若狭の守護大名。若狭武田家の当主。青井山城主。
通称は彦太郎。官職は伊豆守・安芸守・治部少輔・陸奥守・武蔵守・大膳大夫。
蠣崎信広の父。武田元綱の兄。
文武両道に優れたという、若狭の浜の巨人。応仁の乱においては東軍の副将を務め、因縁ある一色家らと激しく戦った。
安芸武田家の当主・武田信繁の子として、1420年に誕生した。
安芸武田家は、源氏の名門・武田家の分家の一つであり、その名の通り、室町幕府より安芸国に所領を賜っていた。本家である甲斐武田家とは、室町時代初期に枝分かれしている。親戚だけれども、割と遠いんだね。
1431年、信賢は、父親になったのだとされる。この年に、彼の息子として、信広が生まれてきたことになっているのだ。
時に信賢は、わずか12歳。数え年で、12歳。このお話、当時の社会通念を考慮に入れても、事実であるとは考え難いお話である。
それでもまあ、事実であったとしよう。そう、しよう。そうすると信賢君、とてつもなくヤンチャなお子様だったということになる。
信賢の兄である、武田信栄。
1440年、すでに安芸武田家の当主となっていた、その信栄が、手柄を立てる。信賢も、その手助けをする。
信栄たちはこの時、幕府に対する反乱を鎮めるため、丹後や若狭の守護大名である一色義貫らと共に、大和国に出陣していた。
無事に反乱を鎮圧し、大和を去る直前。信栄は、時の将軍・足利義教の密命により、事を起こす。
協力し合って反乱軍と戦った仲である一色義貫を、「一緒に朝ご飯を食べましょう」と、自らの陣中に招待すると、なんとそこで、弟・信賢らと共に襲撃。自身も刀傷を負う激戦の末、殺害してしまったのである。
実は足利義教は、一色義貫のことが気に食わなかったのだ。
そこで武田信栄に命じ、大和の反乱が鎮まり用済みとなった段階で、義貫を始末することにした、というわけなのである。
ところで、信栄が、一色義貫殺しの食卓に、弟・信賢を同席させたのには、きっと、わけがある。彼のガタイが持つ高い戦闘力に、期待してのことだったのではなかろうか。
実は信賢、常識を逸脱した背丈の、とんでもない巨漢だったらしいのである。その巨体ぶりと、官職名の伊豆守から、「伊豆大人」という通り名で呼ばれていたのだという。
「伊豆守を名乗る、体の大きい人」という意味であろうか。すごく安直なネーミングである。
しかし、あれだ。成人した時に規格外の大きな体だったということは、少年期においても、かなり図体が大きかったものと考えられる。
それで子供の時分から、いろいろなところが、いろいろなことになって、そんなわけでいろいろあって、そうして自分も子供を授かった、ということだったのかもしれない。
いや、それはないか。身長は、関係ないか。
一色義貫謀殺の功績により、信賢の兄・信栄は、すぐさま、義貫の領国であった若狭国の守護に任命される。
中国地方・安芸の領地もそのまま維持しているが、彼のメイン領地は、そこから北東にだいぶ離れた国である、北陸地方・若狭へと移行。ここに安芸武田家は、若狭武田家として生まれ変わったのである。
ところが同年。若狭武田家を興したばかりの武田信栄は、この世を去ってしまう。
一色義貫を謀殺した際に、その供の者に刀で突かれた傷。それが回復せず、やがて容体が悪化。ついに力尽きてしまったのだという。義貫殺害から、わずか2ヶ月後の死であった。
信栄には子が無かったため、若狭武田家の家督は、兄と同じく義貫殺しに功績のある、弟の信賢が継承することとなった。
翌1441年、幕府を揺るがす大事件が起こる。
気に食わない者たちを粛清しまくり、みんなから恐れられ嫌われていた、将軍・足利義教が、播磨を本国とする守護大名・赤松満祐によって、殺されてしまったのである。
幕府は、但馬や安芸などの守護を務める大大名・山名持豊を総大将とする、赤松討伐軍を編成。赤松満祐が拠る播磨国に討ち入らせる。
信賢も、この討伐軍の一員として3000の兵を率いて従軍。ゴリゴリと戦い、戦功を挙げる。そんな信賢の働きのおかげもあってか、赤松満祐は滅び去り、この乱は幕府側の勝利に終わった。
が、信賢の戦いはまだ続く。
播磨でドンパチやっている隙を突いたのであろうか。一色家が若狭国を失ったことにより失業した、若狭在住の一色旧臣たちが武装蜂起。若狭国内で暴れ始めたのである。
信賢は、軍勢を引き連れたまま、播磨から東北の方角に離れた、若狭へと急行。これが、彼の初めての若狭入国であったという。
若狭に入った信賢は、暴れ放題の一色残党と交戦。これを制圧した。
連戦し、勝利を重ねる信賢。なかなかに強い武将だ。彼は世の人から、駆け回る虎のような猛将だと評されていたそうなのだが、それも頷ける話である。
とりあえず国内を落ち着かせた信賢は、以降、自家の武力を前面に押し出し、若狭国の安定支配に注力したという。もっとも、当時の多くの守護大名がそうであったように、彼自身が領国に入ることは稀。若狭の南にある京の都で、ほとんどの時間を過ごしていたんだけどね。
安芸のほうの領地はどうしていたかというと、父である信繁に、ほとんど統治をお任せしていたみたい。父・信繁は、隠居の身ではあるが、まだまだ元気で健康で、安芸国内に居住しているのだ。
大男で、勇猛で、剛腕なのは分かった。しかし信賢は、それだけの人物ではなかった。
1447年からのことであろうか。当時の一流の文化人たちを京の自邸に招き、毎月のように歌会を開催していたのだという。
彼は、文芸にも造詣が深かったのだ。かなりの教養人だったのである。
1451年のことだとされる。信賢の息子である信広が、若狭武田家を去ってしまったという。
信広は、武人としての才覚こそあったが、粗暴な性格で素行不良で、信賢の弟・国信とも折り合いが悪かったみたい。
そんな信広に、信賢も手を焼き、やがて厳しい態度で接するようになる。結果、それが嫌になり、信広は、このころ自身が居住していた若狭国を出奔。浜から海へ出て、よその国へと旅立ってしまったらしい。
一人息子に立ち去られてしまうとは、実に残念。しかし、信賢が、不良息子に厳しい態度で臨んだという話には、少し笑ってしまう。自分もかつては、かなりヤンチャをしていたはずなのに、何を棚に上げているんだ、という気がしなくもない。
1455年、信賢は、遠く明国へ交易船を派遣したのだという。
日本海に面した若狭の地理的特性を活かし、海外と貿易。金を稼いで国を豊かにするのだ。信賢は政治家としても、しっかりしている。
1465年、父である信繁が、死去する。
父上が実質的に統治していた、安芸国内にある若狭武田家の領地。これについては、父と一緒に暮らしていた、信賢の末弟・元綱が、実質的に継承。以降、兄である信賢の名代として、統治していくことになる。
1467年、日本を二分する大戦争が勃発する。
時の将軍・足利義政の後継者争いを口実として、全国の多くの大名たちが京都に集結。東西の陣営に別れ、抗争を始めたのだ。世にいう、応仁の乱である。
大大名である細川勝元を総帥とする、東軍。それから、同じく大大名である山名宗全(出家した山名持豊)を総帥とする、西軍。信賢は、東軍に所属。若狭・安芸の兵を率い、細川勝元の元へと参上する。弟である国信・元綱も、これに従う。
信賢が東軍に味方した理由は、主に、西軍の総大将・山名宗全との関係の悪さにあったみたい。
多くの領国を持つ宗全は、安芸国の守護でもある。一方で信賢の若狭武田家も、山名領とは別に、安芸国内に幕府から認められた所領を持っている。
同じ国の中で、お隣同士。お互い、安芸国で幅を利かせたい者同士。対立関係になってしまうのは、必然なのだ。昔、赤松満祐を討伐した時には、共闘した仲なんだけどね。
細川勝元率いる東軍の輪に加わった信賢。彼は、東軍全体の「副将」という立場に納まることになった。
並み居る東軍諸大名たちの中には、家格や所領規模において信賢より上の人間も何人かいたのだが、どうして彼が、副将に選ばれたのか。
やはり、文にも武にも定評があるが故に、信賢が適任だとされたのだろうか。それとも、あれだろうか。西軍の総大将である山名宗全は、大柄な体格の男であったというから、それに迫力で負けないよう、規格外の巨体を持つ信賢が、全軍のナンバー2とされたのだろうか。
いや、それはないか。体格は、関係ないか。
集結した東軍の皆さんは、西軍に先制攻撃を仕掛ける。先陣を切ったのは、副将・武田信賢であった。
上京の戦い。信賢は、丹後の守護大名である、西軍の一色義直の京屋敷を急襲する。この義直、かつて信賢が、兄・信栄と協力して葬った、あの一色義貫の息子である。
激しい攻撃に曝された義直は、たまらず自邸から脱出。敗走していく。信賢は、そんな義直の屋敷に火をかけ、焼き払ってしまった。
1468年、信賢は、本国である若狭に青井山城を築城し、本拠としたという。山城ながら、海に突き出した城。なかなか良い立地の、要害である。
全然終わる気配を見せない、応仁の乱。戦火が拡大していけば、若狭国だって、そのうち軍事的脅威に直面するかもしれない。堅固な本城が必要なのだ。
まあ、本城とはいっても、信賢自身は主に京都周辺で戦っているから、相変わらず、領国に来ること自体が稀なんだけどね。
翌1469年、信賢は、自ら戦火を拡大させる動きを見せてしまう。家臣が率いる軍勢を、若狭の西隣・丹後国に攻め入らせたのだ。
丹後国は、先代以来の因縁の敵、西軍・一色義直の所領。迎撃に出る一色家の家臣たち。武田勢は打ち破られ、撃退されてしまう。今回は力及ばず、敗北だ。
1471年、信賢にとってショッキングな出来事が起こる。
なんと、これまで一緒に戦ってきた仲である、弟・元綱が、西軍へと寝返ってしまったのだ。
このころ、自身が治める土地のある安芸国に在国していた元綱。安芸の西隣・周防国を本国とする、西軍・大内政弘に勧誘され、所属陣営を鞍替えしてしまったのである。
こうして安芸の領地は、信賢の支配を抜け出し、元綱のもと独立。かつて、若狭武田家に生まれ変わったことにより消滅した安芸武田家が、若狭武田家からの分離により、ここに再び誕生したというわけだ。ややこしいな。
同年、信賢は、合戦で手痛い敗北を喫する。京都近郊の如意ヶ嶽という山に陣取っている時に、西軍の襲撃を受け、敗れたのだ。
襲ってきたのは、美濃国の武将・斎藤妙椿。敵勢に押された信賢は、そのまま敗勢を覆すことができず、自陣に火を放って遁走したのだという。
体躯に恵まれ、猛将と謳われ、文芸にも精通している、優れた武将・武田信賢。しかし、近年は敗戦が続き、弟に裏切られ、その昔は一人息子にも縁を切られ……。
優秀なスペック。能力はあるはずなのに、なんでこう、人生は上手くいかないのだろう。なかなかどうして、ちりとてちん。
失意の信賢は腫物を患い、そうして同年のうちに、この世を去ってしまう。出口の見えない応仁の乱の、その真っ最中に。
信賢には、跡を継げるような男子がいなかったため、残ったもう一人の弟である国信が、若狭武田家を継ぐこととなった。
国信は信頼できる弟であったろうが、本を正せば、この国信との折り合いの悪さが、息子・信広の出奔につながる要因の一つだったのである。臨終の際の信賢の胸中には、複雑なものが渦巻いていたのではなかろうか。
もっと息子と仲良くやれば良かった。本当は息子に跡を継いでほしかった。もしかしたら、そんなことを思ったなんてことも、あったかもしれない。
いや、それはないか。いやいや、あったかもしれない。
(おしまい)