その時、上杉方の一人の騎馬武者が、武田本陣に突入、床机に腰かける信玄のもとへ、一直線に駆け寄ってきた。なんと、その騎馬武者こそ、上杉政虎、その人であった。
政虎は、馬上から、信玄目がけて、3度までも刀を振り下ろした。信玄は、その全てを、床机に座ったまま、軍配でもって受け止めたが、さすがに、負傷は避けられなかった。
4度目の太刀が来れば、信玄も危なかったかもしれないが、ここで、ようやく武田家臣が助けに入った。馬を槍で突かれた政虎は、こうなっては仕方がないと、来た時と同じように、素早く、武田本陣から離脱していった。
この、両雄の一騎討ち、実際には、まず間違いなく、なかったと思われる。しかし、信玄が、この戦いで負傷したことは、事実である。この戦いが、両雄が直接顔を合わせてもおかしくないほどの激戦であったことは、確かなのだろう。
ほどなくして、政虎に一杯食わされた別働隊の連中が、上杉軍の後方から姿を現した。形勢は、完全に逆転である。これ以上、上杉軍がここに踏みとどまることは、自殺行為だ。それをよく分かっている政虎は、とっとと、八幡原から引き上げていった。
こうして、第四次川中島の合戦は終わった。最後まで戦場に残ったのは、武田軍の方である。しかし、より大きな損害を被ったのもまた、武田軍の方だ。
今回もやっぱり、勝負はつかなかったのである。
1564年、懲りずに第五次川中島の合戦。だが、前回のような消耗戦を恐れたのか、今回は、両軍共に手を出さず、一度も交戦しないまま、さようならとなった。
こうして、川中島の合戦シリーズは、完結した。シリーズを通して、両者の実力は互角である。戦術的には、越後の龍の方が、やや上回っている感もあるが、勝者・敗者を決めることは難しい。だが、最終的に川中島は、武田家が、その支配を確立している。その意味では、武田側の勝利といえるかもしれない。
これ以上、強敵・上杉輝虎(政虎から、また改名)との戦いを続けても、実利に乏しいと判断した信玄は、その矛先を、駿河の今川家に向けることにした。
今川家は、武田家と同盟関係にあったが、信玄は、この際そんなことは忘れて、攻め滅ぼしてしまいたいなんて考えちゃったのだ。
そう思ってしまうのも無理はない。今川家は、1560年の桶狭間の合戦で、当主・今川義元が尾張の織田信長に討たれてからというもの、バカ息子の氏真が後を継ぎ、完全に斜陽モードに入っていたのである。
しかし、これに大反対したのが、信玄の嫡男・義信であった。
彼は、武田・今川の婚姻同盟締結の際、今川義元の娘を嫁にもらっていた。つまり、今川氏真とは、義兄弟の関係にあったのである。
「義兄弟を裏切って討つような、卑劣なマネは許されない」
義信は、義兄弟・諏訪頼重を平然と殺した信玄とは違い、純真で正義感の強い男だったのだ。
そんなわけで1565年、義信は、クーデターを計画する。ちょうど、父・信玄が、祖父・信虎に反旗を翻した時のように。
しかしこの計画は、信玄さんにバレてしまい、未遂のまま終わる。
で、彼は、実の父によって、幽閉されてしまうのだ。
1566年、信玄は、駿河侵攻の件をとりあえず保留にし、長年狙っていた、上野・箕輪城を攻め、これを陥落させる。城主・長野業盛は自刃。この勝利によって、西上野は、事実上、武田家のものとなる。
1567年には、「甲州金」と呼ばれる金貨を製造し、領内で流通させる。これは、日本で初めて作られた金貨である。信玄は、甲斐の国の豊かな金山を、巧妙に利用したのだ。
同年、幽閉されていた義信が、ついに自殺。これによって信玄は、「親不孝者」に加え、「子殺し」の汚名も背負うことになる。
義信の妻は今川家に送り返され、武田・今川の同盟は、正式に消滅する。
邪魔者だった、息子&同盟を消し去った信玄は、翌1568年、放っておけば今川攻略を妨害してきかねない、三河の徳川家康と、駿遠を分け取りする約束(「今川家の領国のうち、駿河を信玄が、遠江を家康がいただくことにしよう」という契約)を結び、いよいよ駿河に乱入する。
そして、戦闘らしい戦闘もないまま、簡単に、今川家の中枢・駿府を占拠してしまう。
ところが、ここでとんだ邪魔が入った。三国同盟の一角であった、相模の北条氏康である。
信玄の勝手な行動に怒った彼は、1569年、駿河に出兵してきたのだ。こうして、三国同盟は、完全に崩れ去った。
予定が狂った信玄は、仕方なく、甲斐に撤兵。ションボリする。
こうなったら氏康に痛い目を見せてやろうと思い立った彼、2万の軍勢を率い、今度は、相模に出陣、氏康の居城、小田原城を包囲する。
しかしながら、この城は天下の名城。そう簡単に落ちるはずもない。信玄公、やっぱり兵を退くことにした。
その帰り道、三増峠にて武田軍を待ち伏せしていたのが、氏康の息子である、氏照・氏邦率いる、2万の北条軍であった。そして後ろからは、氏康自身も、兵力1万で、追撃してきている。挟撃され、殲滅される危機である。
このヤバい状況に際し信玄は、兵力を前方の敵のみに集中し、後方から氏康がやってくる前に、素早く危険ゾーンを突破するという作戦を選んだ。
信玄は、待ち構える氏照・氏邦勢を正面から攻撃。敵がそれに気を取られている隙に、山県昌景に預けておいた別働隊を、氏照・氏邦勢の脇に回り込ませ、これを側面から襲わせた。こうなってはたまらない。氏照・氏邦勢は、信玄の前に敗れ去るしかなかった。
この、三増峠の合戦に勝利したおかげで、武田軍は、無事、安全圏まで脱出することができた。氏康は、結局、武田軍のお尻を突っつけずに終わった。
その後の、本国・甲斐への帰途、信玄は、諏訪神社にて、野営をした。
ところが、その夜は、野宿なんてやってらんねえほどの、寒い夜であった。あろうことか、一部の兵士たちが、社殿をブッ壊して木材を持ち出し、それを燃やして、暖をとるという事件が発生してしまったのだ。
しかし、通報を受けた信玄は、寛大だった。
「神は、建物がなくても、寒くはないだろう。社殿は、オイラが建て直せばいい」
そう言って、兵士たちの行為を、全く責めなかったという。
北条家に、武田の威勢を見せつけた信玄は、駿河侵攻を再開、1570年までに、ほぼ全土の制圧を完了させる。
1571年には、北条氏康が病没。後を継いだ息子・氏政が、父の遺言に従い、同盟を申し入れてくると、信玄は、二つ返事でOKした。
実をいうと、このころ信玄は、アセッていたのである。自身の余命が、病(結核とも胃ガンともいわれている)のおかげで、あとわずかしかないことを、すでに悟っていたのだ。
ならば、一か八か、最大の夢である、軍勢を率いての上洛に向けて、動き出したくなるというものだ。
ちょうどこのころ、中央では、増長する織田信長と、将軍・足利義昭の対立が激化。義昭が各地の有力大名に呼びかけて作った、「信長包囲網」が、信長と睨み合っているところであった。
無論、この「各地の有力大名」の中には、信玄も入っていた。彼のところにも来ていたのだ。軍勢を率いての上洛を要請する、将軍からの手紙が。
言わずもがな、これは、大チャンスであった。
将軍・義昭にOKの手紙を出し、1572年、ついに信玄は、上洛の兵を起こす(この遠征一発で、一気に京都を押さえるつもりだったかどうかは分からないが、少なくとも、信長と雌雄を決する意図はあっただろう)。
遠征軍の兵力は、2万5000。病という爆弾を抱えながらの、出陣であった。
この出陣に際して信玄は、近江の浅井長政・越前の朝倉義景・畿内の三好三人衆ら信長包囲網メンバーに、自分が動いたら、背後から織田領を襲ってくれるよう要請。奥さん同士が姉妹という縁の、石山本願寺の法主・顕如には、越後で一向一揆を起こし、厄介な上杉謙信(輝虎の法名。ようやくこの名前に落ち着いたのだよ)の動きを封じてくれるようお願いしている。まさに、万全の態勢である。
さて、東海道から上洛するとなれば、まず戦うことになるのは、信長ではなく、その同盟者・徳川家康である。なぜかといえばそれは簡単なことで、家康が、通り道にいるからだ。
駿河から、徳川領・遠江に侵入した信玄は、その地にて、織田からの援軍3000を含む、家康率いる1万1000の軍勢との決戦に及ぶ。浜松城に篭城する家康を、挑発によって野戦に誘い込んだのだ。世にいう、三方ヶ原の合戦である。
結果は、鎧袖一触であった。徳川・織田連合軍は、いともあっさり壊滅し、家康は、あまりの恐怖に馬上でウンコを漏らしながら、浜松城へと敗走していった。対する武田勢は、ほとんどノーダメージ。後の天下人ですら、信玄の前には、子供同然だったのである。
浜松城に立て篭もり、身構える家康。しかし信玄は、これを攻めず、西へ、京へと急いだ。もはや、時間がなかったのだ。もしこの時、信玄が浜松城を攻めていたなら、家康の人生はそこで終わり、江戸幕府などというものが後の世の教科書に出てくることは、なかったであろう。
家康に格の違いを見せつけ、遠江から、徳川領・三河に入った信玄。今や、織田信長の運命は、風前の灯火となっていた。
しかし、このままの勢いで、京にまで攻め上ってくると思われた武田軍の動きが、ここへきて、急に止まってしまう。信玄の病状が、深刻な段階にまで、到達してしまったのである。
信濃まで兵を退き、回復を待つが、容態は好転せず、ついに1573年、甲斐の虎は力尽き、信濃・駒場の地で、息を引き取った。享年53。遺言により、その死は、3年間、伏せられることになった。
彼の死により、武田軍は完全撤退。とうとう、京の都に風林火山の旗を立てるという夢は、叶わなかった。
時代は、彼ではなく、革命児・織田信長を選んだのである。
食事中に、信玄の訃報を聞かされた、ライバル・上杉謙信は、思わず箸を取り落とし、
「惜しい男を亡くした」
と、涙をこぼしたといわれる。
侵略戦争を繰り返した人間であるにもかかわらず、その死によって、正義の戦士・上杉謙信を泣かすとは、さすがは名将・武田信玄である。
その信玄公の、戦の生涯成績は、自分で指揮をとったものだけカウントして、72戦49勝3敗20分という、素晴らしいものである。校長先生から賞状がもらえるのは、確実であろう。
注目すべきは、負けの少なさと、引き分けの多さだ。彼は、「負けない」戦が、大の得意だったのである。
信玄は、家臣たちに、いつも、
「戦の勝利は、50〜60%を上とし、70〜80%を中とし、90〜100%を下とする」
と、語っていたという。あんまり豪快に勝ってしまうと、皆さん調子に乗ってしまうため、長期的に見れば、かえって良くないとの考えからである。どうりで、引き分けが多いはずだ。
なお、この話を聞いた謙信は、
「自分が彼に及ばないのは、まさにこの点だ」
と、正直な感想を述べたという。
また、極めて優れた情報収集能力を持ち、そのことから「足長坊主」の異名をとった信玄は、得た情報を分析し、「確実に勝てる」と確信するまで、決して兵を動かさなかったという。これも、信玄が「負けない」理由の一つであったろう。
武田兵は精強であったし、信玄の采配も卓越していたが、それ以前に、彼が出陣した時点で、勝負が着いていることが多かったのである。
そうやって、慎重に、コツコツと領土を拡大していった結果、信玄の時代、武田家の最大版図は、甲斐・信濃・駿河の他、つまみ食いした、上野・美濃・飛騨・遠江・三河・越中を含めて、約130万石、9ヶ国にまたがる広大なものになった。
信玄が残したとされる著名な言葉に、
「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵」
というものがある。
この言葉の通り、信玄は、領内に城を造らず、居館・躑躅ヶ崎館の防備を堅固にすることもしなかった。代わりに、家臣・領民を、城の如く大切にし、人心掌握に力を尽くしたのである。この効果は絶大で、彼の代には、武田家を裏切る家臣など、ほとんどゼロであった。それほど、主君として慕われていたのだ。
とはいえ、「3000もの生首で城を取り囲み、捕虜を強制労働させ人身売買し、義理の兄弟を騙して殺し、あげくの果てには我が子まで亡き者にし、何が『情けは味方』だ!」という感じはする。
しかし、それらの所業を猛烈に後悔したからこその、「情けは味方」という言葉だったのかもしれないではないか。
少なくとも、私はそう思いたい。
(おしまい)
|