戦国人物伝


佐竹 義昭
(さたけ よしあき)

1531年〜1565年

異名:――――

 常陸の戦国大名。佐竹家の当主。太田城主。
 佐竹義重の父。
 幼名は徳寿丸。通称は次郎。官職は右京大夫。
 武士の世界の伝説的英雄・八幡太郎義家の、その弟である、新羅三郎義光の末裔。先祖代々守ってきた、佐竹の家名を胸に戦い、常陸国内に勢力を拡大した。

 1531年、源氏の名門・佐竹家の当主であり、常陸北部を治める戦国大名である、佐竹義篤の嫡男として生まれる。

 1545年、父である義篤が39歳で急死したため、若干15歳にして家督を継いだ。
 以降、常陸の統一を目指し、歩んでいくこととなる。

 しかし、道は険しい。若造が急に跡を継いだもんだから、やっぱり、ナメられてしまったのだろう。それまで佐竹家に従属していた、常陸中部の支配者・江戸忠通が、義昭の代になってから、だんだん、言うことを聞かなくなってきてしまう。
 1547年には、忠通め、とうとう公然と兵を挙げ、佐竹家に戦いを挑んできた。
 佐竹家と江戸家は、以降、頻繁に合戦をすることになったが、義昭は巧みに戦ったようで、次第に、佐竹家が優勢となっていった。

 1551年、上野の、山内上杉家当主である、関東管領・上杉憲政が、弱り果てた様子で、義昭に助けを求めてきた。
 このころ山内上杉家は、相模の北条氏康との激しい対立の末に、これに圧倒され、滅亡寸前の寂しい状態となっていた。
 そこで憲政は、最近常陸の国で活躍中の若大将である、義昭を頼ってきたのである。関東管領の座と、上杉の名字を譲るから、自分を保護し、自分の代わりに北条家と戦ってくれと、お願いしに来たのだ。
 これは、大変に名誉なことであった。なにしろ当時、関東管領といえば、関東屈指の、超高級ブランドな役職。そして上杉家もまた、名家中の名家。それらを、くださるというのだから。
 しかし義昭は、このありがたいお話を、蹴ってしまった。まさに、キックの鬼である。
「我が佐竹家は、新羅三郎義光公を遠い御先祖に持つ、源氏の名門。この家名を捨てるわけにはいきません」
 というのが、その理由であった。
 佐竹義昭とは、単なる地方領主と侮れぬ、実に誇り高き男であったのだ。
 それに、おそらく彼には、見えてもいたのだろう。関東管領の名が、すでに形骸化しており、就任にほとんどメリットがないこと。そして、いくら自分が上杉の名跡を継ぎ、山内上杉家と佐竹家の力が合体したとしても、関東最大の勢力である北条家を倒すことは、難しいということが。
 過去から受け継がれてきたものを大切にしながら、しっかりと現実を見据え、上杉憲政公を蹴り飛ばす。まさに、キックの鬼である。

 同年、義昭と戦いを繰り広げていた江戸忠通が、自ら頭を下げ、降伏をしてきた。義昭はこれを許し、再び、江戸家は佐竹家に従属することとなった。
 こうして義昭は、亡き父に追いつき、常陸北部だけでなく、常陸中部をも、その勢力圏としたのである。

 1557年には、隣国である下野の、宇都宮伊勢寿丸を助ける。
 伊勢寿丸は、宇都宮城主・宇都宮尚綱の子であったが、5歳の時に父を亡くし、邪心を抱いた家臣に城を追われ、13歳になるこの年まで、忠臣・芳賀高定の保護を受けながら、下野国内で悔しがる日々を送っていた。
 義昭は、そんな伊勢寿丸を軍事的に援助。芳賀高定と共闘し、宇都宮城を伊勢寿丸の手に取り戻してあげたのだ。
 これには、下野の名門・宇都宮家に恩を売り、友好関係を築こうという思惑があったものと思われるが、早くに父を亡くし、その父に従っていた人間によって苦境に立たされる伊勢寿丸の姿が、かつての自分と重なって見え、放っておけなかったという面も、あったのかもしれない。

 1558年、常陸西部を治める大名である、小田氏治の本拠・小田城に侵攻し、これをサクッと攻略。氏治を、家臣の城である土浦城に逃亡させる。
 しかしこの氏治、ザコのくせになかなかしぶとい奴で、すぐに逆襲に転じ、小田城を奪い返してしまう。負けじと義昭も、もう一度、この城を奪い取る。氏治は、土浦城に逃げ去っていく。
 それでも氏治は諦めない。再び、小田城を奪い返す。というわけで、さらにもう一度、義昭が攻め落とす。やっぱり氏治は、土浦城に逃げ去っていった。

 年が明けて、1559年。小田氏治は、またしても小田城奪回の兵を挙げる。
 だが、今回は、自分ではやらない。家臣である、土浦城主・菅谷政貞を差し向けてきたのだ。
 政貞は、主君よりだいぶ戦上手だったようで、義昭は敗北。小田城を奪い返された上、小田領からの撤退を余儀なくされてしまう。

 1562年、なんと義昭は、まだ32歳だというのに、13歳になる息子・義重に家督を譲り、隠居をしてしまう。
 とはいってもこれは、半ば形だけの家督継承であり、実権は、義昭が握り続けたままである。彼は、もともと体があまり丈夫でない人ではあったようだが、さすがに、まだまだ死ぬつもりなんてない。
 自分の時のように、急に家督を継がされ、周囲にナメられ苦労することがないように、早めに、形だけでも義重を当主とし、政治の表舞台に立たせようとしたのであろう。

 なお、すでに奥さんと死別していた義昭は、この隠居をきっかけに、新しい妻を迎えた。
 お相手は、常陸南部を支配する大名・大掾貞国の、妹さんである。第二の人生、スタートだ。

 1564年、小田氏治が、佐竹家に攻撃をしかけてくる。このころの氏治は、相模の北条氏康・下総の結城晴朝と手を結んでいたのだが、小田勢のみで、攻撃をしかけてくる。いい度胸である。
 義昭は、時の関東管領・上杉輝虎や、下野の宇都宮広綱(大人になった宇都宮伊勢寿丸)と共に、これに応戦。輝虎さん大暴れの山王堂の戦いにて、小田勢は粉微塵に粉砕される。
 その勢いに乗っかった義昭は、そのまま小田城にまで攻め込み、落っことして我が物とする。小田氏治は例のごとく、土浦城へと飛んで逃げていった。
 ちなみに、この時義昭が力を借りた、上杉輝虎こそ、前関東管領・上杉憲政が、義昭の次に頼っていった人物。かつて義昭が蹴り飛ばした関東管領職を引き受け、北条家と戦う道を選んでくれた男である。
 義昭の奴、自分で重荷を背負うようなマネはしないけれども、関東管領上杉家の武力は、ちゃっかり利用するのだ。

 同年、形式上は、御隠居という自由な立場である義昭は、自身の本拠である太田城を、息子の義重に任せ、妻の実家である大掾家の本拠・府中城に押しかける。そして、そのままそこに居住してしまう。
 「妻の実家の補佐をする」という口実で、大掾家の政治に介入し、これを乗っ取ろうというのだ。義昭の隠居や再婚は、こういう狙いもあってのものだったのである。
 佐竹家よりもだいぶ力の劣る大掾家は、この義昭の策に、歯向かうことができない。大掾家が佐竹家に吸収されてしまうのも、もはや、時間の問題である。

 この乗っ取り作戦さえ完了すれば、佐竹家は、常陸北部・中部・西部・南部、常陸の全エリアを、ほぼその支配下に置いたことになる。あとは、残り物である土浦城の小田氏治などを完食すれば、佐竹家の手による常陸の統一が、完成するのだ。

 しかし、そんな状況がひっくり返るのは、あっという間であった。
 翌1565年、佐竹義昭は、大掾家の乗っ取りを終えぬまま、急な病により、府中城にて突如この世を去ってしまったのである。35歳の若さであった。
 早めに家督を譲り、自分が急にいなくなっても、息子・義重が苦労することがないようにしておいた義昭であったが、いくらなんでも、この死は早すぎた。
 彼の死をきっかけに、常陸国内の、佐竹家に組み伏せられていた各勢力が息を吹き返し、次代当主・佐竹義重は、父・義昭が家督を継いだ当初とよく似た状況に、立たされることになってしまうのである。


(おしまい)


おまけ写真

舞鶴城址の碑
(茨城県常陸太田市 太田小学校)
撮影日:2009年8月25日
周辺地図

舞鶴城とは、佐竹義昭の居城・太田城の別名。
常陸の名門・佐竹家の本拠地にして、原点である。

戦国人物伝のメニューに戻る

トップページに戻る