戦国人物伝


甘粕 景持
(あまかす かげもち)

生年不詳〜1604年

異名:――――

 長尾上杉家臣。謙信・景勝の2代に仕える。三条城主。
 初名は長重。通称は数馬。官職は近江守。
 上杉四天王の一人。上杉謙信によって見出された剛将。川中島の戦いでは、謙信の分身といえるほどの働きをした。

 初め彼は、甲斐と信濃の国境周辺の山中に住み、狩猟で生計を立て、暮らしていたのだという。
 ある日、そんな所へ、越後の武将・長尾景虎がやってきて、彼を自分の配下にスカウト。そうして彼は、景虎の家来になったのだとされる。
 だが、なぜ、越後でそれなりの立場にあるはずの景虎が、唐突に、自国からだいぶ離れた、甲信国境の山奥にやってくるのか。この話、相当にウソくさい話である。
 しかしながら、長尾景虎という人は、実際のところ、かなり、そういう人なのだ。自重しなければならない立場に身を置きながら、いきなり一人で旅に出てしまったり、いきなり一人で敵陣に突っ込んで行ってしまったり、そういう困ったことをする人物なのである。突然フラッと他国の山中に現れるなんてことも、絶対に有り得ないとは、言い切れない気もする。

 ともかく、長尾景虎の元へ出仕した彼は、甘粕長重と名乗り、武勇をもって、主君をよく助けた。
 その実力は、天才的な戦の才能を持つ景虎からも、一線級だと認められるレベルであったらしく、やがて彼は、景虎から一字を授かり、「景持」へと、名を改めることになる。

 1552年、景虎に、恋愛騒動が持ち上がったとされる。人質として越後に滞在していた、敵将の娘・伊勢姫と、恋仲になってしまったというのである。
 二人は、心と心で結びついていただけではあったようだが、それでも、すでに越後国主となっていた景虎の立場を考えれば、これは禁断の恋。長尾家の重臣である柿崎景家は、この恋に猛反発し、他の多くの長尾家臣たちも、それに同調。景家によって、ほとんど無理矢理、二人は仲を引き裂かれ、伊勢姫は、国元にて出家することになってしまったらしい。
 そんな、冷たい風が吹く中、
「互いを想い合う男女の前には、家同士が敵対していることなんて、何も関係ないはずです」
 と、ただ一人、景虎たちの味方をしてくれたのが、景持だったという。
 武家社会の掟から、縁遠い世界で生きてきた、景持らしい言葉である。
 景持には、分かってもいたのだろう。
 長尾景虎という人は、基本的には、とっても秩序を重んじる人間だが、時折、突拍子もないことをする。景虎の、そういう一面のおかげで、景持は拾われることができ、そして今があるのだ。
 景持が、景虎の、掟破りの恋を守りたいと思ったのも、当然といえば、当然のことだろう。
 柿崎景家たち、アンチ伊勢姫家臣団を、なんとか説き伏せると、景持は、姫を迎えに行くため、動き出したという。還俗して、主君・景虎の妻になってもらおうとしたのだ。
 しかし、一歩遅く、間に合わなかった。
 伊勢姫の元へ、この吉報が届く前に、彼女は、失恋の悲しみのあまり、自害して果ててしまっていたというのである。

 1561年、第四次川中島の戦いが勃発する。
 上杉政虎と名を改めた景虎と、その宿命のライバルである、甲斐の武田信玄とが、信濃にて、本気でぶつかりあったのだ。
 信玄は、夜陰に乗じて、2万の軍勢を二手に分割。飯富虎昌・春日虎綱らを将とする1万2000の別働隊に、背後から、政虎の本陣である妻女山を奇襲させ、驚いて下りてくる上杉勢を、待ち構えた8000の本隊と挟み撃ちにし、叩き潰すという作戦に出た。
 しかし、上杉政虎といえば、戦争業界では相当に名の知れた魔人。この策を見抜き、これを逆手にとって、同じ晩に動き出す。1万3000の上杉軍全軍にて、さっさと妻女山を下り、信玄本隊が待つ八幡原の地へと、自ら向かっていったのである。
 政虎は、八幡原へ向かう途中にある千曲川を渡ると、その場所に、景持率いる甘粕隊1000を残し、武田の別働隊に備えさせる。
 たとえ奇襲に失敗しても、遅かれ早かれ、武田の別働隊は、妻女山を下り、上杉勢に迫ってくるのだ。八幡原を急襲し、一気に勝負をつけるつもりの政虎ではあるが、さすがに、自軍の背中をガラ空きにしておくわけには、いかないのである。

 朝霧が晴れると同時に、八幡原にて、上杉勢と信玄本隊が、全面衝突。上杉勢は、不意を突かれた武田勢を、押しまくる。
 だが、武田には、別働隊がいる。妻女山がスッカラカンであることにビックリし、策の裏をかかれたと知った別働隊諸将は、全力で、八幡原へと急行する。
 その道中にて、これを迎撃したのが、景持率いる甘粕隊であったが、いくら彼が戦上手とはいっても、所詮は多勢に無勢。大して時間稼ぎもできないまま、あっさりと撃破されてしまう。

 こうして、八幡原に殺到する武田の別働隊。形勢は逆転。ここで、時間切れ。上杉政虎は、負け戦になる前に、撤退することを決断する。
 その退却戦において、難しい殿軍の役割を任されたのが、自隊の態勢を立て直し、上杉軍本隊に合流した、景持であった。
 景持は、春日虎綱ら武田勢の追撃を、軽やかに退け、戦場を去る味方の軍勢を、大いに助けた。
 その采配の見事さは、敵の総大将である、甲斐の虎・武田信玄をして、
「まさか、政虎自らが殿軍を務めているのか!?」
 と、驚嘆せしめるほどであったという。

 無事に、友軍を、本国に向けて撤収させた景持であったが、自身は、すぐには後を追わず、しばし、戦場の近辺に留まる。
 そうして、逃げ遅れた上杉兵が追いついてくるのを待ち、可能な限り多くの仲間を収容。その上で、越後へと引き揚げたのである。
 甘粕景持という男は、ただ強いだけではなく、情も深い武将だったのだ。

 1578年、景持の主君であり、恩人でもある上杉謙信(政虎の出家後の名前)が、死去。謙信の2人の養子、景勝・景虎の間で、上杉家の跡目争いである御館の乱が起こる。
 この乱に際して、景持は、謙信の薫陶をより色濃く受けた、景勝のほうを支持。抗争は、景勝方の勝利に終わり、上杉景勝が、上杉家の新当主となった。

 その景勝の命により、1582年、景持は、越後の中央部・中越地域にある、三条城の城主となる。
 越後北東部の下越地域にて、前年より発生中の、上杉家臣・新発田重家による反乱。三条城は、その反乱平定のための、重要な中継基地なのだ。だから、戦をよく知り、人格にも忠誠心にも信用の置ける景持が、配されたのであろう。

 1586年には、景勝による新発田重家討伐軍に加わり、前線にて、直接戦う。
 敵の将を討ち取るなどの功を上げ、戦後、景勝から感状を賜った。

 翌1587年、再び出陣した景勝によって、重家は滅ぼされ、新発田重家の乱は終息する。
 これは、拠点である三条城を固めつつ、戦場に出て戦ったりもした、景持のおかげでもある。乱の鎮定戦を通して、景持が果たした役割は、地味なくせに、なかなか大きかったといえるだろう。

 1598年、景持が仕える上杉景勝は、時の天下人・豊臣秀吉によって、国替えを命じられる。
 これまでの、越後を中心とした90万石から、陸奥の国・会津周辺の120万石に、加増転封されることになったのだ。栄転といえば、栄転には違いない。もちろん景持は、主君に従い、会津までついていく。

 1601年、今度は景勝、新しい天下人・徳川家康によって、会津の所領を没収。出羽の国・米沢30万石に減封されてしまう。
 景勝ったら、前年に、家康さんにケンカを吹っかけちゃっていたのだ。で、その罰として、この、極端な領地の削減を喰らってしまったというわけなのである。
 しかし、景持には、加増だろうが減封だろうが関係ない。自分を拾ってくれた上杉家に、どこまでもついていくのみ。今回も、当然のごとく、主家と一緒に、米沢までお引っ越し。
 もはや彼は、城持ちでも何でもない、ただの年老いた侍になってしまったが、それでも、自らの暮らしや待遇に、不満なんてなかったはずだ。かつて、山奥で、鳥や獣を追いかけ回していたころを思えば、十分にお釣りが来るのだ。

 1604年、甘粕景持は、米沢の地にて死去した。75歳前後だったと推定される。
 子孫は、米沢藩士として、その後も上杉家に仕え続け、明治時代に至るまで、その家名を守った。


(おしまい)


おまけ写真

三条島ノ城跡の碑
(新潟県三条市)
撮影日:2013年4月19日
周辺地図

三条城には、三条島ノ城という別名もあったとされる。
景持は、河川に囲まれた要地にあるこの城を、手堅く守り抜いた。

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