毛利元就・その2


 1522年、毛利家は、勢いを増す、大大名・尼子経久の圧力に屈し、大内家から、そのライバルである、尼子家に鞍替えをした。
 戦国の世において、弱小勢力は、常に強い者に従っていかなければ、生き残れない。また、そうやって生き残っていくのが、当時の常識である。これは、仕方がないことなのだ。そうでもしなければ、家族も、家臣も、誰も彼も、守れないのだから。

 翌1523年、尼子経久は、蔵田房信が守る、大内方の安芸の拠点・鏡山城を攻める。
 毛利家も、この戦に駆り出されることになった。しかも、まだ9歳で、その上病弱な幸松丸までもが、強制的に参陣させられたのである(もちろん、実際に指揮をとるのは元就よ)。
 いざ戦闘が始まると、毛利勢は先陣を切り、鏡山城を激しく攻めたが、いつまで経っても、城は落ちる気配を見せない。そこで元就は、一計を案じた。
 鏡山城主・蔵田房信の叔父で、甥と共に城に篭っている、蔵田直信。彼は、自己中心的な人物であった。元就は、そんな直信を甘いエサで釣り、味方に引き入れ、鏡山城を内部から切り崩そうと考えたのである。
 この調略は、大成功を収めた。密使を送り、
「房信を裏切ってくれたら、経久様に頼んで、君の領地をもらってあげるよ」
 と誘ったら、直信は、簡単に食いついてきたのだ。
 そして、約束通り、直信は甥を裏切り、毛利勢を城中に引き入れる。こうなると、もう、鏡山城は落城するしかない。城主・房信は自害し、戦いは、終わった。後は、直信と結んだ約束を、尼子経久が履行してくれれば、それで作戦完了である。
 ところが尼子経久は、元就がいくら頼んでも、首を縦には振ってくれなかった。直信に領地をくれてやらないばかりか、なんと、
「甥を裏切るとは何事か!」
 と、彼を殺害してしまったのだ。こうして、結果的に元就は、直信との約束を破ったことになり、その面目は、丸潰れになってしまった。

 鏡山城陥落後、もう一つ、ろくでもないことが起こった。幸松丸が、経久の命令によって、まだ子供だというのに無理矢理首実検に参加させられ、気味の悪い生首さんを見て精神に大きなダメージを負い、それが元で病に倒れ、わずか9年の生涯を閉じてしまったのである。
 興元の忘れ形見の、あまりにも早すぎる最期。しかし、悲しみに暮れているヒマはない。この、幼君の死は、毛利家中を、大きく揺さぶることになる。

 幸松丸が死んだとなると、毛利家は、新たな当主を立てなくてはならない。故・興元には、幸松丸の他に男子がいないために、家督を継ぐのは、興元の兄弟だ。候補として名前が挙がったのは、興元の同母弟である元就と、興元・元就の異母弟である相合元綱の、2人であった。
 ここで、元就を擁立しようと、率先して動いたのが、毛利家執権・志道広良である。毛利家重臣一族・井上一族もまた、元就の家督継承を支持した。結果、元就は、正式に、毛利宗家の家督を継ぐことになり、毛利家当主として、その居城を吉田郡山城に移した。
 これで、万事うまくいくかと思われたが、世の中は、そんなにイージーではなかった。
 「元就が家督相続できたのは、俺たちが支持したおかげだ」と考えた井上一族が、元就が当主になって以降、みるみる増長し、毛利家をナメ始めたのだ。たびたび仕事をサボるようになり、元就の言うことも、あまり聞いてくれなくなってしまったのである。
 また、毛利家を継ぐチャンスを逃した相合元綱は、元就が家督を継いだこと自体が、おもしろくなかった。彼は、不満タラタラであったろう。

 元就が、相合元綱の謀叛の計画を察知したのは、翌1524年のことであった。
 元綱の後ろには、尼子経久がいた。切れ者である元就のことを邪魔に思っていた経久は、元就を排除し、より操りやすい元綱を、毛利家当主に就けようと企んでいたのだ。
 これは、このまま放置しておくわけにはいかない。元就は、「やられる前にやらねば」と、弟である元綱を討つことにした。
 元綱の居城・船山城を、元就の命を受けた兵たちが急襲する。元綱も頑張って応戦したが、謀叛計画が露見しているとは思ってもいなかったので、なにしろ戦う準備ができていない。結局彼は、討ち取られてしまった。
 謀叛計画に加担していた毛利家重臣、坂広秀・渡辺勝らも、それぞれ、元就によって誅殺された。

 この粛清劇により、家中の元綱支持派は一掃され、元就は、替えのいない、無二の毛利家当主として、その権力を、より確固たるものにした。兄弟を殺して力が高まるとは、皮肉な話である。
 元就は、当時の殿様にしては珍しく、正妻・妙玖の存命中は、ただの一人も側室を置かなかった。それには、「妙玖だけを愛していたから」という理由もあっただろう。しかし、「異母弟と殺し合いをすることになった、自身の忌まわしい体験を、子の代において繰り返させないため」という理由もあったのではないだろうか。弟を殺してしまったことは、元就の心に、大きな傷と、教訓を与えたに違いない。

 翌1525年、元就は、尼子家と手を切り、再び、大内家に従属した。
 こんなことをすれば、尼子側も黙ってはいないだろう。しかし、尼子経久は、弟を陰で操り、自分の排除を狙ったのである。さすがに、これ以上は付き合いきれないであろう。

 1534年、元就は、安芸の国人領主家の一つであり、昔から毛利とは仲の悪かった、五龍城の宍戸家に、娘を嫁がせた。尼子が攻めてくる時のことを考えれば、宍戸は味方にしておいた方が、断然良かったのだ。
 なお、後にこの宍戸家は、毛利家の傘下に収まる。まさに元就は、戦わずして、勢力を拡大したのである。

 1537年、今度は、嫡男・隆元を、人質として、大内家に送る。こうやって大内に対する忠誠を示すことで、いざ尼子が攻めてきた時に、大内に援軍を送ってもらいやすくしたのだ。

 そして1540年、いよいよ尼子が、毛利討伐の兵を挙げた。差し向けられたのは、経久の次男・尼子国久率いる、尼子家最強の軍団・新宮党。3000の兵力で、安芸に侵入する。
 これを迎え撃ったのが、宍戸家の連中であった。彼らは、期待以上によく戦ってくれた。力戦の末、この難敵を撃退することに成功してくれちゃったのである。

 新宮党の敗戦に業を煮やした、尼子家当主・尼子詮久(経久の孫。爺さんは、1537年に隠居しちまったよ)は、自ら軍勢を率いて、毛利の吉田郡山城に総攻撃をかけることを決意した。
 動員された兵は、尼子が影響力を持つ、出雲・伯耆・備前・備中・備後・因幡・石見・美作・安芸からの、総計3万。これだけの大軍が、郡山城を目がけ、押し寄せてきたのだ。
 これを退けるべき、毛利方の兵力は、たったの2400。これはもう、ケンカにならない。とりあえず郡山城に立て篭もり、大内家からの援軍を待つしかない。もし、援軍が来なければ、その時は、これで毛利家は滅亡である。

 今回の篭城において、元就は、ちょっと変わったことをした。兵士たちだけではなく、城下の領民たちをも城内に避難させ、みんなで一緒に篭城したのだ。尼子軍による略奪から、領民を守るためにやったことだと思われる。
 尼子軍の攻撃が始まると、吉田郡山城に立て篭もる、兵士・領民合わせて8000名の毛利勢は、辛抱強く戦った。大内家からの援軍が来ることを信じて、とにかく粘った。元就の指揮のもと、ゲリラ戦術などを用いて、納豆のようにネバネバと粘り続けた。
 そのうちに、待ちわびていた、大内家からの援軍が到着した。大内家重臣・陶隆房率いる、1万の軍勢である。どうやら、毛利方にも、勝ち目が見えてきたようだ。

 翌年、毛利・大内連合軍のたび重なる反撃の前に、尼子軍は、敗走を余儀なくされた。
 この敗退のせいで、尼子家の株価は大きくダウン、今まで尼子に従っていた各地の小領主たちが、次々に、大内に鞍替えするという事態にまでなってしまった。

 尼子の大軍を追い払った元就は、その勢いで、尼子方である、安芸守護・武田家の城、銀山城を攻略した。名門・安芸武田家の、滅亡の瞬間であった。

 また、この年には、大内家に人質として赴いていた、元就の嫡男・隆元が、役目を終え、吉田郡山城に帰還している。

 巨星・尼子経久が墜ちたのも、この年のことであった。彼はもうご老人だったので、他界するのも無理はなかったのだが、それでも、この死は大きかった。尼子から離れていく者たちが、ますます続出した。

 翌1542年、大内家当主・大内義隆(義興の子。親父はすでに故人)は、この機に尼子を一気にブッ潰そうと、1万5000の兵を率い、出雲への遠征の途についた。元就を初めとする、大内家傘下の小領主たちも、これに従う。
 ところが、義隆の行軍がノロノロだったり、道中の尼子方の城が意外と頑強だったりで、なかなか、前に進めない。

 ようやく、出雲に入り、尼子家の本拠地・月山富田城にまで辿り着いた時には、もう、次の年になっていた。
 富田城を攻めるにあたって、元就は、
「まずは調略を用いて敵の力を弱めましょう」
 と進言したが、却下されてしまい、大内軍は、力攻めで、富田城攻略に挑むことになった。
 が、この攻城戦は、失敗に終わってしまう。ちっとも結果が出ず、しまいには、大内軍に所属していた者たちのうち、時の吉川家当主・吉川興経ら13人が、尼子方に寝返ってしまったのだ。
 これじゃあ、もうダメである。大内軍は、完全撤退するより他ない。事実上の、敗走であった。

 逃げ散る大内方を、激しく追撃する尼子勢。元就も、もう少しで命を落とすというところまでいったが、渡辺通(勝の子)が身代わりとなってくれ、どうにか、生きて、吉田郡山城に帰還することができた。
 今回の大内の大敗により、尼子の力は、再び盛り返すことになった。まだまだ、両陣営の争いは続くのである。

 1544年、元就は、三男・徳寿丸(後の隆景)を、安芸の国人領主家の一つである、竹原小早川家(小早川家の分家)に養子に出し、その家を継がせた。当主不在となっていたこの家に、息子を送り込み、乗っ取ってしまったのである。

 翌1546年、元就は、嫡男・隆元に家督を譲った。といっても、実権を手放したわけではない。要するに、毛利家の後継者が誰であるのかを、鮮明にしたのだ。

 1547年、今度は、次男・元春を、吉川家に養子に出し、そこの家督を継がせることにした。そういう約束を、吉川家と結んだ(まだ約束しただけね)。
 吉川家当主・興経は、やたらに、尼子派になったり大内派になったりするので、家臣たちの信用を失ってしまっていた。元就はそこに付け込み、反興経派の家臣たちと結託し、興経を無理矢理隠居させ、その息子・千法師ともども幽閉し、空いた隙間に、自分の息子を入れたのである。またもや、無傷で、他家を我が物にしたわけだ。

 1550年、元春は、やっとこさ吉川領に落ち着き、名実共に、吉川家当主になっている。

 この年には、元就の命による、井上一族の大粛清も行われた。彼らは、毛利家重臣一族でありながら、長年、身勝手に振る舞いすぎた。もはや、元就にも、我慢の限界が訪れていたのだ。惣領・井上元兼(光兼の子)を初め、30名以上の「悪い井上」が、突然襲われ、ブチ殺される羽目になってしまった(毛利家に対して忠実だった、井上光兼ら、一部の「良い井上」は、殺害を免れている)。
 この殺戮の直後、毛利家家臣団は、「今後とも、毛利家の命令に服従します」と、元就に対し誓いを立てた。家中の病巣を除去したことにより、毛利家は、また一段と、結束したのである。

 さらに元就は、三男・隆景に、安芸の国人領主家の一つ・沼田小早川家(小早川家の本家)の家督を継がせた。
 沼田小早川家の当主・小早川繁平は、盲目であった。戦国武将として生き残っていくには、ちょっと、厳しいかなーという感じである。
 そこで元就は、繁平の妹と隆景を結婚させ、隆景に、沼田小早川家をも継がせたのだ。ここに、2つの小早川家は、隆景のもと、一枚岩になったのである。
 なお、沼田小早川家の家臣たちのうち、隆景の家督継承に反対していた連中は、みんな、元就によってこの世から消されている。
 おっかないやり方だ。

 幽閉されていた、目障りな吉川興経父子もまた、この年のうちに、元就によって謀殺されている。
 本当に、恐ろしい人だ。

(つづく)



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