武田信玄・その1


 甲斐守護・武田信虎の嫡男。武田家第19代当主。
 幼名は太郎、または勝千代。長じて晴信。後、出家して、信玄と号す。官位は大膳大夫・信濃守。
 甲斐の虎。孫子に由来する、「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山(疾きこと風の如く、静かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し)」と書かれた、「風林火山」と通称される軍旗を用いたことで有名。配下の武田騎馬軍団(実際には、“騎馬”軍団ではなかったらしいが)は、戦国最強といわれる。

 1521年、甲斐・石水寺城で生まれる。
 甲斐に侵入してきた、今川家臣・福島正成の大軍を、父・信虎が、寡兵でもって撃退してから、ほどなくして誕生したので、その勝利にちなみ、「勝千代」と命名されたのだといわれるが、一般的に知られている彼の幼名は、「勝千代」ではなく「太郎」である。

 母・大井夫人は、かなりの教育ママであった。当時一流の教養人たちを甲斐に招き、太郎の師としたのだ。
 そのためだろうか。太郎は、長じてからも、高い教養と豊富な学問の知識を持っていた。和歌・漢詩・書道・絵画など、芸術への造詣も深かった。

 まだ元服する前のことだ。母に、「貝合わせ」という遊びをするための、貝を持ってくるように頼まれた太郎は、畳2畳分もの、沢山の貝を持ってきた。彼が数えてみたところ、その数、ざっと3700。よくもまあ、これだけの数を、一途に数え続けたもんである。
 ふと思いついた彼が、近習たちに、
「いくつくらいあると思うか」
 と尋ねてみると、その近習たちは、「1万5000」とか「2万」とか解答する。
 これを受け、太郎は、
「戦場でも、このように敵が多く見えるはず。4000人の兵士を集めるということは、2、3万の兵士を集めるのと同じことだ」
 と語ったという。
 優れた用兵センスを持った、非凡なお子様である。

 1536年に元服。12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、晴信と名乗る。

 同じ年に、平賀源心が拠る、信濃・海ノ口城攻めで初陣を果たす。城兵は3000、味方は8000であった。
 しかしこの城はしぶとく、戦線が膠着したまま、ついには雪が降り積もり始めてしまった。
 こうなっては仕方がない。総大将であった、父・信虎は、撤退を決意した。
 その時、殿軍の役目を願い出たのが、晴信であった。父ちゃんにその申し出を認められた彼は、引き上げると見せかけて、本隊が退却した後も、自らの隊だけで、城のそばに留まった。
 そしてその晩、油断し切って周囲の村々から動員されてきた者たちを帰し、祝勝の宴を開いている海ノ口城を、手勢わずか300人で襲い、見事に落としたのである。守将・平賀源心も、この時、討ち取られている。
 どこからどう見ても大手柄であるが、父信虎は、それを認めようとはしなかった。
「空城同然だったのだから、落とせて当たり前だ」
 というのである。

 実は、晴信は、父から疎まれていたのだ。父は、生意気な性格の晴信を忌み嫌い、その弟である、素直な信繁を溺愛していたのである。自身の後継者も、信繁にするつもりだったらしい。

 困ってしまった晴信は、板垣信方・甘利虎泰ら、家臣団の中にあって、自身の心強き味方となってくれる者たちの力を借り、1541年、クーデターを決行する。その当時は武田家と仲直りしていた、駿河・今川家。そこに挨拶に行った父を、そのまま追放してしまったのだ。
 こうして、父・信虎は、今川家に預かられる身となり、晴信は、新しき甲斐国主となった。
 だが、この、父ちゃん追放劇により、以降晴信は、「親不孝者」の汚名を背負って生きることになってしまうのである。
 ちなみにこのクーデター、領民や家臣団には、おおむね喜ばれたようだ。
 要するに、武田信虎氏、「暴君」だったのである。

 武田家当主となった晴信が、最初に狙ったのは、小領主たちが割拠する、隣国・信濃。父の代から狙っていた国だ。
 その中でも真っ先に目をつけたのが、「諏訪」という土地であった。かの地を治める諏訪頼重の妻は、晴信の妹・禰々御料人。すなわち晴信と頼重とは、義兄弟の間柄である。
 諏訪領内に内紛を発見した晴信は、表向きは、頼重の味方のような顔をしつつ、裏では、頼重と対立している諏訪一門の高遠頼継らを調略、味方に引き入れる。
 そして1542年、何食わぬ顔で諏訪領に侵攻。まさか、義兄弟が攻めてくるとは思っていなかった頼重は、高遠頼継らが寝返ったこともあり、ろくに抵抗もできないまま、降伏。晴信によって幽閉され、かわいそうなことに、そのまま自害させられてしまった。さらにさらに、娘(禰々御料人との間にできた子じゃないよ。側室の子さ)まで奪われ、晴信の側室にされてしまったのである。

 その後も晴信は快進撃を続け、信濃の諸領主を蹴散らしていった。1545年には、一度は味方になった高遠頼継をも倒している。

 そんな、信濃攻略戦中の、ある日のこと。晴信の陣中に、一羽のハトが飛び込んできて、木の上にとまった。
 それを見た兵士たちは、
「ハトが舞い降りるとは縁起がいい。今度の戦は俺たちの勝ちだ」
 と、盛んに喜んだ。当時、ハトは、大変縁起の良いバードとされていたのである。
 しかし、その様子を見ていた晴信は、部下に命じ、ハトを撃ち落してしまった。
「今回は、このハトのおかげで兵たちの士気が上がって、いいかもしれない。しかし、毎度毎度、戦のたびに、ハトなどやってくるはずもない。ここで、ハトのおかげで勝ったことになってしまっては、今後、陣中にハトがやってこなかった時に、かえって士気が下がってしまうだろう。短期的な利益を得ることよりも、長期的な不利益を払いのけることを優先しよう」
 晴信は、そう考えたのだ。迷信深い当時の人にしては珍しい、なかなか冷徹なリアリストである。

 1547年には、分国法である甲州法度を定め、自らの領国支配を、より確かなものにする。戦に勝ちまくるだけでなく、その脇を固めることも、きっちりとやっていたというわけだ。

 同年、笠原清繁の居城、信濃・志賀城を攻撃する。
 この時、上野の、関東管領・上杉憲政が、ウザいことに、志賀城救援の兵なんぞを出してきた。おそらく憲政は、日の出の勢いの晴信に、前々から危機感を感じていたのだろう。今こそ、これを懲らしめてやろうと思ったのではなかろうか。
 しかし、晴信は、憲政の手に負える相手ではなかった。憲政の大軍は、小田井原の合戦で、少ない兵力の武田軍に大敗してしまうのだ。首を取られた者は、3000にも及んだという。
 晴信は、この時挙げた首級を、夜間のうちに、志賀城の周りに並べ置いた。夜が明け、城を取り囲む3000もの生首を見た志賀城兵たちは、戦意を喪失、間もなく、城は陥落した。
 城主・笠原清繁は自害。篭城していた者たちの多くは捕虜となり、男は金山に送られ強制労働、女は娼婦などとして売り飛ばされるという、散々な目に遭った。
 これら、志賀城攻略戦での一連の残虐な行動により、晴信は、信濃の人心を失い、そのせいで、彼の信濃攻略は、大きく遅れることになったという。

 それでもめげずに、信濃攻略を目指して頑張る晴信。その前に、大きな敵が立ち塞がる。父・信虎のかつての盟友、北信濃の覇者・村上義清である。
 1548年、義清と対決した上田原の合戦において、晴信は、初めての敗北を喫してしまう。
 それも、ただの敗北ではない。板垣信方・甘利虎泰ら、幼少のころよりお世話になった老臣たちが戦死し、自身も負傷するという、大敗北である。

 この敗戦をきっかけに、信濃守護・小笠原長時を中心とした、信濃の反武田勢力が決起、晴信は、一時的にピンチに陥ることになるが、塩尻峠の合戦にて、これをあっさり撃破、かえって、信濃での地位を磐石なものとする。

 そうして臨んだ、村上義清との第2ラウンド。1550年の、義清の属城である戸石城攻略戦。なんとしてもここで、リベンジを果たさなくてはならない。
 だが、ここでも晴信は、義清の前に惨敗してしまう。
 戸石城はビクともせず、そればかりか、退却戦において、殿軍を務めた横田高松ら、1000人ほどの将兵が、討ち取られてしまったのだ。 後の世に、「戸石崩れ」として語り継がれる、武田信玄の生涯における、軍事面での最大の失策である。

 慎重な武将として知られる晴信だが、彼が、目に見えて「じっくり派」になったのは、上田原と戸石城の、2度の合戦に大敗してからだという。彼は、この2度の敗戦で、大きく成長したのだ。

 もはや、力攻めは、得策ではない。晴信は、臣下になっていた、謀将・真田幸隆を起用し、戸石城を内部から切り崩す作戦に出た。
 結果は大成功。ハイレベルな調略が功を奏し、1551年、堅城・戸石城は、幸隆の手によって、干からびたトウモロコシの如く、いとも簡単に落城した。

 晴信が、信濃侵攻を円滑に進めるために造った、今なお残る、「棒道」と呼ばれる軍用道路。一説によると、これが造られ始めたのは、1552年ごろだという。甲斐・信濃間に造られた、この「棒道」は、信玄の信濃攻略を大きく助けたに違いない。

 戸石城落城に勢いを得た晴信は、その後、村上勢を圧倒。ついに1553年、義清の本城・葛尾城を落とし、信濃の広い範囲を制圧するに至った。
 これにより、帰る国をなくした、義清や小笠原長時は、越後へと落ち延びていった。

 そんな、哀れな義清さんたちを保護したのが、あの有名な、越後の龍・長尾景虎である。
 正義を愛する彼は、義清さんたちを旧領に復帰させてあげるために、信濃に出兵することを決意。こうして、長尾・武田の両軍は、信濃は川中島にて対陣することになる。ここに、武田晴信VS長尾景虎の宿命的な対決の第1回戦、第一次川中島の合戦が勃発したのである。
 とはいえ、今回は、両雄共に、「様子見」という感じで、戦らしい戦も行われはしなかった。相手の陣容などから、その常人離れした実力を確認し合っただけで、引き上げとなったのである。

 翌1554年、晴信は、強敵・長尾景虎との戦いに本腰を入れるため、駿河の今川義元・相模の北条氏康と、三者間の婚姻同盟を結ぶ。これで、背を気にせずに、龍の首だけを狙うことができる。ウッヒッヒ。

 こうして、起こるべくして起こった、1555年の、第二次川中島の合戦。しかし、両軍睨み合ったまま、戦線は膠着。結局、今川義元の仲介により、和睦することになる。

 1557年、第三次川中島の合戦。またまた今回も、両軍の劇的な衝突はなく、寂しく終わった。

 1559年、晴信は、入道し、信玄と号した。この出家の理由については、かつて父ちゃんを追放したことを悔やみ、反省したためだとも、国内の寺社勢力を味方に付けるためだとも言われている。

 1560年には、後に「信玄堤」と呼ばれることになる堤防を完成させる。
 甲斐の国は、元来、農業生産力に乏しく、水害も多い土地であった。信玄は、この堤防によって川の流れを変え、水害を防ぎ、農耕可能な土地を増やし、新田開発に力を注いだのである。
 ちなみにこの信玄堤、日本最古の大規模治水施設であり、21世紀の今日でも、有効に機能している。信玄は、軍事面だけではなく、内政面でも、偉大な業績を残しているのだ。

 1561年、世にも有名な、第四次川中島の合戦が起こる。この戦は、前3回とは違い、武田信玄と上杉政虎(長尾景虎から改名)の、総力戦となった。
 政虎率いる1万3000の上杉軍は、妻女山に陣を構えた。対する信玄は、茶臼山に本陣を置き、政虎と睨み合う。しかし、上杉軍が妻女山から一向に動こうとしないのを見て、やがて、近くにある、海津城に入った。その兵力は、全部で2万。
 それから、またしばらくの睨み合いの後、先に動いたのは、武田軍の方であった。軍師・山本勘助が献策したとされる、「啄木鳥の戦法」で、上杉軍を一気に攻めることにしたのだ。
 夜、信玄は、高坂昌信・馬場信房らの率いる1万2000を、別働隊として、政虎に気づかれぬよう、こっそりと、妻女山の裏に回らせた。そして自身は、8000の本隊を率い、やはりこっそりと、妻女山の目の前の、八幡原に移動、そこに布陣した。
 別働隊に妻女山を夜襲させ、驚いた上杉軍を八幡原に追い落とし、これを、待ち構えた本隊と別働隊とで挟撃し、ペシャンコにする――。「啄木鳥の戦法」とは、そういう戦法であったのだ。
 ところが、夜が明け、霧にまみれた朝がやってきても、妻女山からは、戦の音が、全然聞こえてこない。これは、ちょっと変だ。予定と違う。
 やがて、川中島を覆う霧が晴れた時、信玄が目にしたものは、眼前に広がる、絶対にあってはならない光景であった。
 なんと、そこには、全く無傷の、上杉軍がいたのだ。政虎は、啄木鳥の戦法を看破し、全軍で、八幡原へと下りてきていたのである。誰もいない妻女山に、別働隊の連中は、今ごろ、アセりまくっていることであろう。
 上杉軍の、猛攻が始まった。信玄も、あわててこれに応戦する。別働隊の到着まで、なんとしても持ちこたえなければならない。
 しかし、兵力で勝る上杉軍に、武田軍は次第に圧倒されてしまう。信玄の弟・信繁や、山本勘助が戦死するなど、その被害は甚大。信玄を守るべき旗本隊でさえ、ボロボロの状態であった。

(つづく)



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