ともいえる男なのだ。それが、この時ばかりは、なんとも素直に、公私混同。やはり、可愛い娘のこととなると、全然、違うみたいね。

 祈願のおかげもあってか、同年の暮れに、黄梅院は、無事に女児を出産する。
 後に、下総の戦国大名・千葉邦胤の妻となる、芳桂院である。

 1562年には、氏政の嫡男である国王丸を産む。

 その後も、夫婦は仲良く、景気良く。順調に子宝を授かり続け、最終的に彼女は、6男1女の母となる。

 だが、そんな幸福は、唐突に、ひっくり返る。
 1568年、黄梅院の父・武田信玄(出家した晴信)が、同盟関係にあったはずの今川家が治める、駿河の国に侵攻しやがったのである。
 実は今川家、先年、優れた当主であった義元が不慮の死を遂げ、ドラ息子である氏真が後継。以降、だいぶ、その力を弱めていたのだ。信玄はそこを狙い、武田家の領土拡大のため、攻め込んだというわけなのだ。
 これで、武田・今川・北条の三国同盟は、破綻である。こんなことをすれば、北条家に嫁いでいる、愛娘・黄梅院が、どれだけ肩身の狭い思いをすることになるか。もちろん、分からない信玄ではない。
 しかし、それでも彼は、やった。やはり彼は、冷酷な戦国の男。自らの野望のためであれば、残酷な判断をすることも、辞さないのである。
 たとえ、その心の奥底に、どれだけの情愛が渦巻いていたとしても。

 翌1569年、義父である北条氏康によって、黄梅院は、夫・ 氏政と離縁させられ、甲斐の国へと送り返される。もちろん、子供たちとも、引き離されることになる。
 妻を大事に思っていた氏政は、最後まで、この離縁を渋ったそうだが、信玄の明らかな不義理と、それに対する、父・氏康の真っ当な怒りの前には、抵抗の余地はなく、泣く泣く身を退くより他なかった。

 不本意にも故郷へと戻された黄梅院は、悲しみに暮れ、同年のうちに、出家をした。法名は、黄梅院。「黄梅院」というのは、実のところ、この時より名乗り始めた、名なのである。
 出家後の彼女は、やはり、打ちひしがれて過ごしたものと思われる。
 彼女の苦悶の日々は、父・信玄の野望の代償。かつて、「娘を泣かせたら許さんぞ」と、嫁ぎ先に釘を刺した信玄だったが、実際に娘を泣かせることになったのは、どう見ても、その信玄自身であった。

 そして、やはり同年。武田家に戻ってきてから、まだ半年と経たぬ時分のこと。
 黄梅院は、27歳の若さで、この世を去った。
 病死とされているが、少し、信じ難いものがある。彼女は、7人もの子を産んだ、健康で頑丈な女性なのである。それが、こんな若さで、こうもあっけなく亡くなってしまうとは……。
 夫や子供たちと引き離されてからこっち、彼女が憔悴し切っていたであろうことを思うと、その死因には、とても悲しい、何か別のものがあるのではないかという気もしてくる。想像したくもないことだが。

 翌1570年、信玄は、亡き娘のために、甲斐国内への寺の建立に、動く。娘の名を冠した、「黄梅院」という寺である。
 彼は、失意のうちに早世した娘を悼み、深く悲しんでいたのだ。
 身勝手といえば、これほど身勝手な話もないが、それでも、悲しいもんは、悲しいんだ。本当なんだ。

 さらに時は流れ、1575年。黄梅院の、七回忌の年。元夫である北条氏政が、彼女の眠る甲斐のお寺、黄梅院に、あるお願いをしてきた。
 このころの氏政は、北条家の当主となっており、彼の実父である北条氏康も、義父であった武田信玄も、すでにこの世の人ではなかった。
 氏政のお願いは、「かつての妻・黄梅院の遺骨を、分骨させてほしい」というものであった。
 無理矢理に別離させられ、二度と生きては会えなくなっても、彼の中で黄梅院は、ずっと、大切な妻であり続けたのだろう。
 遺骨を分けてもらった氏政は、北条家の菩提寺である、相模・早雲寺に、「黄梅院」という塔頭を建立。亡き妻の魂を、手厚く弔った。

 黄梅院の生涯は、二十数年で儚く終わってしまったが、その生涯は、父からも夫からも、どこまでも愛される生涯だった。


(おしまい)


おまけ写真

黄梅院跡
(山梨県甲斐市)
撮影日:2017年3月19日
周辺地図

武田信玄が、亡き娘を思い建立した、黄梅院の跡地。
明治時代初期に廃寺となるまで、寺は、長らく守られ続けた。

戦国人物伝のメニューに戻る

トップページに戻る