戦国人物伝


森 可成
(もり よしなり)

1523年〜1570年

異名:攻めの三左

 織田家臣。初め土岐家臣。兼山城主。宇佐山城主。
 森長可・森蘭丸らの父。
 幼名は満。通称は三左衛門。
 織田信長に愛された、歴戦の武将。数多くの合戦に参陣し、槍を振るって武功を立てた。

 1523年、美濃守護・土岐家の家臣である森可行の子として、尾張の国に生まれる。
 森家の人たちは、尾張の住人ではあったが、隣国美濃との境目に住んでおり、ほとんど、美濃の住人みたいなもんであった。そんなわけで森家の人たちは、代々、美濃守護の土岐家に仕えていたのである。

 可成も、当初は土岐家に就職することになるが、彼が仕え始めたころのこの家は、戦国の荒波に揉まれ、だいぶ力を弱めていた。可成が武名を上げるような機会も、巡っては来なかった。

 1550年、可成は、結婚をする。
 彼は、最終的に6男4女の父親となるのだが、その子らは全員、この時結婚した、正妻・えいとの間に授かった子供である。可成は、奥さん大好きな愛妻家であり、夫婦仲も睦まじかったようだ。

 1552年、可成が仕える土岐家は、弱体化の果てに、ついに滅亡してしまう。
 当主であった土岐頼芸が、家臣であったはずの斎藤利政によって、追放されてしまったのである。おかげさまで、可成も失業し、浪人マンとなる羽目になってしまうが、しばらくの後、尾張の若き戦国大名である、織田信長に仕官することに成功する。
 美濃との境目であるとはいえ、やっぱり、出身地は尾張に違いないわけですから。尾張で再就職したって、いいじゃない。現在の美濃国主である斎藤利政は、旧主のカタキだしね。

 こうして、前途ある信長の家臣となったことで、ようやく可成は、日の光を浴びることができるようになった。
 槍の達人であった彼は、勢力を拡大する主君に従い、各地の戦場を駆け、十文字槍を武器に大活躍したのである。

 信長が、自身の弟である信行を支持する一派と衝突した、1556年の稲生の戦いでは、信行に味方する織田家臣が多い中、信長に付き、敵陣に突っ込み奮戦。信長にしてみれば、とても嬉しく、また心強かったことだろう。

 尾張統一戦。1558年に起きた、尾張上4郡守護代・織田信賢との合戦である、浮野の戦いにおいては、先鋒大将を務め、勝利に貢献する。

 尾張に侵攻してきた、大大名・今川義元の大軍を打ち破った、1560年の桶狭間の戦いでも、信長本隊に所属し、活躍する。

 美濃攻め。斎藤家当主となった斎藤龍興(利政の孫)と争った、1561年の森部の戦いでも、同僚である、猛将・柴田勝家と共に最前線にて戦い、かなりの活躍をする。
 この人ってば、活躍しすぎである。

 さまざまな戦で陣頭に立ち、大活躍。敵を攻めて攻めて攻めまくる、その戦いっぷりから、いつしか、森三左衛門可成は、「攻めの三左」という、カッコいい通り名で知られるようにまでなった。

 1564年、本格化する美濃攻略戦の過程で、信長の命を受け、斎藤家の城の一つである烏峰城を攻撃。これを攻略する。

 翌1565年、信長から今までの働きを賞され、城を与えられる。
 前年に、可成自身が攻め落とした、美濃・烏峰城の城主に任命されたのである。
 これでついに、彼も城持ち。烏峰城に入った可成は、近隣の村の名前を取って、この城の名を、「兼山城」と改めた。

 美濃平定後。1568年の上洛作戦にも参加。道中で、近江南部の六角義賢との間に発生した観音寺城の戦いでは、柴田勝家と共に、敵の本拠である観音寺城の近くに陣取り、これを牽制。
 その間に、信長本隊らが、観音寺城の支城である箕作城を攻略。負けを悟った義賢は、本拠を捨て、近江甲賀の山中へと逃亡していった。

 その後可成は、柴田勝家・坂井政尚・蜂屋頼隆らと共に、織田軍の先鋒として京都に入る。その足で、4将揃って、三好三人衆の一人である岩成友通が籠もる、山城・勝龍寺城を攻め、これを陥落させる。

 それから翌年にかけて、可成は京都に滞在。一緒に勝龍寺城を攻めた仲である、柴田・坂井・蜂屋ら3将および、佐久間信盛と共に、都の行政に携わった。
 攻めの三左さん、決して、槍を振り回すだけの男ではなかったのである。実は、政務もやれる男だったのだ。さすが、城持ちにまで出世するだけのことはある。

 1570年、可成は、信長の指令を受け、近江の国に城を築く。
 琵琶湖の南西。京都と美濃を結ぶ交通の要衝。北にある、越前の朝倉義景を攻める際には、進撃の拠点となるべき城。宇佐山城である。
 築城後、そのまま可成は、この城の城主となった。本拠地は兼山城に置いたまま、自身は宇佐山城に在城。要地の守備を、任されたというわけだ。

 同年、信長は北へと繰り出し、越前・朝倉領に侵攻する。
 可成も、今回が初陣となる嫡男・可隆を連れ、これに随行。金ヶ崎城の支城である、手筒山城攻めに参加する。

 織田軍による総攻撃が始まる前、可成の家臣の一人である武藤五郎右衛門が、可成に対し、報告をしてきた。
「坂井政尚様のご子息である久蔵様が、前線に物見に出た際に敵と小競り合いになり、見事にこれを蹴散らしたそうです。まだ16歳だというのに、立派なもんですなあ」
 この話を聞いた可成は、急に、機嫌を悪くした。
「16歳にもなった武士が、戦場で手柄を立てたことが、どうしてそんなにすごいんだ!? 大げさに褒めるようなことじゃないだろ!」
 実は可成、同僚である坂井政尚とは、仲が非常に悪かったのだ。だから、自分の家来が政尚の息子を褒めたことが、気に入らなかったのである。大事な戦の直前で、ピリピリしてもいたのだろうが。
 いきなりキレられ、納得いかない五郎右衛門は、可成の前から退出。去りながら、つぶやく。
「坂井の息子に手柄を立てられて、悔しいか。十九の野郎がよお」
 「十九」というのは、森家臣たちが、可成に対し陰口を叩く際に使うアダ名であった。戦傷により、手の指が1本欠けており、指が両手両足合計で19本しかなかったことから、可成には、こんなアダ名が付けられてしまったらしい。
 五郎右衛門は独り言のつもりだったのかもしれないが、この問題発言は、近くにいた、可成の子・可隆には、聞こえていた。
 父と五郎右衛門とのやり取り。それから、その後の五郎右衛門のつぶやき。これらを通しで聞いた可隆は、五郎右衛門が自分のことを侮辱したものと勘違い。これから始まる合戦で、なんとしても大手柄を立て、恥をそそがねばならないと、胸に誓った。
 しかし可隆、なぜ、自分が罵られていると勘違してしまったのか? 実は彼、この時ちょうど、“19”歳だったのである。

 手筒山城への総攻撃が開始されると、可隆は、果敢にも織田軍の先頭を切って突っ込み、見事に、城への一番乗りを果たした。
 初陣にして大手柄を立てたわけだが、戦の経験がない可隆には、退きどころが分からなかった。そもそも、退くつもりなんてなかったのかもしれない。結果、彼は、城内に深入りをしすぎてしまうことになる。
 可隆の勇戦のおかげもあり、手筒山城は、落ちた。しかしそれと引き換えに、彼は、命を落とすことになってしまったのである。
 可成は、長年に渡り、槍働きに命を懸けてきた武人だ。自分自身が戦場の露と消えることには、覚悟もあったろう。しかし、年若い愛息を、先に一人で逝かせてしまうなんて、予想外の想定外。我が身を切るよりも、遥かにツラかったに違いない。自分もすぐに後を追いたいとさえ、思ったかもしれない。

 その後、信長の盟友であった近江北部の浅井長政が、信長に歯向かい、朝倉家と連携。挟み撃ちの危機に、織田軍は、越前から撤収を余儀なくされた。

 年が変わらないうちに、近江にて、織田家及び、そのお友達である徳川家の連合軍と、朝倉家及び、そのお友達である浅井家の連合軍との間で、大規模な合戦が起こる。姉川の戦いだ。
 可成も、この合戦に参陣。織田軍先鋒の坂井政尚の隊から数えて、5部隊目。5番隊の指揮官として、戦場に臨んだ。

 開戦早々、浅井勢の先鋒である磯野員昌隊が、織田勢に猛突進。坂井政尚・池田恒興・木下秀吉・柴田勝家らが率いる、織田の1番隊から4番隊を、次々と難なくブチ破る。
 次の相手は、もちろん、可成が率いる5番隊だ。
 可成は、織田家を代表する諸将を簡単に撃破した磯野隊の突撃を、真っ向から受け止め、長時間に渡り粘り強く防戦する。
 結局最後は、可成の隊も突破されてしまうことにはなったが、森隊がしぶとく戦っている間に、戦況に希望の光が差した。
 朝倉勢と交戦中の、徳川勢。その徳川勢の応援に回っていた、稲葉良通隊が駆けつけてきて、浅井勢を側面から攻撃してくれちゃったのである。
 これにより、磯野隊の攻勢は鈍り、森隊が突破されてから、さほど時間の経たないうちに、浅井勢と織田勢の攻守が交代。織田・徳川連合軍は、勝ちを収めることができた。可成が懸命に時間を稼いだことが、勝利の鍵の一つとなったというわけなのだ。

 戦いに敗れ、大きな打撃を受けた、浅井・朝倉家だったが、頑張って勢力を盛り返し、同年中に再び挙兵。織田家に痛い目を見せてやろうと、浅井長政・朝倉義景の両当主揃い踏みで、近江国内、琵琶湖の西側を南進し始めた。
 この軍勢に、甲賀山中に引きこもっていた六角義賢が合流。さらに、信長と敵対する石山本願寺からの呼びかけに応じた、近江国内の一向一揆も合力。アンチ織田連合軍は、あっという間に、3万近くにまで膨れ上がった。

 南に向かうこの大軍を、最初に邪魔するものこそが、北を睨む、織田家の前線基地。可成を守将とする、宇佐山城であった。
 しかし、この城を守る兵は、せいぜい3000ほど。独力で敵の攻撃を凌ぎ切ることは、実に難しい。
 かといって、味方の援軍にも、期待はできない。いわゆる信長包囲網が形成され始めていたこの時期、敵は一ヶ所にまとまっていてはくれず、信長を初めとする織田家の主力は、摂津の国にて、三好三人衆および石山本願寺の軍勢と対峙中。すぐに近江まで飛んでくるのは、無理。可成たちには、頼れる仲間は誰もいない状態だったのである。
 自分の置かれた状況を認識し、覚悟を決めた可成は、あえて、消極的な戦い方を避け、槍を取り、城から打って出る道を選んだ。攻めの三佐は、攻めて出るからこそ、攻めの三佐なのだ。誰が、城の奥深くに閉じこもってなんぞ死ぬものか。
 彼は、武藤五郎右衛門ら2000を城内に残し、
「たとえ俺が死んだとしても、絶対に城門は開けるなよ」
 と、主君から預かった大切な城を守り抜くことを厳命。自身はわずか1000の兵を率い、敵の大軍を目指し、出撃した。

 この、積極的迎撃策が、敵の意表を突いたのだろうか。可成勢は、かなりの善戦をし、緒戦では敵を押し返すことに成功した。

 だが、大軍を擁する連合軍は、すぐに態勢を立て直す。そんな敵さんのところへ、なんと、宇佐山城のご近所さんである比叡山延暦寺の僧兵たちがやってきて、加勢。前にも増して人数を増やした連合軍は、可成勢に総攻撃をしかけてくる。

 それでも可成は、前を向いて戦う。まずは、連合軍の先鋒であった朝倉景鏡隊と激突。これを撃破した。
 しかし、ここまでが限界だった。なにしろ、圧倒的な兵力差なのだ。軍勢のスタミナが、全然違う。次第に押されまくる、可成勢。やがて、浅井長政の本隊が直接襲いかかってくるに至り、ついに状況は決定的になった。
 激闘の果てに、可成勢は壊滅。多くの敵兵を道連れにしたものの、可成も、討ち死にを遂げることになってしまったのである。享年48であった。

 可成を討ち取った勢いに乗り、連合軍は、宇佐山城に押し寄せてくる。しかし、可成の遺志を継いだ武藤五郎右衛門らが、城門を固く閉ざし、必死に防戦する。
 自らの失言によって、主君の嫡子を死なせてしまったようなものである五郎右衛門にとって、この戦いは、汚名返上のための戦いでもある。負けるわけにはいかない。この城は、容易には落ちない。
 数日間の激しい攻防戦。やがて、宇佐山城の危機を知り、摂津の情勢よりも近江の情勢を優先させた信長が、大軍を率い、救援に到着。計画が狂った連合軍は、スタコラサッサと逃げ去っていった。
 可成が、勇敢に敵と戦ったことは疑いようがないが、結局、籠城戦で宇佐山城は守り切れたわけであるから、迎撃に出たのが判断ミスであったことも、疑いようがない。彼が、自ら望んで、死にに行ったのでなければ。

 信長は、それまで織田家と敵対関係にあったわけでもない比叡山延暦寺が、突如、浅井・朝倉に協力し、あまつさえ森可成の命を奪ったことに、大変激怒した。この怒りが、翌年の、比叡山焼き討ちへとつながっていくことになる。

 この、比叡山の焼き討ちは、残忍な一面を持っていたことで知られる信長の所業の中でも、非常に残虐なものの一つであり、比叡山はおろか、その麓にある数多くの寺院までもが焼き尽くされた。
 しかし、どういうわけか、山麓にある寺のうち、聖衆来迎寺という寺だけは、信長の攻撃目標から外され、焼亡を免れることができた。
 実は、この寺は、戦死した可成の遺体を引き取り、葬ってくれた寺であり、境内には、可成の墓があったのである。
 神も仏も霊魂の不滅も、信じてはいない信長であったが、それでも、終生自分に尽くしてくれた、この勇者の墓だけは、邪険に扱うことができなかったのだ。


(おしまい)


おまけ写真

森可成の墓
(滋賀県大津市 聖衆来迎寺)
撮影日:2007年9月5日
周辺地図

最後の戦場のそばに残る、可成の墓。
焼き討ちの炎を免れ、今も眠っている。

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