戦国人物伝


宇都宮 広綱
(うつのみや ひろつな)

1545年〜1580年

異名:――――

 下野の戦国大名。宇都宮家の当主。宇都宮城主。
 宇都宮国綱の父。
 幼名は伊勢寿丸。通称は弥三郎。官職は下野守。
 幼いころに父を失い、奸臣に居城を追われた、流転のプリンス。忠臣・芳賀高定の力を得て旧領復帰を果たし、病に悩まされながらも、自家の安定に努めた。

 下野の国の中部を治め、同国で最も大きな勢力を持つ戦国大名、宇都宮尚綱の子として、1545年に誕生したという。幼名を、伊勢寿丸といった。

 1549年、まだ5歳だった伊勢寿丸を、いきなり悲劇が見舞う。
 早乙女坂の戦い。父である尚綱が、下野東部の戦国大名・那須高資と、宇都宮領・那須領の境界線付近にて争い、戦死してしまったのである。37歳の若さであった。
 なんとも、幸薄い展開だ。

 幼い伊勢寿丸を、さらに、悲劇は見舞う。
 宇都宮家臣団中、最大の実力者であった、老臣・壬生綱房。この野心家めが、主君・尚綱の訃報を聞いた途端に本性を現し、宇都宮家の本拠地・宇都宮城を占拠。尚綱の一人息子、城内で父の帰りを待っていた伊勢寿丸を、城の外へと蹴り出してしまったのだ。
 なんとも、幸薄い展開だ。

 だが、地獄にだって、仏はいるものである。ここでは、宇都宮家臣の一人・芳賀高定こそが、その仏であった。
 彼は、居城から追放された伊勢寿丸を、すかさず抱きかかえ、宇都宮城の南東にある、自身の城・真岡城にて、保護してくれたのだ。それも、宇都宮家臣団の多くが、宇都宮家を見捨て、壬生綱房の味方をするという、逆風吹きすさぶ中、である。
 もし、この高定の存在がなかったなら、たぶん、伊勢寿丸の人生は、この5歳の時点で、終わっていたことであろう。
 以降、伊勢寿丸は、真岡城にて、高定に守られ、育っていくことになる。いつか、宇都宮城へ帰還することを、夢見ながら。

 翌1550年、伊勢寿丸は、芳賀高定の後見を受け、6歳にして、宇都宮家の当主となる。
 もちろんまだ、お子ちゃまだから、自力では何もできないけどね。

 1551年、高定は、策略を用い、先代主君を討った憎い奴である、那須高資を暗殺する。
 これにより伊勢寿丸は、見事に、父のカタキ討ちを成し遂げた、ということになった。
 もちろんまだ、お子ちゃまだから、自力では何もしてないけどね。
 でも、お子ちゃまだろうが何だろうが、伊勢寿丸は、宇都宮家の当主であり、高定は、その家来なのだ。それは、間違いないことなのだ。だから、形式的には、伊勢寿丸が、立派に父のカタキを討った、ということになるのである。

 1555年、宇都宮城の乗っ取り犯人である、壬生綱房が急死する。これも、高定による暗殺であったといわれる。すごいぞ、高定。
 だが、綱房には、息子・綱雄がいた。宇都宮城は、引き続き、壬生綱雄によって、占拠されることになる。しぶといぞ、壬生家。

 1557年、渉外能力を炸裂させた高定は、隣国・常陸の佐竹義昭を味方につけ、義昭と共に、宇都宮城奪還の兵を起こす。高定の事前の根回しのおかげで、関東最大の雄である、相模の北条氏康や、古河公方の足利義氏も、この挙兵を支援してくれたという。すごいぞ、高定。
 高定と義昭の軍勢は、壬生綱雄を打ち負かし、宇都宮城を占領。綱雄なんぞは、城の外へと蹴り出してやった。
 こうして、宇都宮城は再び、宇都宮家のものとなる。ついに伊勢寿丸は、念願であった、本拠地への帰還を、成し遂げたのである。
 もちろんまだ、お子ちゃまだから、自力では何もしてないけどね。

 1560年、伊勢寿丸は、元服。名を、宇都宮広綱と改める。
 これで彼も、晴れて大人の仲間入り。もう、お子ちゃまではないのだ。

 1564年、広綱は、自ら兵を率い、常陸の国へと向かう。佐竹義昭が、同じ常陸の小田氏治と戦うに際して、援軍として、佐竹勢に加勢したのである。かつて、宇都宮城奪回戦に協力してくれた、義昭さんへの恩返しだ。
 大人になった広綱は、自力で、戦う。広綱の恩人である芳賀高定は、すごい人はであるが、とにかく私欲のない忠臣であるからして、元服した広綱を押しのけて、自らが宇都宮家を牛耳ろうなんてことは、少しも考えない。だからこそ、まだ若い広綱が、リーダーシップを発揮し、宇都宮家の大将として、存在感を示さなければならないのである。
 佐竹・宇都宮の連合軍は、小田家の本拠である、小田城を攻撃。広綱の加勢のおかげもあってか、城はパキッと落ち、難なく、佐竹家の所有物となった。

 1567年のことであったらしい。広綱は、佐竹義昭の娘である、南呂院を妻に迎えた。
 佐竹家と交渉し、この縁談をまとめてくれたのは、やはり、芳賀高定。広綱は高定に、またもや、渉外能力を炸裂させてもらったのである。
 こうして、宇都宮家と佐竹家は縁戚関係となり、しっかりと、同盟を結ぶこととなった。

 そんな、だいぶ順風満帆な広綱を、1572年、久々に、悲劇が見舞う。
 実は、生来病弱であった彼。病に罹り、身動きが取れなくなってしまう。
 その機に乗じ、宇都宮家の重臣の一人・皆川俊宗が、謀反。宇都宮城を乗っ取り、広綱を、城内の片隅に幽閉してしまったのである。
 なんとも、幸薄い展開だ。
 こんな時、頼りになるのが、いつもの芳賀高定であるが、残念ながら、この時すでに高定は隠居しており、完全に現役を退いていた。広綱は、彼の力を借りずに、この難局を切り抜けなくてはならない。
 ここは一つ、災いを、福に変えてやろう。高定がいなくても、立派に武将としてやっていけることを、高らかに示し、高定を安心させてやるのだ。

 やがて、病から起き上がった広綱。妻・南呂院の実家である佐竹家と、どうにか連絡を取り、上手く、その力を借りたのだろう。
 彼は、監獄と化した宇都宮城より、なんとか脱出。皆川俊宗への反撃に転じる。

 それから、翌1573年にかけて、宇都宮軍は、広綱の妻の兄である、時の佐竹家当主・佐竹義重率いる佐竹家からの援軍と、共同戦線を張り、快進撃。
 両軍は、皆川家の拠点を次々に落とす。もちろん、宇都宮城も、広綱のもとに戻ってくる。だいぶ、懲らしめられてしまった皆川俊宗は、そんな、宇都宮陣営との抗争の日々の果てに、とうとう、戦死を遂げることとなってしまう。
 こうして、危機は去った。事態の収拾に、佐竹家の力こそ借りたものの、宇都宮家中をまとめ上げ、皆川討伐にまで持っていったのは、紛れもなく、広綱である。
 彼はもう、押しも押されもせぬ、一人前の戦国大名だ。家臣団も、この人のことを、認めたに違いない。芳賀高定も、喜んでくれたことだろう。これでもう、宇都宮家は、安泰でございますよ。

 だが、そんな広綱を、宇都宮家を、またもやしつこく、悲劇が見舞う。
 結局のところ、やっぱり広綱は、病弱であった。1576年、再び、病に倒れてしまったのである。
 しかも、今度の病は、だいぶ重篤。花押も書けなくなるほどの衰弱ぶりであったというから、ほとんど寝たきりのような状態になってしまったのかもしれない。きっと、餃子でさえ、喉を通らなかったに違いない。
 なんとも、幸薄い展開だ。
 だけど、まだ広綱は、当主の座から降りるわけにはいかない。
 広綱と、妻・南呂院との間には、嫡男の伊勢寿丸がいる。しかし、この時この子は、わずか9歳。まだ、お子ちゃまなのだ。
 幼くして父を亡くすということが、どういうことなのか、身をもって知っている広綱である。まだ、死ぬわけにはいかないんだ。

 2年後の、1578年。広綱は、伊勢寿丸から宇都宮国綱へと名を改めた我が子に、宇都宮家の家督を譲ったとされる。
 病床に倒れ込んでからこっち、ずっと、闘病生活を続けてきたという広綱。病の、先が見えてきたということなのだろう。残念ながら、良くない意味で。

 それでも彼は、辛抱強く、病魔との戦いを続けたらしい。こういう場合、実際には何の活動もできていなくとも、先代当主・広綱が存命であるという、「形」が重要なのである。その「形」が、内外に対する無言の牽制となり、幼君・国綱を守ってくれるのだ。
 しかしもはや、そんな「形」を維持することにさえも、限界が来てしまった。
 1580年のことであったという。宇都宮広綱は、病の前に力尽き、この世を去った。36歳という、まだまだ人生これからのはずの年齢であったとされる。

 広綱死去の情報が広まったことにより、宇都宮家の内と外にて、やっぱり、良くない風が吹き始める。広綱の踏ん張りも空しく、若干13歳の宇都宮当主・国綱は、かつて父が経験したのと、似たような苦境に、ぶつかることになるのである。
 なんとも、幸薄い展開のようだが、必ずしも、そうとは限らない気がする。
 もしも、もっと早くに広綱が病死し、そのことが公然の事実となっていたなら、国綱は、もっともっと幼い年齢で、もっともっと苦しい状況に追い込まれていたはずなのである。仮にそうなっていたら、宇都宮家は、あっという間に滅びていたかもしれない。
 そう考えると、広綱が、最後の数年間、爪を立て、必死にこの世にしがみついたことは、宇都宮家にとって国綱にとって、決して、無駄なことではなかったのではないか。そう、思えるのだ。


(おしまい)


おまけ写真

宇都宮尚綱の供養塔
(栃木県さくら市)
撮影日:2016年2月21日
周辺地図

早乙女坂古戦場に建つ、宇都宮広綱の父・尚綱の供養塔。
この地での戦いにて父を失い、広綱の、人生の流転が始まった。

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