毛利元就・その1


 安芸の国に割拠する国人領主連中の一人・毛利弘元の、次男として生まれる。
 幼名は松寿丸。通称は少輔次郎。官位は右馬頭・陸奥守。
 ちっちゃな土地(約3000貫)の領主の次男坊からスタート、鬼謀を駆使して、中国地方の王者にまで上りつめた武将。「三本の矢」の逸話で、広く世間に知られている。

 1500年、父・弘元が、35歳の若さで隠居、嫡男・幸千代丸に、家督と、本城である吉田郡山城を譲り、自身は猿掛城に移った。この時、松寿丸も、父と共に猿掛城に引っ越している。
 この、弘元の早すぎる隠居は、東西の大勢力からの圧力に耐えかねての、やむを得ないものだったといわれる。
 安芸の国の西隣・周防の国を中心に、中国・北九州の数ヶ国を支配する、西日本最大の大名・大内義興。将軍を擁し、畿内を押さえる、細川澄元。このころ、この、対立し合う二大勢力が、互いに、弘元に対し、「俺の仲間になれ。そして、奴と戦え」と要求してきていたのだ。
 毛利家は、強大な力を持つ大内家に、どうしても逆らえなかった(それは、毛利以外の安芸の国人領主たちはおろか、周辺諸国の大名たちも、同じことであったが)。かといって、細川家を敵に回すわけにもいかない。弱小勢力であるからして、どちらと争っても、オシマイなのだ。
 そこで弘元は、わざと、幼い息子に家督を譲り、毛利家の責任者が誰なのかを曖昧にし、話をごまかしたらしいのである。どっち付かずの態度を取って、難を切り抜けたのだ。

 翌1501年、松寿丸は、わずか5歳にして、母親と死別する。
 その後、彼の母親代わりとなり、この大きな穴を埋めてくれるのが、父・弘元の側室とも継室ともいわれる、「杉の大方」である。

 松寿丸が幼少のころの、ある日。彼を抱いて、川を渡っていた守役が、不注意にもつまずき、コケてしまい、松寿丸様は、川にポシャッと落っこち、ビショビショになってしまった。
 守役は、このことを重く受け止め、松寿丸に謝ったが、当の松寿丸氏は、
「歩いてる時につまずくなんて、誰にでもあることなんだから、気にしなくていいよ」
 と、この守役を、全然責めなかったという。
 家臣思いの、優しい子だったんですね。

 松寿丸が7歳のころというから、1503年のことだ。
 ある日、屋敷で飼われていたニワトリが、キツネによって食い殺されるという事件が発生した。これを知り、怒った松寿丸は、家来たちを従え、キツネ討伐作戦を開始した。庭の築山にある巣穴を煙でいぶし、キツネさんを抹殺しようというのだ。
 と、そこへ、杉の大方からの使者が、「無益な殺生はいかんぜよ」という、この件に関する彼女のコメントを携えてやってきた。
 しかし、松寿丸は折れない。
「家臣同士のケンカで、片方の者が一方的に殺された場合、殺した方の者を、そのまま許しておくわけにはいかないでしょう? ニワトリもキツネも、家臣と同じようなものです。ですから、断固キツネを処罰します」
 と告げ、この使者を追い返してしまったらしい。
 相手は動物だというのに、生真面目な人である。

 1506年、母に続いて、今度は、父が死亡する。酒の飲みすぎが、原因であった。
 こうして松寿丸は、幼くして、猿掛城主の立場に身を置くことになったのである。

 翌1507年、毛利家当主である、兄・幸千代丸が元服、興元と名乗った。
 この、興元の「興」という字は、例の、安芸の西隣の大大名・大内義興からの偏諱である。

 興元が元服してから間もなくのこと、大内義興が、京を追われた前将軍・足利義尹(後の義稙)を擁し、上洛の軍を起こした。義興は、中央政権の掌握を狙っていたのだ。
 この大遠征には、中国・九州の、多くの領主が参加させられた。それは、元服したての興元とて例外ではなく、彼は、長期間、毛利領を留守にすることになった(今回は、完全に大内が押せ押せムードだったためか、毛利家は、迷わず、大内に付いたようだ)。

 この、当主不在の隙を突いて、悪事を働いたのが、松寿丸の後見人・井上元盛であった。なんと元盛は、松寿丸が子供ボーイなのをいいことに、彼の領地を、そっくり横領してしまったのだ。
 かわいそうに松寿丸は、猿掛城も追い出され、捨て子同然の、ボンビーボーイになってしまった。

 そんな松寿丸に、救いの手を差しのべてくれたのが、おなじみの、杉の大方であった。このころの松寿丸は、彼女の援助がなければ、本当にどうなっていたか分からない。
 まだ若いというのに、再婚の道も捨て、実の子でもない自分のために尽くしてくれた杉の大方。松寿丸は、ずーっと後々まで、爺さんになるまで、彼女への感謝の気持ちを忘れなかった。

 また、この年松寿丸は、信仰心の厚い杉の大方に誘われ、家臣・井上光兼(元盛じゃないっすよ。彼の兄であります)の屋敷にて開催された念仏講座を受講、念仏を覚えている。
 これ以降、「毎朝、太陽を拝んで念仏を唱える」というのが、彼の、一生涯の日課となった。

 1508年、大内義興は、細川澄元と、将軍・足利義澄を京の都から追っ払い、義尹を、再び将軍職に返り咲かせることに成功した。中央の権力を握った義興は、まだまだ、京に留まる。よって興元も、まだまだ、故郷には帰れない。

 同年松寿丸は、家臣たちと共に、安芸の国・厳島神社に、参拝に出かけたという。
 一行が参拝を終えた後、松寿丸と家臣の間に、このような会話があったとされる。
「そこの家臣さん、何を祈ったの?」
「『松寿丸様が、中国地方の主となりますように』と、祈りました」
「は? なんで、『日本の主になりますように』って祈らなかったのさ!」
「だって、物事には順序ってもんがあるじゃないですか。日本全土の主ではなく、まずは中国地方の主を目指すっつうのが妥当な線っすよ」
「いや、それじゃダメなんだ。世の中はそんなに甘くない。日本全土を望んで、ようやく中国を手に入れられる程度だろう。だというのに、初めっから中国だけを望んでいたんじゃ、話にもならないよ」
 実に大人なことを言う松寿丸だが、この話には、ちょっとおかしな点がある。
 この当時、毛利家の当主は、松寿丸ではなく、興元なのだ。松寿丸が、日本や中国の主を目指すだなんて、あってはならないことなのである。
 ではなぜ、松寿丸主従は、公然とこのような会話を交わしているのだろうか?
 おそらく、松寿丸と家臣が、共にボケをかましたか、この逸話を創作した人が、ボケをかましたのであろう。

 1511年、ラッキーなことに、松寿丸の苦労の元凶であった井上元盛が、急死してくれた。 その後、井上光兼らに助けられ、松寿丸は、めでたく、猿掛城主に復帰することができた。

 またこの年、松寿丸は元服し、元就と名乗っている。

 元就の元服からしばらくして、兄・興元が、ようやっと、毛利領に帰ってきた(ちなみに大内義興は、まだ京都にいるよ)。なんだか最近、いいことずくめの毛利家である。

 ところが、それから5年後の1516年、興元は、突然、この世を去ってしまう。死因は、父と同じく、酒の飲みすぎであるという。まだ、25歳の若さであった。
 この若さで酒で死ぬとは、大したものである。大したものではあるが、これは笑えない。笑えないぞ。
 毛利家は、興元の子である、わずか2歳の幸松丸が継ぐことになり、元就は、その後見人として、彼が元服するまでの間、毛利家を切り盛りしていくことになった。

 この、兄の死をきっかけに、元々下戸であった元就は、禁酒を誓ったという。
 祖父は33歳、父は41歳、兄は25歳で、皆、酒によって命を落としているのだ。彼が飲酒を避けるようになるのは、考えてみれば、当たり前すぎるほど当たり前の話であろう。
 ちなみに、酒を飲まない代わり……かどうかはよく分からないが、元就は、餅が大好きだったらしい。

 この、酒と餅。元就は、家臣と会う際には、必ず、この2つともを、用意していたという。酒好きには酒を、餅好きや下戸には餅を、振る舞ったのだ。
 自分の好みを押しつけるのではなく、相手の好みを尊重する。そうすることによって、家臣の心をゲットしたのである。

 1517年、安芸国内での勢力拡大を狙う、安芸守護・武田元繁が、安芸の国人領主家の一つ・吉川家が領有する、有田城に侵攻、さらに、そこからほど近い、毛利領をも侵し始めた。幼い幸松丸が当主となり、毛利が弱体化した、その隙を突いての行動であった。
 この元繁、大内義興が不在なのをいいことに、以前にも、安芸国内で反大内的軍事行動を起こしていた。そして、そんな彼のバックには、出雲を中心に勢力を伸ばす戦国大名・尼子経久が付いていた。

 元就は、合戦初挑戦のシロウトさんであったが、それを言い訳にして、逃げるわけにはいかない。兄・興元亡き今、毛利家を守るのは、元就しかいないのだ。彼は、毛利領に侵入した武田勢を撃退すると、吉川家からの「助けて」コールに従い、有田城救援に向かった。
 有田に到着した元就勢は、まず、武田方・熊谷元直と交戦。果敢に突っ込んできた元直に矢の雨を浴びせ、ポポンッと討ち取った。
 これが、敵の総大将・武田元繁を、怒らせ、本気にさせてしまった。元繁は、「目にもの見せてくれるわ!」と、武田本隊4800を率い、自ら元就に挑んできたのである。
 毛利勢は、吉川勢と合わせても、せいぜい1500。武田勢に押されまくり、やがて、後ろにある又打川を越えて、敗走を始める。
 すかさず、これを追撃する武田勢。勝利を確信した元繁は、自らも川の中に入り、元就勢を追う。
 だが、これが、命取りになった。
 川の中にいる、無防備な元繁に対し、元就勢は、狙いすましたかのように弓を一斉発射。矢に貫かれた元繁は、そのまま、屍に変身してしまったのだ。
 こうして元就は、危険な初陣を見事勝利で飾り、若き智将として、その名を近隣に轟かせたのである。

 ちなみに、この、元就の初陣・有田の合戦は、後世、「西の桶狭間」とまで呼ばれることになる。桶狭間の合戦と並ぶくらい、グレイトな戦いだったということだろう。
 しかし、一つ引っかかるのは、この戦いが、実は、桶狭間の合戦の40年以上も前の出来事だということである。本来なら、向こうを、「東の有田」と呼ぶべきなのだ。
 だというのに、そうなっていないのは、桶狭間と有田の間に、メジャー度の点で大きな差があるためだと思われる。
 だって、「東の有田」なんて言われたって、きっと一般人には、何を意味しているのか全然分からないであろう。悲しき定めじゃのぅ。

(つづく)



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