その2
1590年、豊臣秀吉によって、関東の雄・北条家が滅ぼされる。秀吉による国替えが行われ、徳川家康は、旧来の領地から、旧北条領である、関東に移封。関東8ヶ国を統べる立場となる。
元忠も、主君に従い、関東に異動。家康から、下総・矢作4万石をもらい、矢作城主となる。
翌1591年、長年の功労を賞して、家康は元忠に、感状を贈ろうとする。これまでの元忠の功績を考えれば、当然の褒賞ではあるが、それでも、主君から感状をいただけるなんて、これは、とっても名誉なことである。
しかし元忠は、例によって、このありがたいお話を、断ってしまう。
「感状というものは、他の殿様の所に転職する時に、役に立つもののはずです。俺には、他の殿様に仕えるつもりはないので、感状は必要ありません」
と、いうのが、その理由であった。
なんというか、筋金入りだな、この三河武士は。でも、元忠ほどの功臣に、感状の一つもあげられないのでは、他の家臣たちに示しがつかない。元忠の、この忠臣っぷり。家康は、嬉しく思う反面、頭を抱えたに違いない。
1599年、元忠は、自領内の総検地を行う。
殿様から賜った土地の測量に、寸分の間違いもあってはいけない。彼のことだから、頑なに、そう思い込んだのだろう。元忠はこの検地を、メチャクチャ徹底的にやった。
百姓たちの暮らしの実態に寄り添うことなく、一片の温情もかけない。その、あまりの徹底ぶりに、百姓たちが納めるべき年貢は、メチャクチャ大幅に増額。領民たちは大いに嘆き、人心は荒んだ。
行き過ぎた実直さは、時に人を幸せにしない。この人ってば、どう見ても、政治家には向いていないタイプである。
明けて、1600年。元忠ら家臣たちと共に、一時的に、摂津の国・大坂に身を置いていた徳川家康は、陸奥の国は会津の大名・上杉景勝を討伐するため、動き始める。徳川家に対して生意気な態度を取る、上杉家の奴らを懲らしめるのだ。
当時すでに、天下人・豊臣秀吉は、病で死去しており、この世にいない。豊臣政権内で秀吉に次ぐ実力者だった家康は、そんな、絶対君主が不在の世の中で、次期天下人への野望を燃やし始め、その野望が気に食わない上杉家などと、だいぶ揉めていたのである。
そしてそして、この、上杉討伐の裏には、家康の、もっと大きな目的が隠されていたのだとされる。
家康にとって、最も鬱陶しい政敵である、豊臣家の奉行・石田三成。その三成を、誘い出すという狙いがあったらしいのである。
家康と仲間たちが、大軍をもって挙兵し、会津へ向かう。すると、京都など日本の中心部における、徳川家の軍事的影響力は、一時的に激減する。その隙を突いて、きっと三成は、京都近郊で、兵を挙げるはずなのだ。豊臣政権内の、家康に対する不満分子をかき集めて。
そしたら、会津方面から反転し、その、寄り集まった不満分子軍団を一網打尽にし、一気に、天下を自分のものとする。
家康の頭の中には、そんな構想が、あったようなのだ。
元忠ら多くの将兵を率い、家康は、上杉討伐のため、大坂から東に向かって進発。その日のうちに、大坂の近く、京都にある、伏見城に入る。
実は、ここで重要になってくるのが、いったい誰を、この伏見城に残していくのか、という点なのである。
伏見城は、豊臣政権の政治の中枢の一つであり、今は、家康が、豊臣家から預かっている城。石田三成が兵を挙げた際には、間違いなく、真っ先に標的にされる城なのだ。
逆にいえば、この城こそが、三成に挙兵を促す、最大のオトリなのであるからして、大軍で守りを固めておくわけにはいかない。かといって、城をほぼガラ空きにしておいて、平和裏に敵に拾われたりしてしまっては、後ほど家康が、西に転進し、三成を討伐する際の大義名分としては、弱っちくなってしまう。
やはり、割と少人数の守備隊を残し、その人たちに守りの戦をしてもらうしか、手はない。そして、この伏見城は、政治上の拠点として優れた立地にある城であり、どっかの山奥にある要塞なんかではない。逃げずに敵と戦った場合、この城に残された将士が、生き延びられる可能性は、非常に低いだろう。
これは本当に、苦しい人選である。家康は、苦しんだはずだ。
まず、家康のために死地に留まり、そのままそこで死んでくれるような、忠義の人でなくては、こんな仕事は務まらない。
さらに、家康本隊が西に引き返してくるまでの間、少しでも長く時間稼ぎができるような、実戦経験豊富で、戦の強い人物であることが望ましい。
とはいっても、三成との決戦で主力になるような、スーパーエース級の人材や、これからの徳川家を背負って立つような、若手エリートを、こんなところに置き捨てていくわけにはいかない。
……と、すれば、誰が良いのか?
家康の脳裏に浮かんだのは、ある、一人の男であったはずだ。
完全な、捨て石である。だけど、決して、どうでもいい奴だから、捨て石にするわけじゃあない。他の誰にも代えられない、かけがえのない人だから、この、人生最大の大一番で、捨て石として、起用させてもらうことにしたのだ。
こうして、伏見城の留守居役に抜擢された、鳥居元忠。表向きの任務は、単なるお留守番。この、どこか鈍いところのある武人は、自分に課せられた本当の使命に、気づいていたのか、いないのか。二つ返事で、主君からの京都お留守番命令を、引き受けた。
そしてやってきた、伏見城出発を翌日に控えた、晩。家康は元忠に、声をかける。二人で、酒を飲みたい、と、いうのである。
城内の一室にて、差し向かいで盃を交わす、主従。駿府での人質時代からの、日々。共にくぐり抜けてきた、数々の戦い。懐かしい話に、花が咲いたに違いない。
やがて。ついつい酒が、進みすぎてしまったのだろう。とうとう家康は、感情を抑え切れなくなり、泣き出してしまった。
そうして、泣き声のまま、言うのだ。
「明日は、一人でも多くの兵士を、この城に残していこうな……」
しかし元忠は、毅然と、こう返す。
「いいえ。明日は、一人でも多くの兵士を、連れていってください。こんな所に捨てていく兵士は、一人でも少ないほうがいい」
元忠には、ちゃんと、分かっていたのだ。難しいことは理解できなくたって、殿様とは、半世紀もの付き合いだもの。自分が果たすべき役割も、この盃の意味も。全部、分かっていたのだ。
竹馬の友。無二の大将。徳川家康公。俺の家族と、この城に残る兵士たちの家族のこと、頼みました。どうか、天下を。天下を取ってください。
その夜、二人は、ずいぶんと遅い時間まで、酒を酌み交わし、名残を惜しんだという。
夜は明けて。家康は、兵力の大部分を引き連れ、さらに東へと出発する。伏見城に残るのは、元忠とその配下、1800の将兵のみである。
いくらか日にちが経ち、家康本軍が京から遠く離れると、当初の家康の読み通り、石田三成が、徳川家に対する不満分子軍団をかき集め、京の近場の大坂にて、挙兵。伏見城に狙いを定め、軍勢を差し向ける。
宇喜多秀家を筆頭に、小早川秀秋・毛利秀元・長宗我部盛親・小西行長・大谷吉継・長束正家・宗義智・島津義弘らに率いられた、総勢4万の大軍団である。
しかし、城攻めの前に、まずは話し合いだ。敵さんは、城内に使者を送ってくる。降伏を、促してきたのだ。
なんともかんとも、気の毒な使者である。鳥居元忠が、徳川家康から預かった城を、敵に明け渡すわけがないではないか。
元忠は、送られてきた使者を、殺害。死者に変身しちまった使者の、その屍を、敵中に送り返してやった。交渉の余地なんぞ、ハナっから、どこにもねえんだよ。
敵軍は、城を完全に包囲。こうして、圧倒的な兵力差の中、伏見城の戦いの、幕が開いた。
城は、あっという間に落ちるかと思いきや、なかなかに、しぶとかった。
元忠は兵を統率し、頑として、頑強に、ガンガン、ガンガン、ガンガンガンガンと、逞しく抵抗。押し寄せる敵兵を、鉄砲にて何度も退け、開戦から10日以上が経過しても、一兵たりとも、城内に侵入させなかった。
困ってしまった敵将たちの、その一人である、長束正家は、策略を用い、伏見城を内部から切り崩す。
これにより、敵は城内に突入。元忠は戦い続けたが、城のほとんどの箇所は、陥落。元忠と、まだ命のあるわずかな城兵たちは、最後に残った本丸に、追い詰められることになる。
ここまで来てもなお、古傷の左足を引きずりつつ、薙刀を振るい、戦うことを捨てない元忠。
しかし、乱戦の中、ついに、マトモに動く右足のほうをも負傷。歩くことすらも、ままならない状態になってしまう。
もはや、抗いようもない。
そんな、残念無念な切ない刹那。彼は、間近に迫る敵の中に、旧知の仲である、雑賀孫一という男の姿を発見。そいつに向かい、語りかける。
「こんな場面で再会したのも、何かの縁。この首、お前にくれてやろう」
孫一は、その思いを受け止め、受け入れる。元忠は、望み通りに、彼の手によって、討ち取られた。享年62。
元忠と、最後まで共にあった守兵たちも、全滅。伏見城は、ここに落城した。
主君のため、力の限り戦い続け、忠臣道を貫いた、鳥居元忠の最期。その生き様と、死に様をもってして、彼の名は、「三河武士の鑑」として、歴史に刻まれることとなった。
上杉討伐に向かう道中にて、石田三成の挙兵と、伏見城襲撃の知らせを受けた家康は、計画通り、軍を、西へと返す。
元忠の奮闘により、伏見城に人と時間を費やしてしまった石田三成陣営は、当初の想定と比べ、あまり、京都周辺で、軍事的に良い展開ができなかった。そして、その流れのまま、関ヶ原の戦いにて、家康率いる東軍と、三成率いる西軍とは、決戦。家康は、見事にこの戦いに勝利し、天下人への当選を、確実なものとした。
戦役終わって、再び伏見城を手にした家康は、城内の、元忠の遺骸があった辺りから、多量の血に染まった、赤黒い畳を回収。彼の最期を称えるため、その畳を、徳川家の本拠地となっていた、武蔵の国・江戸城の、ある櫓の外側の、高い位置に掲げた。江戸城に登城してくる連中に、元忠の生と死の痕跡を、見せつけてやろうとしたのだ。
あまり、人様が見たがるようなものではないような気がするが、それでも家康は、見せつけた。
きっと彼には、我慢がならなかったのだろう。
友が示してくれた忠義が、関ヶ原での決戦の陰に埋没し、大して注目もされないまま、忘れ去られてしまうことが。
家康が、亡き友に与えたのは、なにも、名誉だけではなかった。
関ヶ原の合戦当時、江戸城の守備についていた、元忠の息子・忠政。下総・矢作4万石を、父から受け継いでいた、この鳥居忠政を、1602年、家康は、大幅に加増転封。新たに獲得した、陸奥・磐城平の地を与え、10万石の大名にしてやった。もちろん、伏見城での、元忠の功績に報いての人事である。
鳥居家を豊かにすることにより、家康は、元忠や、元忠の配下の将兵たちが残していった、家族の暮らしを、ガッチリと守ったのだ。
伏見城に、捨て石として捨て置かれ、散っていった、鳥居元忠。だけどやはり、本当のところ、家康にとって彼は、どう考えたって、ただの捨て石なんかじゃなかったのである。
(おしまい)