毛利元就・その3


 1551年、大内家中にて、大事件が起こる。
 先年の、出雲遠征の失敗以降、文弱一本道を突っ走っていた大内義隆。そんな彼に愛想を尽かした、大内家重臣・陶隆房が、謀叛を起こし、義隆を亡き者にしてしまったのだ。世にいう、「大寧寺の変」である。

 翌年、隆房は、豊後の大名・大友義鎮の弟である、晴英(翌年、義長と改名)を、大内家の新たな当主に迎えた。そして、その偏諱を受け、自身の名を、陶晴賢と改めた。
 こうして、新たな大内家が誕生したわけだが、実際のところは、新当主・晴英は、傀儡にすぎなかった。実権は、陶晴賢が掌握していたのである。
 元就は、この、新生大内家(実質陶家)と、手を結んだ。以前のように、大内家の傘下に収まったのだ。

 しかし、1554年になると、早くも元就は、ニュー大内とバイバイ、陶晴賢に対し反旗を翻した。晴賢の、毛利家に対する高圧的な態度に不安を覚え、「いずれ奴は、毛利を滅ぼそうとするに違いない」と読み、家を守るため、早めに対決姿勢を取ったのだろう(打倒陶路線を主導したのは、元就ではなく、嫡男・隆元だったようだが)。
 だが、反抗の理由は、それだけではない。ここで陶を倒すことができれば、毛利家は、一気に大大名へと生まれ変わることができるのだ。これは、58歳になるこの年まで、大勢力の間で踊らされ続けてきた元就の、飛躍への大きな賭けもであったのである。
 一旦、勝負に出ることを決めたら、動きは速い。元就は、瞬く間に、厳島など数ヶ所の拠点を奪い取った。
 しかし、問題はこの後、どう戦うかである。
 毛利家と、大内家の力をそのまま引き継いだ陶とでは、戦力差が著しいのだ。その上晴賢は、かなりの戦上手ときている。正面からケンカしても、勝ち目はまるでないのである。この絶対的な力の差は、元就の、常識を超えた頭の切れ味で、埋めるしかない。

 主力が陶との戦いに集中するとなると、毛利家にとって最も恐ろしいのは、尼子家に背後を突かれることである。そこで元就は、まず、尼子を弱体化させることにした。
 尼子家最強の軍団・新宮党。その党首である尼子国久は、尼子家当主である晴久(詮久から改名)と、仲が悪かった。国久と、その子・誠久が、武功をひけらかし、家中でやたらに威張りくさっていたこともあり、両者は、味方同士でありながら、激しく憎しみ合うようになっていた。
 こんな露骨なウィークポイントを、元就が見逃すはずはない。彼は、「新宮党が、晴久に対して謀叛を起こそうとしているらしい」という噂を広めてやった。噂は、瞬く間に、晴久のもとまで届いた。
 このニセ情報を、晴久は、信じ込んでしまった。そして、愚かにも、国久・誠久を初めとする新宮党一門を、誅殺してしまったのである(「この新宮党粛清は、あくまでも晴久の意思によるものであり、元就は関与していない」という説もある)。
 新宮党を失った尼子家の軍事力は、大きく低下した。元就は、無傷で、背後の安全を確保することに成功したのである。

 翌1555年、今度は、陶方の弱体化を狙う。
 陶晴賢の家臣に、江良房栄という人物がいた。彼は、なかなか優れた武将であった。しかも、元就と、過去に何度か共闘したことがあり、元就の戦術を知り尽くしていた。
 こんな奴が敵側にいては、厄介なことこの上ない。ここでも元就は、ニセの情報を流すことにした。「江良房栄が、毛利と内通している」という情報である。
 これを耳にした陶晴賢は、房栄を殺害してしまった。自らの手で、貴重な戦力を削ぎ落としてしまったのである。

 次に元就は、厳島に、宮尾城を築いた。
 当初元就は、口を開ければ、
「この城はとても重要な拠点だ」
 と言っていたのだが、すぐに、
「あんな所に城を築くべきではなかった」
 と、後悔に満ちたボヤきを連発するようになった。この嘆きは、当然のごとく、陶の間者の耳に入ることになる。
 実は、これこそが、元就の狙いだったのだ。宮尾城は、オトリだったのである。元就は、狭い厳島に陶の大軍をおびき寄せ、身動きを取れなくさせ、一気に殲滅するつもりなのだ。

 まだまだ、元就の謀略は続く。
 今度は、重臣・桂元澄に、陶晴賢宛てのお手紙を書かせた。
「僕は、元就に、父の代から恨みがあります。晴賢さんは、厳島を攻めてください。そしたら僕は、元就を裏切って、毛利軍の背後を脅かします」
 という内容の手紙であった(元澄の父・広澄は、相合元綱の謀叛に加担した坂広秀の一族だったために、元綱一派の粛清後、一族から謀叛人を出した責任を取り、自害していた)。
 このレターを読んだ晴賢は、まんまと罠にハマッた。「これはもう、厳島を攻めるしかない!」と、決意を固めた。

 さらに元就は、村上水軍(能島・来島・因島の、三家に分かれていた)の協力を取り付けることも忘れなかった。海軍力においても陶に大きく劣る毛利が、海に浮かぶ厳島を戦場とするからには、瀬戸内海を実質的に支配している彼らの協力が、どうしても必要だったのだ。

 いよいよ晴賢が、2万の兵を率い、厳島に上陸した。そして、すぐに、オトリである宮尾城に攻めかかる。
 宮尾城が落城寸前となった、嵐の夜、元就は、ついに動いた。風雨に紛れ、密かに、厳島上陸作戦を開始したのだ。元就自身が率いる本隊と、三男・隆景が率いる別働隊は、それぞれ、厳島に上陸を果たす。
 夜明けと共に、わずか4000の毛利軍は、陶軍に奇襲をかけた。本隊と別働隊の、挟み撃ちであった。
 陶軍の方は、まさかこんな所に毛利軍がいて、しかも自分たちに襲いかかってくるだなんてことは、夢にも思っていなかったから、どうすることもできない。せっかくの大軍も、狭い場所に閉じ込められては、何の役にも立たなかった。陶軍は、あっけなく、総崩れに陥ってしまったのである。
 逃げる晴賢は、船で、厳島から脱出しようと考える。しかし、すでに海は、村上水軍によって封鎖されていた。もはや、逃げ道は、どこにもないのだ。覚悟を決めた晴賢は、自刃して果てた。
 中国の情勢を一気に変えた、この、厳島の合戦。まさに、元就の超絶的な智謀が、毛利を勝利へと導いた一戦であった。

 戦いの後、元就は、陶晴賢を初めとする大内方の犠牲者(その数、なんと8000にも及んだという)を、手厚く葬った。そして、聖なる島を、血で汚してしまったことを面目なく思い、以降、厳島神社の、熱心な保護者となった。

 厳島で、大内方の主力を壊滅させてからというもの、毛利家の威勢は大内家を圧倒、すぐに、周防・長門に侵入し、破竹の勢いで進撃した。大内義長も、頑張って防戦に努めようとしたのだが、陶晴賢の傀儡にすぎなかった彼に、ついてきてくれる者は少なかった。
 1557年、最後の居城である、長門・且山城を落とされ、毛利軍に追い詰められた義長は、ついに、長門・長福寺にて自害した。西日本最大の大名家であり、名門中の名門であった大内家は、ここに滅亡したのである。
 一方、今までずっと頭の上がらなかった大内家を、ガツンと張り倒し、その領土を切り取った毛利家は、いきなり、安芸・備後・周防・長門を治める、大大名へと出世を遂げた。

 領土の急激な膨張に、慢心してはいられない。毛利家の内部固めを、しっかりやっておかねばならない。大内家をやっつけた後、元就は、3人の息子(隆元・元春・隆景)に宛てて、教訓状をしたためた。いわゆる、「三子教訓状」というやつである。
 「毛利宗家を第一に考え、3兄弟で協力し合いやがれ」というのが、その内容の、メインであった。あるいは、弟の命を自らの手で奪った、忌まわしき過去が、彼に、こんな教訓を残させたのかもしれない。
 3人の息子たちは、父の教えに従い、以降、合体技を使うが如く、協力して毛利家をもり立てていく。こうしてでき上がった、「吉川家・小早川家が、毛利本家を支援し、3家で頑張る構図」を、「毛利両川体制」と呼ぶ。
 なお、この三子教訓状は、元就が死の間際に語ったとされる、
「1本の矢は簡単に折れるが、3本の矢が束になれば、折れない。だから、お前らも3本の矢のように、結束しなさい」
 という、あの有名な「三本の矢」の話の、元ネタでもある(三本の矢のお話自体は、後世の創作です)。

 ところで、この三子教訓状の文面は、やたらに長く、くどい。サッパリとした簡潔な文章とは、到底いいがたい。元就の残したその他の書状も、似たような特徴を持っている。
 どうも彼は、長々とグダグダと、お説教をしたりお節介を焼いたり愚痴をこぼしたりする、そんなような性格の人だったらしいのだ。切れ者謀略家も、身内に見せる顔は、一味違ったようだ。

 大内家を倒した毛利家は、以降、弱体化した尼子家の領地を、除々に侵食していく。もはや、毛利と尼子の力関係は、逆転していたのだ。
 尼子攻めと並行して、毛利家は、九州・豊前にて、大友家とも抗争するようになる。2つの方向に敵を抱えられるほど、毛利家は、強くなったのである。

 そんな、毛利に追い風吹く最中の1563年、元就の嫡男・隆元が、急死した。
 愛する息子であり、毛利家の当主でもあった彼の突然の死に、元就は荒れに荒れた。一時は、人生そのものを捨てたような状態になってしまったほどであった。しかし、どうにか立ち直った。
 毛利家の新たな当主は、隆元の嫡男で、まだ11歳の、幸鶴丸(後の輝元)に決定。元就は、その後見人として、まだまだ実権を握り続ける。

 1565年、出雲の奥深くまで入り込んだ毛利軍は、いよいよ、尼子家当主・尼子義久(晴久の子。父はすでに他界)が拠る、尼子家の本城・月山富田城に総攻撃をかける。だが、堅城で知られる富田城は、容易には落ちない。そこで元就は、富田城を完全包囲し、じっくりと兵糧攻めにすることにした。

 翌1566年、尼子義久は、愚かにも、重臣・宇山久兼を誅殺してしまう。「久兼が毛利と内通し、城内の兵糧を横領している」という元就発のニセ情報を、信じ込んだ末のことであったという。
 実際の久兼は、私財を投じて兵糧を買い集め、飢えた城兵に無償で与えるという、大変立派なことをしていた武将であった。そんな人であるから、当然、兵たちからは信頼され、愛されていた。
 それを義久は、殺してしまったのである。兵たちの士気が地の底にまで落っこちたのは、いうまでもない。月山富田城は、ほとんど、戦うことが不可能な状態にまでなってしまったのである。

 尼子義久が毛利家に降伏したのは、その年のうちのことであった。
 元就は、頭を下げてきた義久の一命を助け、安芸に幽閉した。
 元就を長年に渡って苦しめてきた宿敵・尼子家は、事実上、ここに滅び去ったのである。

 1571年、中央にて織田信長が台頭し、戦国乱世のドラマが、空前の盛り上がりを見せていく中、元就は、吉田郡山城にて、静かに息を引き取った。享年75。死因は、食道ガンであったという。

 死の間際、元就は、息子である元春と隆景に、孫の輝元を託し、
「天下など取ろうと思うな。毛利家を守ることだけに専念しろ」
 という遺言を残したといわれる。
 なかなか手堅い人である。
 子供のころ、厳島神社を参拝した時に言ったセリフと、大きく矛盾しているような気もするが、あれは60年以上も前のことなのだ。不問にしといてあげよう。あるいは、この60年の間に様々な経験を積み、渋い男に成長したということなのかもしれないじゃないか。
 しかし、考えてみれば、元就の死後に天下を狙わなかったことが、毛利家を、無難に長々と存続させ、長州藩として、後の討幕運動の中心となることを可能にし、これを最終的な勝者の座に押し上げたとさえいえるのである。「毛利元就、恐るべし」だ。まあ、元就とて、さすがに、そこまで先のことは、予測してはいなかったであろうが。

 元就には、こんな伝説もある。
 彼が毛利家当主となって、まだ日が浅いころのこと。吉田郡山城の拡張工事が行われていたのだが、これがなかなか難航、やがて、「人柱を立てよう!」という声が上がった。こんな時には人柱を立てる、そんな風習があったのである。
 しかし、元就は、その意見を却下した。彼は、人柱を立てることを認めず、代わりに、「百万一心」という言葉を刻んだ石碑を、土の中に埋めさせたのだ。
 「百万一心」というのは、文字通り、「百万の心を一つに」という意味である。
「工事の完成に、イケニエなんぞはいらない。人の命は尊い。大事なのは、みんなで協力し合うことなんだ」
 元就は、そういいたかったのであろう。
 こういったエピソードのおかげもあってか、謀略を用いて散々人を陥れた人間であるにもかかわらず、毛利元就という武将は、現代に生きる我々に、あまり悪い印象を持たれていない。かなり、得をしているのだ。
 もしかすると我々も、元就の謀略に、まんまと、ハマッているのかもしれない。

(おしまい)



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