戦国人物伝


鬼庭 左月斎
(おににわ さげつさい)

1513年〜1585年

異名:――――

 伊達家臣。稙宗・晴宗・輝宗・政宗の4代に仕える。川井城主。
 鬼庭綱元の父。
 左月斎は号。諱は良直。官職は周防守。
 若き主人たちをよく支えた、伊達家譜代の重鎮。人取橋の戦いでは、前途ある主君・政宗のため、金色の采配を振るい、命を削った。

 1513年、陸奥国中部の大名である伊達家の家臣・鬼庭元実の子として誕生する。
 鬼庭家は、伊達家初代である伊達朝宗の代より、300年以上にわたり仕え続ける、伊達家臣としては大変に由緒ある家柄である。また、非常に長生きな一族であったといい、歴代の当主の多くが、90歳以上まで生きたのだという。

 1538年、正室である直子との間に、娘・喜多が生まれる。

 1539年、父である元実が隠居。良直は、鬼庭家の家督を継承する。

 1542年、伊達家の当主である稙宗と、その嫡男の晴宗との間に、規模のデカい親子喧嘩、天文の乱が勃発する。
 良直は、隠居したはずの父・元実と共に、まだ若輩である晴宗の陣営につき、戦う。乱は当初、晴宗側が形勢不利であったが、そんなことは関係ない。晴宗の味方をする。

 東北諸侯を巻き込んだ、この大きな争いは、1548年、伊達稙宗が、息子である晴宗に家督を譲るという形で、決着を見た。
 晴宗陣営の、逆転勝利だ。この、乱の間中、鬼庭父子は、一貫して晴宗の味方であった。

 翌1549年、良直は、主君・伊達晴宗より、天文の乱での功を賞され、出羽・川井城の城主に任命される。
 伊達家は、陸奥の大名ではあるが、西隣の出羽の最南部・置賜郡も、領地としていたのだ。というかむしろ、家督を継承した晴宗は、陸奥のほうから、出羽・置賜郡は米沢の地に、本拠を移したくらいなのである。良直は、殿様の居城の近くに、城をもらったというわけなのだ。

 同年、側室が、良直にとって待望の長男・綱元を産む。
 この吉報を受け、良直は、とんでもない暴挙に出る。
 なんと、生まれて来た子を、誰もが認める嫡男とするため、男子を産めなかったという名目にて、正室・直子を離縁。直子と、娘・喜多を鬼庭家から追い出し、綱元を産んだ側室を、正室に格上げしたのである。
 当時は、皆さん迷信深く、妊娠や出産に関する科学的知識にも、乏しかった。子供が生まれてこないとか、跡継ぎたる男子を授からないとか、そういうことが、女のせいにされがちであった、ちょっと困った時代であったのだ。
 しかし、そんな時代背景を考慮に入れても、これは結構、ひでえ話である。
 なお、この時に離縁された直子は、後に、伊達家の本拠地・米沢の神官である、片倉景重という人と再婚。伊達家臣でも屈指の名将・片倉景綱を産むことになる。
 男子を産めない産めないって言われたけど、産んだぞ。それも、並みの男じゃない。とびきりすごい男をな。

 嫡男誕生後も、堅実に、伊達晴宗に仕えて過ごす、良直。
 だが、やがてそのうち時は流れ、今度は晴宗、自身の嫡男である輝宗と、対立するようになってくる。今回は幸い、軍事的衝突にまでは、至らなかったけどね。
 この度の、親子の諍いにおいて、良直は、息子である輝宗側の味方についた。なんかこの人、若者に肩入れしちゃう質の人物だったのだろうか。

 1565年、伊達晴宗が隠居。関係性が良くないとはいえ、そこはやはり、嫡男ですから。輝宗に、家督を譲渡。伊達輝宗が、伊達家の新たな当主となる。
 ところが、隠居したのに晴宗は、ちっとも権力を手放そうとしない。晴宗や、その腹心である中野宗時の権勢は強く、輝宗は、なかなか思う通りの政治ができない。不仲な親父とそのシンパを、なんとか静かにさせたいもんだ。

 そこで同年、輝宗は、策を講じる。
 自分の味方をしてくれる家臣である良直を、「評定役」という、家中の重要ポストに抜擢したのだ。
 もちろんきっと、晴宗陣営は反発しただろうが、そこはどうにか、押し切ったのだろう。
 こうして良直は、伊達家中の輝宗派家臣の筆頭として、晴宗派との政争の矢面に立っていくことになる。

 1570年、輝宗は、晴宗派の最有力家臣・中野宗時を相手に、軍事行動を起こす。伊達家に対する謀反を企てたとして、輝宗派の家臣たちの一部に命じ、宗時を、居城である、出羽・小松城に襲ったのだ。
 宗時は、命からがら城を脱出。伊達領外に逃げ去り、それっきり戻ってくることはなかった。
 この事件により、晴宗派の勢力は、大きく力を減退させ、そのままポックリと消滅。晴宗は、ただのおとなしいご隠居となり、家中の主導権は、完全に輝宗のものとなった。

 この、中野宗時追っ払い劇に際して、輝宗を良く助けたのが、遠藤基信という臣であった。彼は、これを機に、一気に出世。以降、鬼庭良直と遠藤基信は、伊達家臣団の双璧として並び立ち、輝宗を、両腕として補佐し、歩いていく。

 1575年、良直は、嫡男・綱元に家督を譲り、隠居。左月斎と号す。
 こうして、表看板こそ息子に譲ったが、彼は、これ以降もちょくちょく働き、輝宗の力になったようである。

 1585年、大変な凶事が起こる。
 伊達領の南隣。陸奥国・二本松の戦国大名、二本松義継。最近伊達家と揉めていた、その二本松義継に、伊達輝宗が拉致され、その末に、非業の死を遂げてしまったのだ。
 輝宗は、まだ42歳。これからの伊達家を背負って立つ、嫡男の政宗は、血気盛んで才智ある、将来有望な武将だが、まだ19歳の若造である。

 悲しみに覆われる、家中。輝宗のことを深く慕っていた遠藤基信は、同年のうちに、輝宗の後を追い、その墓前にて、自害して果てた。
 基信の、この殉死。隠居してからだいぶ時間の経つ、73歳の左月斎には、羨ましく映ったかもしれない。
 だが、一緒になって、先代の後を追っかけるわけにはいかない。基信と左月斎は、共に伊達輝宗を支えた、両腕であった。その片方が、主君のお供をするという形で、一つの筋を見せたなら、残されたもう片方は、主君の跡取り息子を助けるため、もうしばらく生き延びるのが、筋というものであろう。
 御先代が不慮に落命し、伊達家内外の状況は、大きく変わった。これから、どんな困難が現れるか、分からない。威勢はいいけどケツの青い、政宗様のため、もうひと働き、してやろうじゃないか。

 そして、やはり。年も改まらぬうちに、困難は現れた。それも、規模のデカいやつだ。
 陸奥の南隣・常陸の佐竹義重が、蘆名家・岩城家・白河家・二階堂家といった、陸奥南部の諸勢力を糾合し、連合軍を組織。3万もの大軍勢にて、伊達領目がけて進撃してきたのである。
 協調的な外交路線を取り、周辺諸勢力から信用されていた輝宗が倒れ、伊達家はちょっと、孤立し、ガタガタに。しかし、攻撃的な拡張路線を取る息子の政宗は、すでに英明さを見せているから、ほどなく、伊達家は力を盛り返し、諸勢力を飲み込み始めるだろう。
 すなわち、伊達家はこれから強くなる。きっと、周りのみんなの脅威になる。だけど、今だけは、弱いのだ。
 だから、今のうちに、叩き潰してしまうしかない。そんなわけで、この連合軍の皆さんは、集まったのであった。

 この時左月斎は、主君・伊達政宗と共に、二本松家の本拠地・二本松城を攻囲する、先君の弔い合戦の陣中にあった。隠居の身ではあるけれど、この戦いには、出ないで気が済むわけないからね。
 佐竹および南奥州連合軍3万が接近中である、との報を聞いた政宗は、兵8000を率い、二本松城から南下。これを迎撃に向かう。もちろん、左月斎も随行する。
 まだ若い政宗にとって、こんな大規模かつ絶望的な兵力差の会戦は、当然、初めてのことである。いや、政宗だけじゃない。伊達稙宗だって晴宗だって輝宗だって、こんな戦い、経験したことがない。左月斎だって、これが初めてだ。
 佐竹義重率いる連合軍と、伊達政宗率いる伊達軍は、陸奥南部にて、激突。人取橋の戦いである。

 この戦いにおいて左月斎は、初め、前線に出ることなく、政宗の本陣を守備していたのだという。高齢のため、すでに重い鎧兜の着用が困難であった彼は、黄色い綿の帽子に水色の陣羽織という軽装。その手に握られているのは、今回の大勝負に際して、主君・政宗から賜った、金色の采配であった。
 合戦は、やはり、数に勝る連合軍優勢のうちに進んだ。伊達軍は、真っ正面から果敢に立ち向かうが、押されまくる押されまくる。
 やがて、伊達の敗色は拭いようもなくなり、軍勢は崩れ、敗走を始める。非常にマズい状況だ。
 この危機を食い止めるため、動いたのが、鬼庭左月斎であった。
 彼は、わずか60名ほどの手勢を率い、逃げ始める伊達軍の最後尾、つまり、戦いの最前線へと、躍り出ていったのだ。

 全軍の殿軍を引き受けた左月斎は、さらに突出し、敵勢に突っかかっていく。連合軍の攻撃を引きつけ、なんとしても、伊達の本軍を、無事に戦場から脱出させるのだ。
 圧倒的に不利な状況にもめげず、彼は、金色の采配を振るい、巧みに指揮を執る。あるいはこの采配は、この戦に臨んでの左月斎の覚悟に気づいた政宗が、餞として、彼に贈ったものであったのかもしれない。
 左月斎の被る黄色い綿帽子は、だいぶ目立ったらしく、彼は狙い撃ちに曝されるが、そんなものは、屁とも思わない。優れた用兵で、敵の攻撃を捌いていく。

 しかし、兵力の差は歴然。いつまでも、こんな時間稼ぎが続けられるはずもない。
 やがて左月斎は、体に何本もの矢を受け、刀で斬られ槍で突かれ、ついに戦死を遂げることになる。討ち取ったのは、岩城家臣の、窪田十郎という者であったという。
 たった60名で、200名もの敵兵を倒した末の、壮絶な最期であった。

 左月斎の献身により、政宗ら伊達軍は、なんとか一旦、安全圏まで脱出。北上し、伊達家の持ち城である本宮城に入り、この日はここで、夜を迎える。どうにか、命拾いをしたのだ。
 だがこれは、全然、根本的な解決にはなっていない。一晩、首をつないだだけ。連合軍は、すぐそばまで来ている。明日になれば、この城に総攻撃をかけてくるだろう。そうなれば、政宗の命運も、そこまでかもしれない。

 しかし、その夜のうちに、事態はガラッと変わった。
 なんと、「佐竹義重不在の佐竹領を、安房の里見義頼らが狙っている」との急報を受け、義重率いる佐竹軍が、馬を返し、本国へと撤収してしまったのだ。
 連合軍は、佐竹義重を盟主として集まった、完全に佐竹軍を主力とした軍勢であったもんだから、こうなってしまうと、もう、伊達家との戦闘は継続できない。佐竹家以外の各家の皆さんも、次々に撤退。連合軍は、解散となった。
 こうして、危機は解消。たぶん、自分自身でも何が何だか分からないまま、伊達政宗は、今度こそ本当に、命拾いをした。
 鬼庭左月斎は、たった一晩、政宗の命を引き延ばしただけかもしれない。しかし、そのたった一晩が、歴史を変え、この若造の未来を救ったのである。

 それから、ちょっと後年。
 伊達政宗の家臣であり、鬼庭左月斎の息子である、鬼庭綱元は、肥前・名護屋城にて、太閤・豊臣秀吉に謁見をした。秀吉はそのころの、日本の覇者である。
 太閤・秀吉は、鬼庭家に伝わる長寿の秘訣みたいなものはないかと、尋ねてくる。彼は、鬼庭家が長命な一族であることを聞き及び、そのことに、興味を持っていたのだ。
 綱元は、鬼庭家に伝わる健康飲料について解説し、それからその流れで、父・左月斎の話をし始め、
「私の父である左月斎は、73歳で若死にしました」
 と、言い切ったという。
 73歳没というのは、当時としては、十分に長命だったといえるほう。それを、鬼庭家歴代の中では早くに亡くなったとはいえ、「若死に」と断言してしまうとは……。綱元は父さんに、もっともっと長生きをしてほしかったのだろう。その気持ちは、よく伝わってくる。
 しかしながら、左月斎が、本当に若死になんて表現できる状態だったかというと、やはりそれは、怪しいもんだ。最後の戦いの時は、鎧兜を着けられないくらいには、ヨボヨボだったわけだしね。
 だけど、こういうことは、いえるだろう。
 当人が若くあったかはともかく、彼は、常に若者に寄り添い、若者の力になり、若者のために戦った。鬼庭左月斎とは、そんな武将であった。


(おしまい)


おまけ写真

茂庭左月の碑
(福島県本宮市)
撮影日:2007年5月26日
周辺地図

江戸時代後期に建立された石碑。茂庭左月とは、鬼庭左月斎のことを指す。
彼の最期を偲び、討ち死にを遂げた人取橋の地に、建てられた。

戦国人物伝のメニューに戻る

トップページに戻る