戦国人物伝


鳥居 忠吉
(とりい ただよし)

生年不詳〜1572年

異名:――――

 徳川家臣。渡城主。
 鳥居元忠の父。
 官職は伊賀守。
 歩き出したばかりの徳川家康を陰から支えた、忠義の老臣。富を蓄え人を育て、大徳川家の基礎の基礎を築いた。

 三河の戦国大名である、若き英才・松平清康に仕える。
 清康は、忠吉より20歳ほども年少であるが、優れた大将であり、前途有望な、まぶしい人物だ。

 ところが、1535年。その清康が、突然の出来事により、命を落としてしまう。
 妄想に取り憑かれた一人の家臣によって、殺されてしまったのだ。世にいう、守山崩れである。
 松平家の跡を継いだのは、清康の子である、わずか10歳の、千松丸。清康にとっての心残りは、やはり、この子のことであろう。忠吉は、親を失った千松丸少年を、優しく抱き包み、引き続き、松平家に仕えていく。

 1547年、松平広忠(大人になった千松丸)の息子である、まだ6歳の竹千代が、三河の東方、駿河の今川義元の所へと、旅立っていく。
 実はこの時、松平家は、駿河・遠江を擁する強大な今川家に、従属することになってしまっていたのだ。竹千代は、宗主国への臣従の証に、人質として、駿河に送られていったというわけなのである。
 しかしながら、この竹千代、残念なことに、無事に駿河に辿り着くことが、できなかった。
 なんと、護送役だった野郎が裏切り、この幼子の身柄を、今川家や松平家と敵対関係にある、三河の西隣、尾張の織田信秀に、売り飛ばしてしまったのである。
 竹千代は信秀によって、松平家との駆け引きの道具として、尾張に留め置かれ、そこで暮らしていくことになる。
 こんなことになってしまい、忠吉は、相当、気を揉んだことであろう。心配で心配で、仕方がなかったんじゃなかろうか。

 同年、松平広忠の叔父である松平信孝が、居城である、三河・山崎城より、東の方角へと進撃。広忠の本拠・岡崎城を目指し、迫ってくる。信孝は、以前より、甥・広忠が率いる松平宗家と対立。織田信秀の配下となり、広忠と張り合っていたのだ。
 山崎城と岡崎城の、その間に位置するのが、忠吉の居城である、渡城。この城のすぐ東を流れる矢作川を渡れば、もう目と鼻の先が、岡崎城である。信孝勢に、矢作川を渡らせるわけにはいかない。広忠は、渡城の近辺にまで出向き、信孝を迎え撃つ。
 が、今、織田陣営に刃向かうのは、結構、危ういことである。なにしろ、広忠の嫡子・竹千代が、織田の手中にあるのだから。いろいろと利用価値のある人質ゆえ、そう簡単に殺されるようなことはないだろうが、ことの展開次第では、あの子の命の保証はない。
 それでも広忠は、抗戦する。たとえ、息子の命が助かったとしても、ここであっさり織田に屈服した先に、松平家の明るい未来なんて、ないのだ。もちろん、忠吉の鳥居家も、その戦列に加わる。
 こうして起こった、渡河原の戦い。広忠は、なんとか、信孝勢を撃退することに成功した。竹千代も、特に危害を加えられるようなことなく、済んだ。
 だが、忠吉は、この会戦によって、大きな痛手を負ってしまう。
 嫡男である忠宗が、奮戦の末に、戦死してしまったのである。

 この事態を、忠吉の主君・松平広忠は、決して放り捨ててはおかなかった。
 鳥居忠宗の死に報いるため、忠宗が戦死した地を、忠吉に割譲したのである。忠宗が亡くなった場所は、渡城の近くではあるが、鳥居家の所領ではなく、広忠の直轄地であったのだろう。
 恩賞として補償として、ただただ土地を与えるのではなく、忠吉にとって、特別な地を与える。なかなか心ある差配である。
 かつて、忠吉に抱き締められるばかりであった、あの千松丸少年が、嫡男を囚われながらも戦い抜き、さらに、子を失った忠吉を気遣う慈愛をも示してくれるとは。
 我が子・忠宗の戦死は、悲しみの極みだが、こうして、主君が成長した姿を見せてくれたことは、忠吉にとって、素直に嬉しいことであったに違いない。

 が、1549年。その、主君・松平広忠が、父である清康に続き、若くして、無念の最期を遂げてしまう。
 織田家の息がかかった、自らの近臣により、殺害されてしまったのだという。
 跡を継ぐのはもちろん、広忠の嫡男である、竹千代。しかし知ってのとおり、竹千代は今、尾張に囚われの身。この機に乗じて、松平家の親分である今川義元が、代官を派遣し、岡崎城に入城させてくる。忠吉は、他の松平家臣たちと共に代官の配下に組み込まれつつも、竹千代が、三河に帰ってきてくれる日を待つ。
 松平家は、かなり前途が怪しくなってきているが、それでも忠吉は、待つ。竹千代君は、あのまぶしかった清康公の孫であり、優しかった広忠公の忘れ形見なのだ。待たずして、どうするよ。鳥居忠吉は、ひたすらに、忠臣道を行くのだ。

 同年、今川家の大幹部である太原雪斎が、織田家の城である、三河・安祥城を攻める。忠吉ら松平家臣団も、これに加わる。
 山崎城の南西にあるこの城は、三河制圧を狙う織田信秀の、三河における最大の拠点。城主は、信秀の息子・織田信広である。
 この戦いにおいて忠吉は、城方のわずかな隙をつき、実に果敢な働きをした。槍を唸らせ、50人ばかりの精強な兵たちと共に、城目がけて突進していったのだ。もう結構、いい歳だというのにね。
 そうして城門を打ち破ると、城内に突入。激しく戦い、忠吉たちだけで、かなりの数の敵の、首を取ったという。
 そんな、忠吉の頑張りのおかげもあり、安祥城は落城。城主の織田信広は、太原雪斎によって、捕虜とされた。

 そのすぐ後のこと。太原雪斎と織田家との間で、人質交換の交渉が行われる。今回捕虜となった、織田信秀の息子・信広と、松平家の幼き当主・竹千代の身柄を、交換いたしましょう、という交渉である。
 話し合いは無事にまとまり、信広と竹千代は、それぞれ、味方の陣営へと戻っていく。
 こうして岡崎城に帰還した竹千代だったが、この子が岡崎に滞在できたのは、ほんのわずかな期間だった。すぐに、駿河へと向かうことになってしまったのである。
 なんと、松平家が、竹千代を駿河に人質として送るという、あの話、まだ、生きていたのだ。要するに今川家は、岡崎城の城主を奪還してくれたわけではなく、松平家からの人質を、奪還しただけだったのである。
 結局のところ松平家は、たとえ織田には屈服しなくとも、より強大な今川には、屈服せざるを得ない、ということなのか。

 またもや主を奪い取られ、かなり、しんどい状況を迎えた、松平家臣団。そんな彼らのまとめ役となり、主家を守ったのが、年長者である忠吉であった。
 この時期の松平家は、今川家の代官からかなりの搾取を受け、収入が大きく減ったそうなのだが、忠吉のもと、家臣みんなで倹約に努めたため、財政的には黒字であったらしい。
 余剰分の財については、忠吉主導で、貯蓄に回したのだという。今川家の代官にバレないように注意を払いつつ、軍資金や軍事物資の形にして、溜め込んだのだ。いつか竹千代様が、本当の意味で、帰ってきてくれた時のために。

 また忠吉は、個人としても、主家のために身を削ったという。
 実は鳥居家は、本拠である渡城のそばを流れる矢作川の、水運関連の諸々に携わっており、そこから多大な収益を得ていたのだ。搾取されながらも松平家に貯蓄を成した、忠吉の優れた経済感覚は、こっちの仕事に携わる中で、培われたものなのかもしれない。
 で、その、水運絡みで得た莫大な富の多くを、忠吉は、鳥居家ではなく、松平家のものとしてしまったというのである。先述の、松平家の貯蓄に、合算してしまったのだ。なかなかに、すごいことである。
 このような、忠義にあふれる彼の姿に感化され、松平家臣団の皆さんは、どんどん、主家への忠誠心を高め、結束を強くしていったそうだ。三河の、いわゆるこの家臣団は、後々、忠義者の集団として知られるようになるのだが、その土壌を造ったのは、このころの忠吉であると見て、良さそうである。

 1551年、忠吉の息子であり、亡き忠宗の弟にあたる、元忠が、生まれ育った三河を離れ、単身、駿河の国・駿府へと転居する。
 父・忠吉の命を受け、そこに住まう、主君・松平竹千代に、側仕えすることになったのだ。時に、元忠は若干13歳。竹千代はまだ、10歳であった。

 そんな、駿府での、ある日。こんなことがあった。
 その時、竹千代は、縁側にて、モズという小さい鳥を、鷹に見立てて自分の拳の上に乗せ、鷹狩りごっこをして、遊んでいたのだ。そばには元忠ら、近臣たちもいる。
 竹千代は、元忠にモズを渡し、自分と同じように拳に乗せてみよ、と言う。
 命ぜられるままに、モズを拳に座らせようとする元忠だが、彼はこういうのが、とってもヘタクソだった。試行錯誤するも、全然、モズ先輩を乗っけられないのだ。
 その光景に、イラついてしまった竹千代。ついカッとなり、元忠を突き飛ばし、縁側から落っことして、転ばせてしまったというのである。
 不器用なガキと短気なガキの、実にしょうもない話であるが、この一件を伝え聞いた、被害者の父・鳥居忠吉は、なぜか、大いに喜んだ。
「相手は、家臣団のまとめ役である、この忠吉の子。普通なら、多少ビビッて遠慮するだろうに、心のままに怒りを放つとは。竹千代様は、大器の持ち主じゃ。将来はきっと、立派な大将になって、天下に名を成すぞ」
 と、言うのである。
 竹千代は、肩身の狭い、人質暮らしを強いられてきたのだ。いつの間にか、卑屈な子供になってしまっていても、おかしくない。それが、鳥居のじいの息子だろうが、関係なくブッ飛ばす、こんな、剛毅な腕白ボウズに育ってくれていたことが、忠吉には、たまらなく嬉しかったのだろう。
 突き飛ばされたのは、彼の実の息子ではあるが、それで、ケガをしたわけでも、若君の側近を辞めさせられたわけでも、何でもないしね。

 1556年、松平元信(大人になった竹千代)が、三河・岡崎城に一時帰宅する。父・松平広忠の墓に参るため、今川義元の許可を得て、ちょっとだけ戻ってきたのだ。
 この機会を待ちわびていた忠吉は、元信の手を引き、とある蔵へと案内する。
 忠吉が、その蔵の扉を開くと、中から登場したのは、所狭しと積み上げられた、大量の金銭や米俵や武具であった。
「これらは皆、我ら家臣一同が、少しずつ蓄えてきた物。全て、殿の物です。殿が、岡崎城に復帰した折には、松平家の名を高めるために、是非お役立てください」
 素敵な品々を前に、心揺さぶることを語ってくれちゃう忠吉。元信は、
「毎日、生活していくだけでも大変だろうに。これだけの物を……。ありがとう、じい」
 と、感涙したという。

 また、この時のこと。忠吉は元信に、こんなことも話して聞かせたそうだ。
 蔵の中に備蓄されている、無数の貨幣。それら貨幣は、10貫ごとに大きく束ねられ、いわゆる硬貨さんの平らな面を上にして、何段にも積み上げられ、保管されている。
 そんな、硬貨さんの群れを指さし、忠吉は、こう語ったのだ。
「世間一般では、硬貨さんの平らな面を横に向けて積んでいきますが、それだと、硬貨さんが割れやすくなってしまいます。でも、こういう風に、硬貨さんの平らな面を上に向けて積んでいくと、割れることがないんですよ」
 感心して、聞き入る元信。なかなか役立つ、暮らしの知恵。やはり、忠吉ほどの、経済に通じた貯金の名手ともなると、お金の保管のしかた一つにも、一家言あるのだろう。

 1560年、今川義元が、大規模な軍事行動を起こす。大軍を率い、西へと向かったのだ。
 最終目標は上洛だったといわれるが、まず最初の相手は、尾張の織田信長。織田信秀の跡を継いだ、息子である。
 この遠征に、立派な若武者となった、松平元康(改名した元信)も参加。忠吉も、元康と合流。共に、織田方の拠点の一つである、丸根砦を攻略する。
 また例によって、今川家に使われる戦ではあるが、元康様と一緒に、先代・広忠様のカタキである、織田家と戦える日が来るなんて。忠吉にとっては、幸福なことであったに違いない。

 圧倒的な兵力で織田信長を追い詰める、今川義元。織田家の最期は目前だ。
 しかし義元は、信長に、少しばかりの隙を急襲され、まさかの戦死を遂げてしまう。いわゆる桶狭間の戦いである。

 総大将を討たれた今川軍は、崩れ、退散していく。元康も、普通なら駿河へ撤退するところなのだが、彼は、そうはしなかった。松平家の本拠地である、三河・岡崎へと向かったのだ。
 岡崎城を預かっていた代官は、今回の予想外の大敗に、今川家の斜陽と、城の維持の困難を悟り、すでに逃げ出していた。元康は、その空いた隙間に、スチャッと収まり、名実共に、岡崎城の主となったのである。
 元康様が、確かに、帰ってきてくれた。本当に、この日が来るなんて。夢のようだ。

 翌1561年、松平元康は、勢力をしぼませていく今川家から、明確に独立を果たし、戦国大名として、世に踏み出していく。
 もちろん、忠吉が支度しておいた、資金や物資や人材が、その際に大いに助けになったことは、いうまでもない。
 ずっと、忠臣道に邁進してきて、良かったね、鳥居のじい。

 1563年、三河一向一揆が起こる。
 松平家臣には、一向一揆の母体である一向宗の熱烈な門徒が多かったため、この時ばかりは、一揆側に付く者も多かったのだが、忠吉は、当初からブレずに松平家康(改名した元康)に味方。岡崎城に馳せ参じ、老骨に鞭打って、一揆の鎮圧のため、戦った。

 その後、忠吉は、戦場で戦うお仕事については、引退。さすがにもう、お年寄りなのでね。
 以降は、家康が外征に出かける際に岡崎城に詰め、その留守を預かるという、実に股肱の老臣っぽい役割を、しばしば任されることになる。

 そして、1572年。自分より年若い主君たちのために生き、懸命に働き続けてきた、鳥居忠吉は、ついに、この世を去った。
 80歳を超える年齢での、大往生であったという。

 それから、ずっと後年。
 天下に名を成し、日本を代表する大人物となった、老将・徳川家康(改名した松平家康)。
 とてつもなく偉くなったこの人だったが、このころに至るまで、金銭を保管する際には、いつもいつも、同じ一つのやり方を、徹底していたという。
 硬貨の平らな面を、横ではなく上に向けて積み上げていく、あのやり方である。
 そうして、その、積み方の技法について、たびたび彼は、感慨深げに、こう語っていたのだそうだ。
「これはな、昔々、鳥居のじいが、ワシに教えてくれた積み方なんだ。鳥居忠吉のじいが、ワシにな」


(おしまい)


おまけ写真

渡城趾の碑
(愛知県岡崎市)
撮影日:2017年1月22日
周辺地図

矢作川のすぐ近く。鳥居家代々の本拠であった、渡城の跡。
川からもたらされる収益は、鳥居家の、ひいては徳川家康の、力の源泉となった。

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