戦国人物伝


伊勢 貞親
(いせ さだちか)

1417年〜1473年

異名:――――

 室町幕府の政所執事。8代将軍・足利義政の側近。
 政所執事・伊勢貞国の子。同じく政所執事となった、伊勢貞宗の父。
 通称は七郎。官職は兵庫助・備中守・伊勢守。
 将軍・義政を補佐すべき立場にありながら、幕政を私物化し、私腹を肥やしてヤラしく生きてしまった、好色一代男。

 1417年、伊勢貞国の子として、代々政所執事を務める家柄である、伊勢家に生まれる。

 足利義政が、まだ三春と呼ばれていた幼いころから、そのそば近くにて仕えた。
 早くに父を亡くした三春を、養育係として、ネチョネチョと育成。結果、三春からは、かなり慕われ、絶大な信頼を寄せられるに至る。
 その信頼を踏み台にして、貞親は、幕府中枢に入り込み、徐々に、権力を握っていく。

 1449年、三春は元服し、名を足利義成と改め、将軍職に就任する。
 踏み台が、貞親を乗っけたまま、空高くまで上がっていってくれたのである。こうなればもう、いろんなことが、貞親の思うがままだ。
 将軍になったとはいえ、まだまだ少年である義成。その義成の政治を、保護者たる貞親が監督する。
 そんな体裁で、ついに彼は、本職の将軍をも上回るほどの権力を、手に入れるまでに至ったのである。
 義成の信頼あってこその貞親だったはずが、気がつけばそこにいたのは、義成を、単なるお人形さんとして、御所の奥に大事に飾ってしまう貞親。
 やがて義成は、お人形さん扱いにヘソを曲げ、どんどん、その心を政治から遠ざけていく。そうなればなるほど、貞親はニンマリ。どんどん、権力を握りしめていく。

 こうして、幕府の影の実力者となった貞親は、経済改革に着手。傾いていた幕府の財政を、いくらか建て直すことに成功した。なかなかの手腕である。

 しかし、それ以外の大部分においては、彼の政治は、とてもじゃないが、褒められたような代物ではなかった。
 とにかく、賄賂を受け取ることを好み、金品をくれる人ばかりを、エコヒイキ。様々な人々から、ガンガン貢ぎ物をもらいまくった。
 そうして得た富で、酒を買い、女を買っては、遊んで騒ぐ毎日。
 公私を混同し、放蕩の限りを尽くす。最低の政治屋さんだ。

 このような、欲望に忠実すぎる日々を送っていた、ちょうどそのころ。貞親は、まだ年若い、息子・貞宗に対して、武士として生きる上での大切なことを、教訓状として書き残している。『伊勢貞親教訓』という、大変ストレートな名前で呼ばれることになる、教訓状である。
 注目のその中身は、
「人は、生まれながらにして物事を知っているわけじゃあない。多くの人と出会い、人の話をよく聞き、人からよく学ぶことによって、知恵を付けていくものなのだ」
「嫌いな人間や、おバカな人間が訪ねてきても、気軽に会って、親切に接するべきだ。そうすれば、皆から好かれ、仲良くやっていくことができるぞ」
「衣服は、他人より豪華なものなんて、着なくっていい。若いうちは派手な格好をしたいかもしれないけど、地味な格好でいい。たとえ将軍様に会う時であっても、地味で質素な格好でいい。大事なのは、立派な格好をすることではなくて、立派な働きをすることなのだ」

 などなど。確かな道徳観を下地にした、至極マトモな、優れた教訓ばかり。これが、俗物そのものの生き方をしている、貞親の言葉だというのだから、驚きだ。せっかくの名言の数々に、微塵も説得力がない。
 この教訓状の内容こそが、実は、貞親が夢見た、武士の理想像の表れであり、それを、我が子に託そうとしたのか。それとも、単なる処世術として、クールに伝えただけであったのか。どちらなのかは、よく分からない。
 しかし、少なくとも、まだケガレを知らぬ、純真な貞宗は、この教訓状の内容を、真っ正直に熱く受け止めてしまったようだ。彼は、父とは全然違う、大人になっていく。

 1460年、貞親は、幕府の政所執事に就任する。
 名実共に、幕政の鍵を握る立場となったわけだ。これで、今までよりもっと、大きな顔ができる。

 1466年には、将軍・足利義政(義成から改名)を動かして、越前・尾張・遠江の守護大名である斯波義廉を罷免させ、後任に、義廉のライバルである斯波義敏を据えさせる。
 なぜこんなことをしたのかというと、なんとそれは、「愛人に頼まれたため」であった。
 実は、貞親の愛人の、その妹が、義敏の愛人となっていたのである。
「ねえパパ。パパの力で、ウチの妹のパパを、出世させてあげて」
 と、愛人におねだりされ、鼻の下を伸ばしながら、それに応じてしまったというわけなのだ。ただのスケベなおっさんだ。
 ずいぶんと大胆に権力を振るった貞親だが、この一件により、義廉の親分であった、大大名の山名宗全から、睨まれることになってしまう。

 同年、貞親は、引退しようとする、将軍・義政の、後継者問題にも首を突っ込む。
 次の将軍に、義政の息子である義尚を推す、山名宗全らの一派と、義政の弟である義視を推す、宗全の宿敵・細川勝元らの一派。これら2つのチームに分かれ、揉めていたのだが、貞親が支持したのは、宗全たち義尚派のほうであった。まだ赤ん坊である義尚が将軍になってくれれば、義政の時以上に操縦しやすいとでも、考えたのであろう。
 ここまでは、いつも通りの貞親なのだが、この後が、ヤバすぎた。あろうことか貞親、義尚の対立候補である義視を、殺害しようと企んでしまったのである。
 幸い、貞親の画策は事前に露見し、義視は命拾いをしたが、こうなると、逆に死にそうになってくるのが、この計画の首謀者である、貞親だ。
 当然、義視派の勝元は、貞親の計画を知るなり、大激怒。これに、斯波家の一件で貞親を恨んでいた宗全が味方をする。この二人は敵対関係にあったはずだが、貞親を憎む心は一緒。前々から、貞親のことはウザいと思ってもいたのであろう。今回は、一時的に手を組むことにしたのだ。二人して、貞親を葬り去ろうと、策動を始めたのである。
 勝元と宗全は、多くの領国と軍事力を抱える、大大名。一方の貞親はというと、将軍のそばでエラそうに振る舞ってはいるものの、自前で強大な軍事力をもっているわけではない、張子の虎。両雄が本気を出してきたら、とても勝負にならない。
 窮地に立たされ、命の危険を感じた貞親は、職務の全てを放り出し、近江の国へと逃げ去っていった。
 こうして貞親は、自ら墓穴を掘り、失脚。この自滅事件を、「文正の政変」という。

 翌1467年、細川勝元・斯波義敏らの軍勢と、山名宗全・斯波義廉らの軍勢とが、京都にて激突する。以降、長期間に渡って続くことになる、幕府を二分する大乱。応仁の乱の始まりである。
 もともと仲の悪かった両陣営が、ついに軍事的衝突を始めてしまったことには、様々な理由があるが、貞親の失脚により、将軍の側近勢力が力を失い、幕府内のパワーバランスが崩れたことも、その一つではあったろう。
 この乱のドサクサに紛れて、将軍・足利義政は、京から逃げていた貞親に、戻っておいでと声をかけた。腹黒で、身勝手で、無責任な男だが、それでも義政にとっては、育ての親。このころになっても、貞親のことが、好きといえば、好きだったのだろう。
 戦争で忙しい勝元や宗全には、自分を潰しに来る余裕がないと見抜いた貞親は、義政の誘いに乗り、ひっそりと京都に帰還。再び、政所執事の職に復帰した。
 しかし、元のように、権力を振りかざすことは、もう、できなかった。京の都は今、大規模な戦乱の真っただ中なのだ。貞親の影響力なんて、もはや完全に、過去のものでしかなくなっていたのである。

 1471年、政治を意のままにできず、つまらなくなったのか、あるいは、何か他に思うところでもあったのか、貞親は、政務を引退。隠居し、出家をした。
 彼が、政所執事の職を譲り渡したのは、すでに、頻繁に自分と対立を繰り返すようになっていた、息子・貞宗であった。
 貞宗は、父の教えを頑なに守り、父の生き方に背を向けて、混迷を極める世に立ち向かっていくことになる。
 その姿を、貞親は、どのような気持ちで、見つめていたのだろうか。

 隠居から2年後の、1473年。貞親は、その、煩悩にまみれた生涯を、一人の僧侶として、静かに閉じた。享年57。


(おしまい)


おまけ写真

花の御所の碑
(京都府京都市上京区 大聖寺)
撮影日:2009年8月4日
周辺地図

足利義政他、幾代もの室町幕府将軍が座した御所跡。
ここを根城に貞親は、権謀術数の限りを尽くした。

戦国人物伝のメニューに戻る

トップページに戻る