尾張の戦国大名。岩倉織田家の当主。岩倉城主。
通称は兵衛。官職は伊勢守。
世に知られざる、織田本宗家の惣領。尾張統一を目指す分家の織田信長の前に、一族の総本山として立ちはだかった。
尾張北部の戦国大名・織田信安の子として、1534年に誕生したという。
織田家には分家がいくつかあり、皆さんそれぞれ尾張各地に居住していたのだが、信賢の生まれた岩倉織田家は、それら織田一門の本家にあたる家であり、尾張北部の守護代を務める家であった。
信賢には、信家という弟がいた。この弟と信賢は、不仲であった。
父である信安は、仲の悪い二人の息子のうち、信家のほうに肩入れしていた。風雅を好む信安は、無教養で行儀作法に疎い長男・信賢よりも、次男・信家のほうを可愛いと思い、信賢を廃嫡して信家を跡継ぎにしようと考えていたようなのである。
そのうちに、親父および弟との不和はエスカレート。一部の家臣たちの後押しもあり、信賢は決起。信安と信家を、尾張の北隣の美濃に追放し、尾張北部の守護代・岩倉織田家の当主の座に収まることになった。1556年のことであったという。
こうして尾張北部の新リーダーとなった信賢であったが、お殿様としては、なかなかにダメダメであった。酒やら女遊びやらに現を抜かし、日々を怠惰に過ごすばかりであった。
そもそも彼は、特に志があったわけではなく、我が身を守るために家督を奪取しただけなのだ。こんな風になってしまうのも、ある程度は仕方なかったのかもしれない。
しかしこれ、岩倉織田領を狙う近隣の勢力にとっては、実においしい状況である。内紛からの当主の放蕩による、岩倉織田家の弱体化。野望ある優れた武将なら、見逃すはずがない。
そういうわけで1558年。尾張の統一を狙う、尾張南部・清州城の織田信長が、岩倉織田家が治める尾張北部に侵攻してくる。
信長は、織田家の分家の一つである、勝幡織田家の当主。家の格でいえば、織田宗家である岩倉織田家よりだいぶ下だが、実力はあり、すでに尾張南部を支配下に置いていた。
信賢の母・秋悦院は、この信長の父方の叔母にあたる人物なので、信賢と信長は、従兄弟同士という関係。また彼ら二人は、生まれた年が一緒であったという。
分家を率いてのし上がった同い年の従兄弟が、本家の当主である自分に挑戦してきたのだ。情熱を持って家督を継いだわけではない信賢も、これには強い対抗意識を持ち、負けるものかと奮い立ったことであろう。居城・岩倉城より出陣。自ら兵を率い、迎撃に向かう。浮野の戦いである。
攻め込んできた信長側の兵力は、3000。迎え撃つ信賢の兵力もまた、3000。人数の上では互角だが、残念ながら信賢の岩倉織田勢は、軍の統制が全く上手くできていなかった。
家老の山内盛豊など奮戦した家臣もいたが、信長勢の相手にはならず、信賢たち岩倉勢は打ちのめされ、岩倉城に逃げ込んでいくこととなってしまった。1250名もの将兵が首を取られるという、大敗北であった。
信長による岩倉織田家への攻撃はその後も続き、翌1559年には、とうとう本城である岩倉城が陥落してしまう。
落城の混乱の中、信賢の身代わりになるかのように、家老の山内盛豊らが戦死。信賢は家臣たちに助けられ、辛くも城から脱出。隣国美濃へと落ち延びていったという。
ここに岩倉織田家は、滅亡。織田信長が、尾張国の実質的な支配者となる。織田家という家もまた、信長率いる勝幡織田家により看板を独り占めされ、実質的に、「勝幡織田家こそが織田本家」みたいな感じとなる運びとなった。
美濃へと逃れた信賢は、やがて尾張の東隣の三河国に辿り着き、そこに落ち着いたそうだ。
安住の地を見つけた彼は、乱世の喧騒を離れ、静かに暮らしたらしい。自分を簡単にやっつけた従兄弟の信長が、尾張国という枠を飛び出し、全国に名を轟かせていく様子を眺めながら。
お家再興を目論んだりだとか、そういった野心は、抱かなかったみたい。信長と張り合ってみたが、とてもかなわなかったことで、諦めがついていたのかもしれない。それに、「織田家」という大きな括りで考えたなら、信長が、立派にお家を引っ張っていってくれている。ちょっと悔しいけれど、今さら信賢が表舞台に出ていく必要なんて、無いのだ。
この時期の信賢が、どうやって生計を立てていたのかは、よく分からない。少なくとも裕福ではなかったろうから、かつてのように酒や女を浴びまくるということはできなかったろう。もっとも、織田本宗家の当主という、分不相応な重責から解放された彼には、そのような酒池肉林ワールドなんて、すでに無用の長物だったかもしれないが。
ただただ隠棲生活を続けた様子の、信賢。時は流れに流れて、1590年。岩倉織田家滅亡から、実に31年もの年月が経過しており、織田信長ももう、とっくに死んでいる。
このころの天下人は、豊臣秀吉。その秀吉の差配により、山内一豊という武将が、三河の東隣・遠江国は掛川5万石の領主として、着任する。
この一豊、実は、元岩倉織田家家臣。その父は、岩倉城落城の際に戦死した、あの山内盛豊であった。
そんな山内一豊が掛川の領主となって以降の、ある時より、信賢は、掛川に移住し、一豊に生活費の面倒を見てもらうようになったらしい。一豊のほうから声をかけたのか、信賢のほうから転がり込んだのか、きっかけは分からないが、とにかくそうなったらしい。これで信賢の暮らしは、だいぶ楽になったはずだ。
しかし一豊は、どうして信賢を迎え入れたのか。元家臣とはいっても、岩倉織田家が滅亡した時、一豊は弱冠14歳の少年に過ぎなかったし、信賢は、なかなかしょうもない殿様であったはずだ。
意外と何か、恩義に感じる部分があったのだろうか。憎めないキャラクターだと思っていたりしたのだろうか。あるいは単に、「山内一豊は旧主を大切にする義理堅い男だ」ということを世間にアピールするという、政治的な意図があっただけなのかもしれない。
まあ、そのあたりは、どうだっていいじゃないか。信賢と一豊が相互に納得していて、ニコニコならば、それで。
さらに歳月は流れ、1601年。時の天下人は、徳川家康になっている。
この年、その家康によって、掛川の山内一豊は加増転封。遥か西方、土佐国20万石の領主となる。
山内家中の皆さんの、だいぶ遠くへのお引っ越し。この折に、なんと信賢は、掛川に置いてけぼりにされてしまったらしい。これはいったい、どういったことなのか。一豊から、すっかり存在を忘れ去られてしまっていたのだろうか。
しかし信賢は、ポジティブである。同年のうちに、自分の意思でトコトコと移動し、土佐に登場したのだという。一豊を慕う一心で、追いかけてきたのだそうだ。
明らかに軽んじられているのに、空気を読まずに慕い寄っちゃう、この動き。なんとも憎めない、信賢の人柄が浮かび上がってくる。
そんな旧主に愛されし、旧臣の一豊は、なんだかんだで、再び信賢を受け入れたのだそう。信賢は、またもや山内家の居候となり、不自由なく暮らしていく。
土佐へと転がってきてからちょうど10年が経った、1611年のことという。織田信賢は、この世を去った。78歳であったそうだ。
なんだか大半の期間、隠棲してるだけみたいな人生だったが、そもそもこの人、世に出て自分の名を上げたいなんて気持ちがあったとは思えないし、最終的には旧臣のおかげで食べてくのに困らなかったし、長生きだってできた。結構それなりに、幸せな人生だったのではなかろうか。
(おしまい)