出羽の戦国大名。安東家の当主。檜山城主。湊城主。脇本城主。
通称は太郎。官職は秋田城介・侍従。
その存在感を北斗七星にも例えられた、北国の雄。長年2つの家に分かれていた安東家を統一し、強固な勢力を築き上げた。
1539年、出羽北部の戦国大名・安東舜季の子として誕生する。
安東家は、古来、東北地方に勢力を持ち、海を通じ、日本の北の果てである蝦夷地の武士たちをも支配下に置いてきた家であった。
愛季が生まれたのは、そんな安東家の本家にあたる、檜山安東家という家。このころのこの家は、出羽北部に所領を持ちつつ、未だに蝦夷地に対して強い影響力を持ち、蝦夷の戦国大名・蠣崎家を従属させていた。
「檜山安東家が本家にあたる」だなんて、わざわざ断ったということは、当然、分家にあたる家もあるということ。
檜山安東家の本拠である、出羽北部・檜山城。その南に位置する、出羽北部・湊城。この湊城を本拠とするのが、いわゆるその、分家。湊安東家であった。
1551年、そんな湊安東家の当主であり、愛季の母方の祖父にあたる人物でもある、安東堯季が死去した。
残念ながら堯季には、跡を継がせるべき、息子がいなかった。困ってしまった湊安東家の人たちは、檜山安東家と相談。その結果、急遽、愛季の弟である茂季が湊安東家に入り、その当主となることとなった。茂季は愛季の同母弟なので、堯季にとっては、孫。まだ子供だけれども、跡取りの資格は十分にあるのだ。
こうして安東舜季は、自分の息子を、当主として分家の湊安東家に送り込むことに成功。これにより、自然と湊安東家は、檜山安東家に吸収されてしまいそうなもんだが、実際には、そうはならなかった。
なにしろこの両家、力の差があまり無く、しかも2つの家に分かれてから、かれこれ150年以上も経っているのである。きっと湊安東家の家臣団は、本家と並び立つ、「湊安東家」という家への強い帰属意識を持っていたに違いない。そう簡単には、取り込まれてはくれない。両家は変わらず、別の家として歩いていく。
1553年、愛季の父である、安東舜季が死去。家督を継いだ愛季は、15歳にして、檜山安東家の新たな当主となる。
若くして、戦国の荒波に漕ぎ出した彼。先祖から受け継いだ家を守り育てるため、奮闘していく。波に打たれて倒れたなら、そんな自らの骸なんぞ打ち捨てる覚悟で臨む。とはいえ最初のうちは、家臣たちの心を掌握するだけで、一苦労だったことだろう。
愛季の居城・檜山城から西に少し行った所にある、能代港という港。檜山安東家の海の玄関口にして、各地とつながる交易の重要拠点。檜山安東家の貴重な収入源である、昆布・サケ・毛皮といった、蝦夷地からもたらされる価値の高い特産物も、ここからやってきて、ここから出ていくのだ。
1556年のこと。愛季は、この能代港の開発に乗り出す。港の設備を増やし、港町の規模を大きくし、より大規模な商いができるようにし、檜山安東家の財政を潤そうという作戦である。
1562年には、越後国の戦国大名・上杉輝虎と通交。手を結ぶ。
越後は、出羽国の南西に隣接する国だが、上杉家と檜山安東家の領地自体はかなり離れており、ちっとも接していない。間を取り持ってくれたのは、やはり、海。日本海を介して、両家はつながったのである。
こうして結びつく相手が増えれば、当然に貿易額も増え、檜山安東家の財布に入る金も増える。投資した能代港が本領を発揮。実にウハウハだ。
豊かな財政基盤をバッチリと手にしたら、次は軍事行動。同年のうちに愛季は、陸伝いに勢力を拡大するため、動く。
檜山城の東方にある、出羽北部・十狐城を本拠とする、国人領主・浅利則祐。この則祐は、弟である勝頼と不仲で、対立していた。
そこで愛季は、浅利勝頼に接近。その協力を得て、軍勢を率い浅利領に侵入。浅利則祐を攻撃して打ち破り、自害に追い込んだのである。
そうして愛季は、則祐亡き後の浅利家の当主に勝頼を据えた上で、これを檜山安東家に従属させる。味方してあげた代わりに、屈服してもらったというわけだ。
安東愛季。「愛季」という、美しく可愛らしい名前をしていながら、やることは、なかなかに冷酷で強かな、戦国の男である。
1564年、今度は愛季、越後国のさらに西方にある越前国の朝倉義景と、手を結ぶ。
日本海を通じ、より遠くまで。海沿いの国とのお友達の輪を、貿易の輪を広げ、財政基盤をさらに盤石に。実に実に、ウハウハだ。
先年愛季が服属させた、出羽北部・浅利領。そこから東へ向かうと、隣国・陸奥国がある。
1567年、愛季はその陸奥へと出陣。国境を越えた所にある、陸奥北部・長牛城を攻め落とす。
ここは、陸奥北部の戦国大名・南部晴政の持ち城の一つであり、愛季が以前から狙いをつけ、落としてやろうと頑張っていた城であった。めでたく目標を達成したというわけだ。
南部家を殴り、陸奥に領土を広げた檜山安東家だったが、翌1568年、しっぺ返しを喰らう。
自ら兵を率いて襲来した南部晴政によって、長牛城を奪い返されてしまったのである。
陸奥国内の檜山安東領は、あえなく消失。出羽と陸奥との間の壁は、厚かったようだ。残念。
1570年、愛季の弟・茂季が治める湊安東家にて、変事が起こる。一部の家臣たちが結託し、反乱を起こしやがったのだ。
すかさず愛季は兵を挙げ、湊安東家の領内へと乗り込んでいく。「分家の危機を救うため」という名目で。
愛季勢は反乱軍と戦い、簡単にこれを蹴散らす。湊安東家では手こずりそうな相手でも、檜山安東家なら楽に倒せるのだ。愛季の代になってから、檜山安東家は急成長。もはや湊安東家との力の差は、歴然としている。
反乱を鎮圧した愛季は、そのまま流れで、湊安東家の本拠である湊城に入城。なんとそこを、自らの新しい居城とし、さらには湊安東家の家臣団や土地を自らのものとし、当主である茂季さえも、自らの家臣の一人としてしまう。
愛季は、弟の立場を奪い取り、だいぶ強引なやり方で、湊安東家を自家に吸収したわけだ。ここに、170年以上ぶりに本家と分家は統一され、安東家は、一つの家となったのである。
安東愛季。「愛季」という、美しく可愛らしい名前をしていながら、やることは、なかなかに冷酷で強かな、戦国の男である。
1574年、愛季は、出羽の遥か南西・京の都を押さえる織田信長に使者を送り、馬と鷹を献上した。
信長は、領土をモリモリと広げ、このころ、日本の中央にて自身の政権を打ち立てている武将。辺境の出羽にいながら、海を通じ、世の情勢をしっかりキャッチしている愛季である。安東家の将来を見据え、誼を通じるべき相手と、誼を通じたのだ。
1577年。この年より愛季は、秋田城介という官職を名乗り始めたのだという。
秋田城介は、出羽北部に所縁の深い、名誉ある官職。ここいらに確かな地盤を築く彼に、相応しい官職であるといえるだろう。
1579年には、安東家の本拠地の移転を行う。
移転先は、湊城の北西、檜山城の南西に位置する、脇本城という海辺のお城。元々は、湊安東家が領有していた城である。
愛季が湊城に入ってから、だいぶ時も経った。かつて湊安東領だった土地の連中も、だいぶ彼に心服してきたことだろう。ここらで彼は、安東領全体を治めるのに都合の良い、合併前の両安東家の本城のちょうど中間くらいにあるこの城に、転居することにしたのである。
陸奥国の、北西部。北国である出羽国の、さらに北に隣接している地である。
1580年のことという。愛季は、そんな陸奥北西部の戦国大名・大浦為信の領地に、安東家に従属している浅利勝頼を攻め込ませた。浅利家を自分らの代わりに戦わせ、あわよくば、安東家を損耗させることなく所領を拡大しようと目論んだのだ。
しかし、この攻撃軍は、直接迎撃に出向いてきた大浦為信の前に惜しくも敗れ、撃退されてしまった。出羽と陸奥との間の壁は、やはり厚かったようだ。残念。
翌1581年、前年に身を削って働いてくれたばかりの浅利勝頼が、なんと安東家に対して反旗を翻す。
大浦攻めで愛季にコキ使われ、おもしろくない気持ちでいたところを、大浦為信によって巧みに誘われ煽られ、挙兵しやがったのである。
この事態を受け愛季は、兵を率いて浅利領に突っ込んでいく。そうして浅利勢を打ち破り、反乱を鎮圧。浅利勝頼は渋々頭を下げ、再び安東家に服従した。
1582年には、出羽南部の戦国大名である大宝寺義氏が、出羽北部に侵攻してくる。
愛季は軍勢を率い、これを迎撃。揉み合いの末に敵を崩し、追い払うことに成功する。
同年、愛季も、いろいろ贈って仲良くさせてもらっていた、あの織田信長が、突然この世を去った。天下人といえる地位にまで上り詰めながら、重臣・明智光秀の謀反により、まさかの横死を遂げたのだ。
その後、光秀が、同じく信長の重臣であった羽柴秀吉によって倒されると、すかさず愛季は、秀吉に接近。誼を通じる。
秀吉は、もしかしたら信長の勢力を引き継ぎ、次の天下人になるかもしれない男。友好関係を築いておかねばならない。相変わらず愛季は、北の出羽から目ざとく世の流れを読んでいるのだ。動きは速い。
1583年、出羽南部の大宝寺義氏が、またしても出羽北部に攻め込んでくる。
2年連続の攻撃に、心が休まるヒマもないが、前回と比べ今回は、割と防戦の準備は整っている。安東家に従属している、蝦夷の蠣崎家当主・蠣崎慶広が、前年の戦いの後より、援軍を率い安東領に来ているのだ。大宝寺家の再侵攻に備え、予め人員を補強してある、というわけだ。
愛季は出陣し、またも大宝寺勢を迎え撃ち、勝利する。打撃を被った義氏は、遁走。出羽国南部へと吹き飛んでいった。ひでぶっ。
同年のことという。愛季は、大宝寺家との抗争に勝ったお祝いと称して、酒宴を開いた。開催場所は、自身のかつての居城・檜山城である。蠣崎慶広や浅利勝頼といった、安東家に服従している人たちも招かれ、出席者に名を連ねている。
この宴の席において、なんと愛季は、浅利勝頼を殺害してしまう。蠣崎慶広に襲撃させ、斬殺したのである。
実は愛季、勝頼が、再び大浦為信と結んで何やら企んでいることを、察知していたのだ。そもそもこの宴会は、そんな勝頼を呼び寄せて始末するために、開かれたものだったのである。
わざわざ、安東家に従属している身の慶広に実行役を命じ、返り血を浴びさせたのは、安東愛季に逆らうことの恐ろしさを、勝頼と似たような立ち位置の慶広に、身に染みて分からせるためであろうか。
その後愛季は、主を失った浅利領を簡単に接収。丸ごと安東家の直轄領とする。勝頼の息子・頼平は、出羽国を脱出。大浦為信を頼り、陸奥北西部へと落ち延びていった。
安東愛季。「愛季」という、美しく可愛らしい名前をしていながら、やることは、なかなかに冷酷で強かな、戦国の男である。
翌1584年、大浦為信に支援された浅利頼平が、父の土地を安東家から取り戻すため、国境を越え、出羽北部の旧浅利領に攻め込んでくる。要するに、大浦家による安東攻めの、先兵である。
愛季は旧浅利領に向かい、頼平勢と交戦。これを簡単にブチのめす。
安東家と大浦家という二大勢力に揉まれ、いいように扱われて、踏んだり蹴ったりで。浅利家の人たちは、気の毒な人たちである。
こうして、出羽国内に着実に領土を広げ、それをガシッと守り抜く愛季。このころの彼は、近隣の武将たちから、畏怖と畏敬の念を抱かれる存在となっていた。
その威光はキラキラと輝き、そのうちに、「斗星の北天に在るにさも似たり」と、世に謳われるまでに至ったのだという。
なんだかよく分からないが、とてつもなくカッコいい言い回し。「北に住まう、北斗七星みたいなすごい奴」くらいの意味であろうか。やっぱりよく分からないが、とにかくカッコいいぜ。
出羽北部の戦国大名・戸沢盛安。脇本城や湊城の南東・角館城を本拠とする、若輩ながら強い武将だ。
1587年、愛季は、この戸沢盛安を攻撃するため、出陣する。近年安東家と対立を深める戸沢家に、ここらで痛打を浴びせておきたいのだ。
愛季が引き連れる兵力は、3000。盛安は1200の寡兵でもって、これを野戦迎撃する。唐松野の戦いである。
両軍入り乱れての激しい攻防。そんな中、不慮の出来事が起こる。
なんと、安東勢の総大将である愛季が、急な病を発し、戦の指揮を継続できなくなってしまったのである。
この、どうにもならない不運による、命令系統の混乱のせいもあったのだろう。安東勢は、戦いに敗北してしまう。まあ、戸沢勢にも結構な損害を与えたから、一方的に大負けしたわけではないんだけどね。
戦が終わり、自領へと撤退。脇本城に担ぎ込まれた愛季は、すぐに病床に倒れ込み、世間に発病を伏せつつ、手厚い治療を受ける。敵軍との戦いの次は、病との戦いが始まったというわけだ。
しかし、思いのほか病状は重い。ついに愛季は、回復の日を迎えることなく、同年のうちに息を引き取った。享年49。北の斗星が、墜ちたのである。
力尽きた愛季の亡骸は、近習の一人に背負われ、脇本城から搬送。夜の闇に紛れて城下の寺に運ばれ、その場所で密かに葬られた。
どうにも寂しい終わり方であるが、これには、愛季自身の遺志が働いているものと思われる。
普通に考えて、病で他界した殿様の遺体を、こんな風にぞんざいに扱うという判断ができるのなんて、その殿様本人くらいしかいない。死の床に伏した愛季が、自らの亡骸を葬儀も無くひっそりと埋めるよう、遺言したのであろう。
愛季の跡を継ぐ、息子・実季は、この時まだ、12歳なのだ。急な病だったから、引き継ぎだってマトモにできていない。今、愛季の死を周辺諸勢力に感づかれたら、実季と安東家は、簡単に餌食にされてしまうだろう。なんとしても、今しばらく、斗星が墜ちたことを隠しておかなければならない。そのためには、自分自身の弔いなんて、どうだって良いのだ。
愛季の、冷酷なまでの強かさの矛先は、自らにすら向けられていたのである。
そしてその根底には、彼の名が示す通り、息子や安東家に対する、確かな愛があった。決して、愛などいらぬと凝り固まった男ではなかったのだ。
頑張って、他界を周囲に伏せてはみたが、やっぱりそのうちに、みんなにバレてしまう。
翌1588年には、愛季亡き後の安東領を奪うため、戸沢家や南部家が攻撃をしかけてくる。
なんとか耐え凌ぐ、安東家の新当主・実季であったが、敵対勢力の皆さんによる攻勢は続く。若き当主、早くもピンチである。
その後も、苦しい日々を重ねながら家を守る実季。そんな彼に、1590年、思いがけない救いの手が伸びてきた。
なんと、織田信長の後を受け、気づけば天下人となっていた豊臣秀吉(改名した羽柴秀吉)の強大な力が、一気に陸奥や出羽を飲み込んだのである。
秀吉といえば、父・愛季の代から安東家とつながりのある相手。実季は、これ幸いと彼に急接近し、臣従。出羽国内の安東家の所領は、秀吉によって安堵される。
戸沢家やら南部家やらも、秀吉には逆らえない。今までの、陸奥や出羽での抗争は、実質的にチャラになる。安東家は、敵対諸勢力による脅威から解放され、平穏な日々を勝ち取ったのだ。
早い段階から、秀吉と誼を通じていた甲斐があったというもの。安東家を思う愛季の先見の明が、実季を救ったのである。愛季の肉体は滅びても、その愛は滅びぬのだ。
翌1591年のことだという。安東実季は、自身の家の名字を、「秋田」へと改めた。
かつて、父・愛季も称した、秋田城介の官職にちなんだ名字である。
時は流れて、1602年。秋田実季は、このころの天下人である徳川家康の命により、出羽国からだいぶ南の、常陸国・宍戸へと転封。所領の規模も縮小される。
先年豊臣秀吉が没した後、実季は家康に従い、上手く立ち回っていたのだが、その後に少し、徳川政権内での政治的な駆け引きに失敗してしまったのだ。それで今回、飛ばされることになってしまった、というわけなのだ。
こうして、父祖伝来の地を離れることにこそなったが、幸いにして、家そのものはしっかり健在である。
愛季の愛によって守られた秋田家は、その後の江戸時代を通じ、大名家として存続していくことになる。
(おしまい)