戦国人物伝


鳥居 元忠
(とりい もとただ)

1539年〜1600年

異名:三河武士の鑑

その1  その2


その1


 徳川家臣。渡城主。谷村城主。矢作城主。
 鳥居忠吉の子。
 幼名は鶴之助。通称は彦右衛門。
 主君・徳川家康と、少年時代より苦難を共にしてきた、忠義の武将。家康に天下を取らせるため、伏見城にて、誰にも代わりのできない役目を果たした。

 1539年、松平家の忠臣・鳥居忠吉の子として、三河の国に生を享ける。

 1551年、13歳となった元忠は、親元を離れ、駿河の国・駿府にて暮らし始める。
 松平家の当主であり、名目上の三河国主である、わずか10歳の少年・松平竹千代。当時竹千代は、駿府を本拠地とする大大名・今川義元の、すぐ足元にて、人質生活を送っていた。三河の国は、事実上、今川家に乗っ取られていたのである。
 元忠は、父・忠吉の命を受け、そんな境遇の竹千代を支えるため、そのそば近くにて仕えることになったというわけなのだ。

 元忠は、だいぶ、愚直で融通の利かない種類の人間であったから、側近となった当初は、竹千代から、怒りの感情をぶつけられるような場面もあったようである。しかし、それでも変わらず、献身的に尽くしてくれる彼を、次第に竹千代も、信頼するようになる。
 気苦労の多い、人質としての日々。しかも、多感な思春期の数年間。そんな時期に、同じ釜の飯を食った、仲間。
 歳の近い二人は、主従関係にありながら、いつの間にやら、親友同士のような、深い絆で結ばれるようになっていく。

 1558年、松平元康(大人になった竹千代)は、今川義元に命じられ、尾張の織田信長に属する、三河・寺部城を攻める。
 この戦いに、元忠も同行。これが、元康と元忠、二人の初陣となった。
 以降、元忠は、元康の旗本の有力武将の一人として、主君のほとんどの戦いに、付き従うことになる。
 その、戦場での戦いっぷりは、毎度毎度、実に、勇猛果敢なものであった。
 頑固で武骨で勇敢で、忠誠心の塊。それが、三河出身の武士の特徴だとされるのだが、まさに元忠は、そんな、「三河武士」という生き方を、体現した男であったといえるであろう。

 1560年、今川義元が横死し、今川家中は大混乱に陥る。
 元康は、この好機を逃さず、今川家に乗っ取られていた松平家の本拠地、三河は岡崎城を奪取。そのままその城に入り、今川家からの、事実上の独立を果たす。
 岡崎城に入る元康に従い、元忠ももちろん、三河に転居。三河に三河に、帰国だ帰国だ。

 1572年、元忠の、忠臣道の大先輩ともいえる、父・忠吉が死去する。
 元忠は家督を継ぎ、鳥居家の当主となり、同時に、父の城であった、三河・渡城の城主の座を受け継ぐ。
 とはいえ、実際には彼は、あまり、渡城に行くことはなかったようである。城は、ほとんど自分の家臣に任せっきりにし、元忠自身は、変わらず、徳川家康(改名した松平元康)のそばにて仕える。それこそが、彼の任務であり喜びであり、忠臣道であったのだ。

 同年、家康は、盟友となっていた織田家からの援軍を得て、甲斐の武田信玄と激突する。
 この、三方ヶ原の戦いに、家康は大敗。ボッコボコにやられ、逃げ惑う。
 やはりこの時も家康の近くにあった元忠は、殿様の命を守るため、奮闘。家康と共に敗走しつつも、途中で、ある程度の兵をまとめて引き返し、追いすがる武田勢と交戦。左足に矢を喰らいながらも、なんとかこれを食い止めた。
 そのおかげもあって、家康は、辛くも生還することができたが、引き換えに元忠が負った代償は、そう軽いものではなかった。
 主君に続いて戦場から脱したものの、その矢傷は深く、以降、生涯にわたり、左足を引きずって歩くことになってしまったそうなのである。

 1575年、長篠の戦い。織田信長・徳川家康の連合軍が、信玄の後を継いだ武田勝頼と、対決したのだ。
 今回元忠は、徳川家の重鎮・石川数正と共に、武田勢の突撃を防ぐための、馬防柵の設置を担当。愚直で忍耐強い彼のことだから、単純作業の繰り返しなんか苦とも思わずに、黙々と、寡黙に、モクモク、モクモク、モクモクモクモクと、ひたすら柵を作り続けたことだろう。結構、こういう仕事、向いてたのかもしれない。

 1581年、家康に従い、岡部元信が守る、武田方の、遠江・高天神城攻めに参加。
 この攻城戦において、ちょいと、困ったことが起きた。後方から来るはずの兵糧が、なかなか届かず、城を包囲中の軍勢が、飢えに苦しみ始めてしまったのである。
 そんな腹ペコな事態に、元忠の配下である、ある兵が、近隣の民家にて、わずかばかりの食い物を入手。せめて主君にだけでも腹を満たしてもらおうと、気を利かせて、その食い物を、元忠に差し出してきた。
 しかし元忠は、その食い物には箸をつけず、それどころか、なんとその貴重な飯を、投げ捨ててしまう。
「部下たちが飢えている中、俺一人だけ、飯など食えるか。そんなことをするぐらいなら、部下たちと共に、飢え死にしたほうがマシだ」
 と、いうのが、彼の弁であった。
 食い物に困ってる時に、食い物を投げ捨てるなんて、もったいない。せめて、誰か他の人に食べさせてやれば良かったんじゃないかという気がするが、ここで、小賢しい合理的判断などしないところが、いかにもこの人らしい。
 この、愚かだが美しい態度に、元忠の配下の将兵たちは、感動。腹ペコなのを忘れるくらい、大いに士気が上がったという。
 なお、結局その後、遅ればせながらも、兵糧は到着。徳川軍の皆さんは、普通に、ご飯が食べられるようになったようだ。

 翌1582年、武田家が織田信長によって滅ぼされ、滅ぼした信長も、なんかあっという間に、頓死。織田領になったばかりの旧武田領、甲斐・信濃・上野は、混乱の中、統治者不在の、実質的な空白地帯へと衣替え。その空白地帯を巡り、家康は、関東の支配者・北条氏直と争う。天正壬午の乱である。
 この戦役において家康は、一時的に、危うい状況に陥る。
 甲斐・新府城の跡地周辺に陣を敷き、8000の軍勢で、4万3000の北条氏直本隊と睨み合う家康。その時元忠は、水野勝成と共に、総兵力2000にて、家康の軍勢よりだいぶ後方の、甲府を守っている。
 そこへ、さらに後方より、北条氏直の叔父・氏忠に率いられた、北条軍の別働隊1万が出現。背後から家康本隊を突くために、進軍を始めやがったのである。

 主君の危機に、元忠は、すぐに動く。北条氏忠は、甲府を素通りするつもりだろうから、こっちから出向いてやる。水野勝成と共に、2000の全軍を率いて甲府を出陣。北条軍の別働隊を迎撃に向かい、兵力では相当劣勢でありながら、見事にこれを打ち破った。
 この、黒駒の戦いに勝利したおかげもあり、年内に家康は、割と有利な条件で、北条家と講和。天正壬午の乱は終結し、甲斐・信濃の大部分が、徳川家の領土となった。

 乱での戦功を、評価されたのだろう。同年中に元忠は、家康より、甲斐・都留郡の領主に任命され、谷村城の城主となる。都留郡の経営と、守備を任されたのである。
 これにより、主君・家康に近侍することができなくなってしまったのは、実に残念なことであるが、出世なのは、間違いない。

 このころ、都留郡の新領主・元忠に、家康より、ある特殊な命令が下る。
 武田家の重臣であった、今は亡き武将・馬場信春。その馬場おじさんの娘が、甲斐国内のどこかに隠れ潜んでいるという噂だから、探し出して、連れてこい、というのである。
 家康は、武田家関係者には比較的優しかったから、たぶん、まずはこの、馬場おじさんの娘を、手厚く保護するつもりであったろう。そして、成り行き次第では、自分の側室にでも加えようとしていたのかもしれない。
 早速元忠は、甲斐国内を探し回る。しかし、日にちが経ち、家康のもとに届けられたのは、「馬場おじさんの娘は見つかりませんでした」という、元忠からの、寂しい報告であった。

 だが、さらにしばらく時が経ち、家康の耳に、奇妙な情報が飛び込んでくる。
 なんと、馬場信春の娘が、鳥居元忠の居城におり、そこで、元忠の妻として振る舞っているというのである。
 実は元忠、ちゃんと、馬場おじさんの娘を見つけていたのだ。ところが、どうも彼、この娘とやり取りをするうちに、すっかりこのコに惚れてしまったらしく、家康に内緒で、自分の妻に迎えてしまったようなのである。
 この、忠臣の予想外の命令違反に、家康は一言も怒らず、それどころか、
「抜け目のない奴め」
 と、大いに笑って、それで済ませたという。
 元忠にも、こんなちゃっかりした部分があったというのは驚きだが、それ以上に驚くべきは、家康の、この態度である。
 本来、君と臣との間には、決して越えられない、主従関係の壁があるのだ。どれだけ友達みたいな関係だって、友達じゃあないはずなんだ。なのに元忠は、その壁よりも、家康側の位置に、身を置いていたのである。
 鳥居元忠とは、家康にとって、それほどまでの存在であったのだ。

 1585年、家康の命を受けた元忠は、同僚である、大久保忠世・平岩親吉らと共に、総勢7000の兵にて、信濃・上田城を攻める。徳川家に対して生意気な態度を取る、この城の城主・真田昌幸を懲らしめるのだ。世にいう、第一次上田城の戦いである。
 この戦いに、元忠たち徳川軍は、無残に敗北してしまう。
 敵の兵力は2000程度であったが、名将・真田昌幸の智謀の前に、コテンパンにやっつけられ、上田城から撤収することになる。くそう、真田め。やるなあ。

 1586年。時の天下人、関白・豊臣秀吉に謁見し、臣従を誓うため、家康は、秀吉の本拠地である、摂津の国・大坂へと旅立つ。元忠も、徳川家の多くの重臣たちと共に、そのお供をする。
 家康は、先年秀吉と争い、その後も微妙な関係を続けていたのだが、やっぱり徳川家の力では、関白殿下にはかなわない。ここは腰を低くして、秀吉の家来になることにしたのだ。
 秀吉は、自分に跪いてくれた家康と、それからその重臣たちに、それぞれ官位を授ける。元忠にも、秀吉から、何か官位を授けようとの声がかかる。これは、とっても名誉なことである。
 しかし元忠は、このありがたいお話を、
「関白様から官位をいただいたら、家康様だけでなく、関白様にもお仕えする形になってしまいます。俺は、三河出身の田舎者で、頭の悪い男なので、二人の殿様の下で、両方に忠義を尽くす、上手いやり方が分かりません。俺には、家康様以外の大将にお仕えすることは、できません」
 と、断ってしまう。
 天下人に向かってさえ、空気を読まずに忠臣道を貫く、この姿。家康にしてみれば、とても誇らしかったろうが、その一方で、内心、だいぶヒヤヒヤしたことだろう。怖い、怖い、怖いねえ。


(つづく)


おまけ写真

高天神城
(静岡県掛川市)
撮影日:2009年4月4日
周辺地図

遠江の国の要衝にあった、小規模ながらも険しい山城。
この城を攻囲中に、元忠が見せた男気は、多くの将士の胸を打った。

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