北条早雲

1432〜1519

異名:――――


 後北条家の始祖にして、戦国大名の先駆け的存在。下克上の代表選手とされる。
 本名は、伊勢新九郎長氏。名は、盛時だともいう。早雲庵宗瑞と号す。ちなみに存命中は、「北条」という名字は名乗っていない。この名字を名乗るようになるのは、2代・氏綱の時からである。
 かつては、出自全く不明の馬の骨だとばっかり思われていたが、現在では、室町幕府の政所執事を務めた伊勢一族の出で、備中出身であるという説が有力。

 1464年ごろから、8代将軍・足利義政の弟、足利義視に仕え始めたらしい。それ以前は、どこで何をしていたのか、ちっとも分からない。

 1467年、義視が、応仁の乱で混乱する京から、伊勢へと落ちていった際、新九郎も、これに同行している。

 しかし1469年、新九郎は、没落していく義視を見限り、駿河へと下向する。かの国の太守・今川義忠に、自分の妹が嫁いでいる縁を頼って、である。今川家の方から、「来てくれ」と言ってきたともいわれる。

 この、駿河下向の際、新九郎は、6人の仲間たちと、
「もしも、俺たち7人のうちの誰かが大名になったら、他の6人は、そいつの家来になろう」
 という契りを結んだとされる。後にこの約束は、新九郎の出世によって果たされることになる。

 今川家の食客となった新九郎が、歴史に残るような活躍を始めるのは、1476年になってからである。
 この年、今川義忠が、一揆勢との戦いに敗れ、戦死してしまう。一人息子(母は新九郎の妹・北川殿)の龍王丸は、まだ4歳の幼児。この機に乗じて、家督を我が物にしようとする奴が出てくることぐらい、シロウトでも予想がつく。
 今回のケースでは、龍王丸の従兄弟・小鹿範満が、その役回りであった。さらには、伊豆の国・堀越を本拠とする、堀越公方・足利政知(義政・義視の弟)や、武蔵を本拠とする、扇谷上杉家の上杉定正などまでもが、兵を派遣して、介入してきやがる始末。今川家、空中分解の危機である。
 この時、「龍王丸が元服したら、彼が家督を継ぐ。それまではとりあえず、範満を家督代行とする」という案を出したのが、新九郎であった。龍王丸派も範満派も、共にこの案に納得、めでたく、事態は丸く収まった。
 ちなみに、このお家騒動の際、新九郎は、扇谷上杉家から派遣されてきた、名将・太田道灌と会談し、お互いの才能を認め合ったとも伝わっている。

 その後、新九郎は、再び上洛。1483年からは、足利義政の子、9代将軍・足利義尚に仕えている。

 ところが1487年、新九郎は、妹によって今川家に呼び戻される。なんでも、龍王丸が立派に成長したというのに、小鹿範満が家督を譲り渡そうとしないというのだ。そこで、「兄さんどうにかしてくれよ」と、救いを請うてきたのである。
 駿河に下った新九郎は、範満の館を急襲し、バキッとこれを抹殺。元服して今川氏親と名乗った龍王丸を、今川家当主にして差し上げることに成功した。

 この功を認められた新九郎は、氏親の後見人となり、1488年、彼から、駿河東部にある興国寺城を与えられる。ようやく、一城の主となったのである。時に新九郎、57歳。人生50年が当たり前だった時代のことだ。こんな年寄りが、これからさらなる大出世を遂げることになろうとは、誰一人、思ってはいなかっただろう。

 領主となった新九郎は、とてつもない善政を敷いた。当時の税率は「五公五民」や「六公四民」が当たり前だったというのに、それを、「四公六民」にまで下げたのだ。応仁の乱によって、民たちが路頭に迷う様を間近に見てきた、彼ならではの政策といえるだろう。
 この政策は、近隣の国々でも評判となり、多くの民が、新九郎のもとへと流入してきた。彼らは、新田の開発を頑張り、おかげさまで、収入は、以前よりアップしてしまった。「新九郎様のためなら命だって捨てるぜ!」なんて思ってくれる領民も急増、この政策は、軍事面でもプラスになった。

 1491年、伊豆の、堀越公方・足利政知が他界した。
 嫡男の茶々丸は親父に嫌われていたために、後継者は、茶々丸の異母弟・潤童子になる予定であった。
 しかし、それに不満を抱いた茶々丸の野郎が、反旗を翻した。潤童子とその母をブッ殺し、勝手に堀越公方となってしまったのだ。
 だが、こんなことやって人心を得られるはずもない。伊豆国内は、荒れに荒れ始めることになる。

 「これはチャンスだ!」と思ったのが、新九郎であった。彼は、今川氏親からも兵を借り、政情不安定な伊豆へ侵攻、足利茶々丸を消し去り、堀越公方を滅亡させた。そして、ほどなく伊豆全土を平定してしまったのである。
 守護大名の客将ごときが、権威ある将軍の一族を討ち、その国を乗っ取る。まさに、「下克上」の時代の到来を告げる出来事であった。

 伊豆を手に入れた新九郎は、その地に韮山城を築城、新たなる居城とした。
 ここでも彼は、領民を思いやる政治を忘れなかった。病が流行った際には、村々に、無料で薬を提供したりもした。そのため、民たちからは大変に慕われ、国人衆からも熱いエールを送られた。

 新九郎が、「早雲」になったのも、この、韮山城主になったころであるようだ。
 なんでも、韮山城からは、富士山が、よく見えたらしい。その富士山の上を、スピーディーに流れていく白い雲。それを見た新九郎は、自らの庵号を、「早雲」としたのだという。
 しかし、それだったら、「早雲」ではなく、「速雲」にしなくてはいけないのではないか? ……などと、つまらないことを言ってはならない。人様の足を引っぱってはいけないよ。

 ある晩、早雲は、変わった夢を見たという。
 二本の大きな杉の木。その根元を、一匹の小さなネズミが、かじる。やがて、それらの木は、バタリとブッ倒れる。するとどうだろう、小さなネズミは、大きな虎へとその姿を変える。
 早雲は、この意味不明な夢を、
「二本の杉は、関東を支配している、扇谷・山内の両上杉家。ネズミは、ネズミ年生まれの俺のこと。これは、我が伊勢家が両上杉家を倒し、関東の王者になるという予知夢だ!」
 と、著しく自分に都合のいいように解釈してのけた。
 とはいえ、彼の孫・氏康の代には、まさにこの解釈の通りになるわけだから、あながち笑い飛ばせるものでもないかもしれない。

 夢が、それを決意させたのだろうか。続いて早雲が狙ったのは、上野を本拠に、関東の広範囲に大きな力を持つ山内上杉家の、その重臣・大森藤頼が拠る、小田原城であった。箱根の山の向こう側、相模の国にある城である。
 まずは早雲、「お友達から始めましょう」とばかりに、藤頼と仲良しさんになることにした。その上で、1495年のある日、
「鹿狩りをしていたのですが、鹿が小田原城の裏山に逃げてしまいました。連れ戻すために、勢子を領内に入れさせてもらってもよろしいでしょうか?」
 と、藤頼に尋ねる。早雲のことを信用し切っていた藤頼は、実にあっさり承諾してくれた。
 早速、早雲は、勢子に変装した兵士たちを、小田原城の裏山に入れる。そしてその晩、多数の牛を用意し、その角に松明を結びつけ、小田原城目がけて突っ込ませたのである。闇に浮かぶ無数の松明を見て、大軍の来襲だと勘違いした藤頼たちは、戦うこともなく、城を捨てて逃げ去っていった。こうして早雲は、一滴の血を流すこともなく、小田原城を手に入れたのである(実をいうと、本当に牛を使って落としたかどうかは、かなり疑わしい。しかし、方法はどうあれ、寡兵で小田原城を落としたことだけは間違いない)。
 なお、本拠地の方は、韮山城から動かしてはいない。小田原城を本拠とするのは、2代・氏綱のころからである。

 ある時、小田原で馬泥棒が捕まって、その者の裁判に、早雲も立ち会うことになった。
 この馬泥棒が、なかなか肝っ玉の太い奴であった。役人の尋問に対し、
「確かに俺は馬泥棒だよ。殺されても文句は言えんさ。だけど、俺の目の前には、国泥棒が何食わぬ顔でいる。国泥棒に比べたら、馬泥棒なんて、ずいぶん軽い罪だよ」
 と、言ってのけたというのだ。
 馬泥棒の弁に、ブチ切れるかと思われた早雲だが、なぜか、ワッハッハッと大笑い。
「あんたの言う通りだ!」
 と、その馬泥棒を、そのまま釈放してしまった。
 この話を聞いた早雲の領民たちは、彼の度量の広さに、ますます感服したという。

 1504年、扇谷上杉家と山内上杉家との間に、立川原の合戦が起こる(実は、両上杉家は、前々から非常に仲が悪く、たびたび争っていたのだ)。早雲は、今川氏親と共に、この戦に、山内上杉方として参戦した。結果は、山内方の大勝利であった。
 ちなみに、この時氏親と共闘していることからも分かる通り、早雲は、今川家に対しては、決して刃を向けたりはしていない。あくまでも、「当主の良き伯父」という立場のままである。

 1506年には、小田原周辺の検地を実施、新基準の貫高を採用した。また同年、氏親の依頼を受け、三河に侵攻している。

 1508年にもやっぱり、氏親の依頼で、三河を攻めている。
 このように、客将・後見人として、氏親の頼みは快く聞き入れ、甥との蜜月関係を保っていたようだ。

 1510年の、権現山の合戦。この戦に早雲は、惨敗してしまう。
 長尾為景との長森原の合戦で、山内上杉顕定が戦死したのを好機とし、関東へのさらなる進出を画策した早雲。これに対し、「早雲恐るべし」と悟った両上杉家が、和解し、タッグを組んで挑みかかってきたのである。かなわないのも無理はない。

 両上杉家との全面対決は非現実的だと判断した早雲は、攻撃目標を、扇谷上杉家の重臣一族で、相模の最大勢力である、三浦家に変更。1512年には、三浦家から鎌倉を奪い取っている。その後、対三浦戦の拠点として、玉縄城を築城したりなんかもした。

 1516年には、新井城を攻略。三浦家の親玉である、三浦義同・義意親子は自害し、ついに、三浦家は滅亡した。これにより、相模全土が、早雲の支配下に入ったのである。

 1518年、87歳にして、ようやく、嫡男・氏綱に家督を譲る。長い長い旅であった。

 引退した翌年の1519年、早雲は、韮山城で、88年の生涯を閉じた。老衰死であったという。

 早雲が残した家訓・早雲寺殿廿一箇条の中に、
「上下万民に対し、一言半句であっても嘘を言ってはならない」
 という言葉がある。
 彼は、どこまでも、民を思いやる人物であったのだ。
 もちろん、「打算でそうしていた」という面もあるだろうが、「民百姓は、俺たちに搾取されるためだけに存在している」という価値観が、当時の支配者階級の常識だったことを思えば、それにしたってこれは、すげぇことである。
 一般に、北条早雲といえば、戦乱を呼び起こした悪人としてイメージされやすい。しかし、実際の彼は、悪者どころか、世の人々のために、腐り果てた権威を打ち破ろうとした、新しい時代の開拓者だったとさえいえるのではないだろうか。


(おしまい)



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