戦国人物伝


磯野 員昌
(いその かずまさ)

1523年〜1590年

異名:――――

 浅井家臣。後に織田家臣。佐和山城主。新庄城主。
 官職は丹波守。
 浅井家随一の猛将。姉川の戦いにて、織田家の武将たちを真っ向勝負で次々と蹴散らし、織田信長を窮地に追い込んだ。

 1523年、浅井家臣・磯野員宗の子として誕生する。
 もともと磯野家は、北近江を治める名門・京極家に仕える家柄であった。しかし、員昌が生まれる前の1518年、同じ京極家臣であったはずの浅井亮政によって倒され、これに屈服。以降、浅井家の臣下となっていた。

 成長した員昌は、磯野家の家督を継承。
 すでに、主家である京極家を遥かに凌ぐ力を手に入れ、北近江の支配者にのし上がっていた浅井家が、南近江の大名である六角家と争うたんびに、彼は参戦し、軍功を上げた。そのうちに、浅井家中の軍事部門の重鎮として、多くの合戦において先鋒を務めるようになっていく。

 これもまた、六角戦における実績を買われてのことだろう。1561年、員昌は、主君・浅井長政(亮政の孫)より、佐和山城の城主に任命される。
 佐和山城は、浅井家の本拠地・小谷城より、だいぶ南。浅井領の、南の端。対六角の、最前線に位置する城なのである。

 1570年、姉川の戦いが起こる。
 越前の朝倉家からの援軍を得た浅井長政が、北近江の地にて、織田信長・徳川家康の連合軍を迎え撃ったのだ。
 この時の員昌は、とにかく、ものすごかった。
 徳川勢のことは友軍の朝倉勢に任せ、織田勢と対峙する、浅井勢。員昌は、その8000の軍勢のうち、1500を率い、今回も先鋒を務める。
 姉川の対岸に陣取る織田勢の、主な陣容は、まずは先鋒・坂井政尚隊3000。その後ろに、池田恒興隊・木下藤吉郎隊・柴田勝家隊・森可成隊・佐久間信盛隊、それぞれやはり3000が、縦一列に並ぶ。さらに、これら6部隊は、各隊、前衛と後衛の2段に分かれ、その列の最後尾に、信長の本隊5000が、1段構えで鎮座。合計で、13段。13段構えの、豪華な縦列駐車軍団なのじゃよ。
 その、縦に分厚い織田の大軍に向かって、なんと員昌は、初っ端から、猛烈な正面突撃を敢行したのである。

 この突撃の破壊力は凄まじく、坂井隊・池田隊・木下隊・柴田隊を、ほとんど一瞬のうちにブチ抜き、撃破してしまった。
 続く森隊に攻めかかったところで、若干、突撃の威力が鈍り、磯野隊は時間を取られる。その隙に、とんだ邪魔が入った。
 徳川勢と一緒に朝倉勢と戦っていたはずの、織田勢の稲葉良通隊1000が、攻撃対象を変更。浅井勢の右側面に飛びつき、横槍を入れてきやがったのだ。
 それでも、まだ磯野隊は前進。ついに森隊をも打ち倒し、次に控える佐久間隊にまで突入する。
 しかしここで、さらに邪魔が入った。
 織田勢の後方にある、浅井家の城・横山城。その城に張りつき、信長本隊の背後を守っていた、織田方の複数の部隊。それら各隊のうち、安藤守就隊1000・氏家卜全隊1000が、織田全軍の危機に立ち上がり、持ち場を離れて猛ダッシュ。浅井勢の左側面に、猛然と突っかかってきやがったのである。

 これには、さすがの員昌も、まいったまいった。両側面からの攻撃に、磯野隊の突撃は、ついにストップ。すでに彼の隊は、佐久間隊の前衛を突破。13段の縦列駐車軍団のうち、11段までをも打ち破り、信長本隊の目前にまで迫っていたが、その攻勢も、ここまでだ。
 一旦、攻撃の勢いが止まってしまえば、次に始まるのは、力を盛り返した、数に勝る織田勢の、大反撃である。浅井勢は、あっという間に総崩れ。敗走を始める。
 織田勢の奥深くまで斬り込んでいた員昌は、この攻守交代劇により、当然、最も危険な立ち位置に追い込まれる。
 がしかし、彼は、やれる男なのだ。なんとか配下をまとめ上げると、織田勢の真っただ中から大脱出。兵を300名ほどに減らしながらも追撃を振り切り、居城・佐和山城まで、生きて帰ることに成功した。

 この、姉川の戦いにおける、員昌の奮戦には、目を見張るものがある。敗者側の人間ではあるが、この戦場で、最も優れた働きをしたのは、この人であろう。
 恐るべき、突撃の貫通力で、信長本隊にまで肉薄。もしも、稲葉隊・安藤隊・氏家隊らによる、両側面からの攻撃がなければ、勝敗の行方は、全く違ったものになっていた可能性が高く、信長の命さえも、危うかったかもしれないのだ。
 この日の彼の猛攻ぶりは、「員昌の姉川十一段崩し」として、後世において、伝説的に語られることになる。

 姉川の戦いに敗れたことにより、浅井家は、大きな打撃を受けた。勢いに乗った織田家に、結構な領土を削り取られた。
 員昌の居城・佐和山城と、浅井家の本拠・小谷城とをつなぐ、貴重なパイプであった横山城も、織田の手に落ちてしまい、員昌の佐和山城は、敵中に、孤立無援の寂しい状態で取り残されることになってしまった。
 そんな、厳しい状況の佐和山城に、織田信長は、トドメのひと押しとばかりに、丹羽長秀・水野信元らの軍勢を差し向けてくる。小谷城からの援軍やら補給やらが、どうにかこうにか織田領を突破し、やってきてくれることを信じ、員昌は、籠城し、必死に防戦をする。

 しかし、待てど暮らせど、後詰めの類は、登場してくれない。きっと、小谷城の浅井長政には、孤立状態の員昌に救いの手を差しのべるほどの余裕が、なかったのだろう。
 実際、なかったのだろうが、どうやらそれだけでも、なかったらしい。
 なんと長政さん、員昌が、織田方に寝返るのではないかと、疑いの目を向けていたようなのである。それで、援軍や補給を、出し渋っていたらしいのだ。
 当時、横山城の城主となっていた、織田家の武将・木下藤吉郎。この男が、長政周辺に、「員昌に不穏な動きあり」との、ニセ情報を流していたのだという。
 かつて、浅井家と磯野家とは、同じ京極家臣として、対等な関係にあった。しかし、時は流れ、磯野家は、浅井家に従わざるを得なくなった。そんな、両家の微妙な関係を、藤吉郎は巧妙に突き、長政の、員昌に対する猜疑心を煽ったようなのだ。
 実際の員昌には、浅井家を裏切る気などなかっただろうに。気の毒な話である。

 そして、年は明けて、1571年。織田家の木下藤吉郎の説得に応じ、ついに員昌は、攻城軍の将・丹羽長秀に降伏。城を明け渡す。誰も助けに来てくれないんだから、しょうがないよ。
 降伏に際して、敵さんからは、この機会に織田家臣にならないかとのお誘いがあったが、員昌は拒否したという。が、そんな員昌にも敵さんは寛大で、かなり優しい条件で、彼の降伏を認めてくれたらしい。員昌以下、城兵全員の命を助けてくれ、みんなで小谷城の浅井長政の所に合流することまで、OKしてくれたらしいのである。

 喜び勇んで小谷城に向かう、員昌と、配下の兵たち。しかし、これを笑顔で迎えてくれるはずだった、員昌の主君・浅井長政の態度は、実に酷薄なものだったという。
 あまりにも、ゆるやかな条件でまとまった、佐和山城の降伏交渉。それが、長政の中にあった、員昌への不信感を加速させてしまったみたいなのだ。もう、員昌のことなんて、織田家からの回し者にしか、見えなかったみたい。
 長政は、員昌たち一行が小谷城の城内に入ることを、許さなかったという。それどころか、なんと長政は、人質として小谷城にいた、員昌の年老いた母を、見せしめのため、磔にして殺してしまったというのだ。
 浅井長政という武将は、一本気で、血の熱い一面を持つ男である。この時は、その熱血ぶりが、最悪の方向に火を吹いてしまったということなのだろう。そういうことなのだろうが、それにしたって、これまでずっと浅井家のために戦ってきた人間に対して、こんな仕打ち。あんまりにも、あんまりだ。というか、ふざけんじゃねえぞ、おい。
 こうなっては、もはや仕方がない。こんなとこでは、もう働けない。員昌は、織田信長に頭を下げ、その家臣となる道を、選ぶことにした。

 神妙に降ってきた員昌を、信長は、大変に厚遇してくれた。
 琵琶湖を挟んで、佐和山城の反対側。湖西岸にある、北近江は高島郡の、新庄城。新参者でありながら員昌は、いきなり、その新庄城の城主に抜擢され、高島郡全域の支配を任せられたのである。
 これは、織田家中の先輩武将である、佐久間信盛や柴田勝家や丹羽長秀なんかに匹敵するほどの、かなりの重臣待遇。浅井家にいたころに員昌が見せた武勇を、信長は、それだけ高く買っていたということか。

 同年、員昌は、信長の甥である、津田信澄を養子に迎える。
 なんという好待遇。これにより員昌は、主君・織田信長の、親戚チームの末席に、名を連ねることになったのである。

 1573年、員昌の旧主である浅井家が、信長により小谷城を攻め落とされ、滅亡する。
 これで、どう転んでも、浅井家に帰ることは、できなくなった。そもそも、帰るつもりなど、もはや員昌には、全然なかったかもしれないが。

 同年、員昌は、織田家臣になって以降では、一番の手柄を立てる。
 先年、織田信長暗殺未遂事件を起こし、逃亡生活を送っていた、甲賀忍者の、杉谷善住坊という男。近江・高島郡内に潜伏中の、この善住坊を、見つけ出し、とっ捕まえたのである。
 織田家中でも存在感を示すことができて、員昌も、鼻が高かったろう。戦場での功績でないのが、ちょっと残念ではあるが、先陣を突っ切って戦うような機会がもらえないのだから、それは仕方がないか。

 それから5年後の、1578年。員昌は、突如、逃げるようにして、織田家から消え去ってしまう。
 おお。なんてこったい。
 彼が織田家を飛び出してしまった、その正確な理由は、分からない。しかし、ぼんやりとした理由なら、分かる。
 どうも、磯野家の家督相続のことで、信長と揉めたようなのである。
 信長は、員昌に対し、磯野家の家督と高島郡の支配権を、自身の甥である信澄に譲り渡し、隠居することを要求。だが、まだまだ現役バリバリで働きたい員昌は、それを拒否。結果、信長は大激怒し、員昌を激しく叱責。面食らった員昌は、何もかもを放り捨てて、出奔してしまった……。
 と、だいたい、こういうような顛末であった、様子なのだ。
 実績も実力もあるのに、どうして自分は、主君に恵まれないのか。もしや、重臣としての地位は、甥っ子の宿主とするためだけに、用意されたものだったのか。そもそも、ハナっから飼い殺しにするつもりで、浅井家の戦力を低下させるためだけに、自分に声をかけてきたのか。
 もういいや、俺。もう、いいや。
 織田家から逐電した員昌は、俗世を離れ、高野山に上ったという。

 1582年、本能寺の変が起こり、織田信長が死んだ。
 員昌の所領を受け継ぎつつ、磯野の家名は受け継がなかった、津田信澄もまた、ドサクサの渦に巻き込まれ、死んだ。

 巨星・信長を失い、著しく勢力を減退させていく、織田家。これを契機に員昌は、高野山を下り、織田の影響力が及ばなくなった、旧領、近江・高島郡に帰ったらしい。
 しかし決して、武将として、再起を図ったわけではないのだ。
 慣れ親しんだ土地に赴き、そこで、帰農したらしいのである。

 そして、そのまま時は流れ、1590年。
 姉川にて織田軍団を粉砕し、その勇名を轟かせた、かつての猛将・磯野員昌は、近江・高島郡にて、ほとんど誰にも知られることなく、ひっそりとこの世を去ったという。


(おしまい)


おまけ写真

佐和山城
(滋賀県彦根市)
撮影日:2007年6月4日
周辺地図

浅井家臣時代の、員昌の居城。彼はこの城で、織田勢の攻撃を8ヶ月間にわたり防いだ。
しかし、主君・浅井長政からの後詰めも信用もなく、最後は開城することとなった。

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