織田信長・その4


 1575年、徳川家の属城である、三河・長篠城が、武田勝頼率いる1万5000の武田勢に襲われた。信長3万・家康8000の、織田・徳川連合軍が、救援に向かう。設楽原を舞台に、決戦の幕が上がった。これが、あの有名な、長篠の合戦である。
 織田・徳川連合軍は、陣の前に馬防柵を築き、待ち構える。連合軍には、3000挺もの鉄砲がある。そこに、一途に突撃を繰り返す、武田軍。3000挺の鉄砲による三段撃ち。間断なく続く銃撃に、武田騎馬軍団の猛者たちも、次々と倒れていく。(とはいったものの、実をいうと、近年では、「武田騎馬軍団など存在しなかったし、連合軍には3000挺も鉄砲はなかったし、三段撃ちなどというものも行われなかった」という説の方が、有力だったりする。ただ、連合軍が、この戦いで、鉄砲を効果的に運用したことだけは、確かなようだ)
 8時間にも及ぶ死闘の末、武田軍は、1万2000人もの犠牲者を出し、壊滅。勝利した織田・徳川連合軍も、6000人もの戦死者を出した。武田勝頼は、自身こそ逃げ延びたものの、多くの老臣を失い、以降、坂道を転がり落ちていくことになる。

 武田家を弱体化させた信長は、次に、越前一向一揆を叩き潰すことにした。
 大軍の侵攻に、一揆持ちの国は滅び去り、今度は、3、4万もの人々が、虐殺された。
 越前の国主には、柴田勝家が任命されることになった。

 越前を平定した後、信長は、嫡子・信忠に、家督と、美濃・尾張の2国を譲った。もし、自分が急死するようなことがあっても、大きな問題が生じないように、予め、息子にバトンタッチしておいたのである。
 とはいえ、もちろん、実権は、いまだに信長が握ったままである。実質的な織田家の親分は、依然として、信長なのだ。

 1576年、信長は、近江の国・琵琶湖畔に、新たな居城・安土城を造り始める。総普請奉行には、丹羽長秀が任じられた。

 この年信長は、佐久間信盛を総大将とする大軍に、しぶとい敵・石山本願寺を、ぐるりと包囲させた。補給路を断ち、兵糧攻めにしようというのである。だが、海路だけは、どうしても、遮断することができなかった。

 その海路から、村上武吉率いる村上水軍が、本願寺に兵糧を入れにやってきた。村上水軍は、中国地方の覇者・毛利家(足利義昭の亡命先)の傘下に入っており、その毛利家は、本願寺と同盟を結んでいたのだ。
 そうはさせじと、これを迎え撃ったのが、信長配下の、九鬼嘉隆率いる九鬼水軍。村上水軍800艘VS九鬼水軍300艘。第一次木津川口の合戦の始まりである。
 この戦いは、機動力・戦術・兵器の全てにおいて勝る、村上水軍の圧勝で終わった。村上水軍の放つ焙烙火矢を受け、九鬼水軍の船は、次々と沈んだ。それに対し、村上水軍の船は、ただの一艘も沈むことはなかった。
 九鬼水軍を撃破した村上水軍は、予定通り本願寺に兵糧を入れ、悠々と引き上げていった。

 1577年、信長は、安土の町に、楽市・楽座令を出した。
 中世において、市での商売を取り仕切る権限は、公家や寺社の影響を受けた、「座」が一手に握っていた。座を通さなければ、商売など許されなかったのだ。
 この政策は、座を否定し、人々に自由に商売をさせて経済を潤し、また、公家や寺社の力を奪い、自らに権力を集中させようという試みであった。

 同年、能登の国にて、近々上洛作戦を始めるという噂の上杉謙信と、柴田勝家率いる織田軍との間に起こったのが、手取川の合戦である。
 謙信は、この戦いに大勝したが、すぐに上洛戦を始めるということはなく、一旦、本国へと撤収した。

 翌1578年、謙信は、遠征の準備を始めた。いよいよ上洛戦を開始するのかと、緊張し、身構える織田陣営(謙信の遠征予定地は、京ではなく、関東だったともいわれるが)。
 ところが、この、戦の準備中に、謙信は、急病によって、帰らぬ人になってしまったのである。
 戦わずして、強敵が消えていく。信長は、とことん、運のいい奴であった。

 この年、第二次木津川口の合戦が起こった。石山本願寺に兵糧を入れようとする村上水軍と、それを阻止しようとする九鬼水軍が、再び激突したのだ。
 今回の九鬼水軍は、前回、惨敗した時とは、一味も二味も違った。信長の命を受け、九鬼嘉隆が建造した、6隻の「鉄甲船」があったのだ。この船は、非常に巨大で、焙烙火矢を防ぐために鉄板で装甲されており、大砲まで装備していた(実際には、鉄板で覆われてはいなかったともいわれる)。
 今度の戦いは、嘉隆率いる九鬼水軍の、完全勝利であった。鉄甲船の、自慢の大砲が火を吹き、わずか数十艘の九鬼水軍は、600艘の村上水軍を、簡単に蹴散らしてしまった。
 こうして制海権は、織田家のものとなった。本願寺は、唯一の補給路を絶たれてしまったのである。

 1579年、ついに、安土城が完成。信長は、この城に、移り住んだ。
 この安土城、凄まじく背が高く、巨大で、極めてカラフルな城であったという。
 ちなみに、数ある城の、数ある天守閣の中で、この安土城の天守閣だけは、なぜか、「天主閣」と書く。これには、「俺様こそ天の主(=神)なんだぜ!」という、信長の熱い思いが込められているともいわれる。

 1580年、石山本願寺が、とうとう、信長と和睦(事実上の降伏)。法主・顕如は、石山本願寺を退去した。
 ここに、11年間にも及んだ石山戦争は、終結したのである。

 この石山戦争や、先の比叡山焼き討ちによって、信長は、日本の政教分離に、大いに貢献した。現在の、「世界でも稀に見る無宗教色の強い国家・日本」の礎を築いたのは、彼であるといっても、決していいすぎではないだろう。
 このようなことが行えたのは、彼が、徹底した合理主義者であり、無神論者(実際には、完全な無神論者ではなかったともいわれる)であったからだが、そんな思想、同時代人からは、理解されるはずもなかった。
 人々は、彼のことを、「第六天魔王」と呼び、恐怖した。しかし、当の信長は、そんな嫌な仇名で呼ばれても、全然気にしなかったという。それどころか、自分から、好んでその名を名乗っていたとさえいわれる。

 その後信長は、家臣団のうち、佐久間信盛・林通勝らを、織田家から追放した。
 追放の理由は、信盛が、「石山本願寺攻めの総大将だったのに、怠けていて、ろくに戦果を挙げられなかったから」、通勝が、「かつて、信行擁立を企み、信長に背いたから」、というものであった。
 しかし、これらはほとんど、言いがかりに近いものであった。実際には、ただ単に、いらなくなった無能な家臣を、クビにしたかっただけのようなのだ。
 信長は、能力主義に基づいた、貴賤・門地を問わない人材登用で、羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益らを重臣に大抜擢、世に送り出した。能力さえあれば、どんなに得体の知れない人間でも、重用したのだ。
 しかし、それは裏を返せば、どれだけ頑張って働いている者でも、不要になれば、リストラされてしまうということである。
 古くから自分に忠節を尽くしてくれた家臣ですら、信長にとっては、天下布武を達成するための、使い捨ての駒にすぎなかったのだ。

 1581年、信長は、京都にて、天皇を迎え、大規模な軍事パレード、「馬揃え」を行った。
 操り人形になってくれず、譲位もしてくれない正親町天皇に、自らの強大な軍事力を見せつけ、「早く譲位しろや!」と、暗に脅しをかけるのが目的だったといわれる。
 この馬揃えに、信長は、ビロードのマントを羽織り、西洋風の帽子を被った、奇抜な格好で、参加したという。新しいもの・珍しいもの好きの、信長らしい話だ。

 彼は、他にも、多くの南蛮製のアイテムを所持・愛用していた。西洋風の鎧を手に入れてからは、好んで戦場に着ていったというし、宣教師からは、地球儀なんかももらっている。
 宣教師に地球儀を見せられ、
「世界って実は球体なのよ」
 と、説明された際、信長は、即座に、そのことを理解したそうだ。ホントに素晴らしい頭脳の持ち主である。

 馬揃え終了後の、ある日、信長は、1泊2日の予定で、琵琶湖に浮かぶ竹生島に、お出かけした。
 明日まで、ご主人様は帰ってこない。侍女たちのうちの何人かは、この隙に、安土城を抜け出し、遊びに行ってしまった。もちろん、信長には内緒でである。
 ところが、信長は、気が変わったのか、急遽予定を変更、その日のうちに、安土に戻ってきてしまった。
 侍女たちのサボリを知った彼は、激怒した。そして、刀を振るい、彼女たちを、ことごとく手討ちにしてしまった。
 信長の、狂気じみた苛烈さ・厳格さが、よく現れたエピソードである。

 1582年、信長は、嫡子・信忠を総大将とする5万の軍勢を、武田攻略に向かわせる。
 戦意を喪失した武田勢には、抵抗する者もろくにいない有様で、甲斐の国・天目山に追い詰められた武田勝頼は、自らの手で、その命を絶った。信長は、ついに、宿敵・武田家を滅ぼしたのである。
 残党狩りも、信長は、厳しく行った。武田家関係者は、草の根を分けてでも捜し出し、皆殺しにしたのだ。

 その後信長は、安土城内部に建立した、総見寺という寺に、自分の化身として、「盆山」なる石を置いた。そして、自身の誕生日である5月12日を、「聖日」と定め、その日に、御神体である盆山を拝みに来るよう、諸国の人々に命じた。要するに、「俺は神だ」と、いい始めたのである。
 これは、当時においては、抜群にクレイジーなことであった(現代においても、十分にクレイジーであるが)。当時の人々は、当たり前のように、神仏を信じていたのだ。なのに信長は、それを信じないばかりか、「自分こそが神」などと主張するのである。これこそまさに、「神をも畏れぬ所業」であった。

 このころ、織田家の所領は、30ヶ国以上、約800万石。信長は、すでに、日本のほぼ半分を、その掌中に収めていた。全国に、今の織田家を倒すことのできる勢力など残されてはおらず、日本全土の平定も、時間の問題であった。もはや信長は、「天下人」と呼んで、何ら差し支えのない地位にまで、昇りつめていたのである。

 北陸戦線では、柴田勝家率いる方面軍が、謙信亡き後の上杉家を、除々に追い詰めている。羽柴秀吉率いる中国方面軍は、毛利家と、攻防を繰り広げている。関東では、滝川一益率いる方面軍が、北条家と睨み合っている。四国の長宗我部家攻略には、信長の三男・信孝を総大将とする軍団(実質的な総大将は、丹羽長秀だったともいわれる)が向かうことになっており、堺にて、渡航の準備をしている。
 そして今、近畿方面軍の総大将的な地位にあった明智光秀が、苦闘する秀吉に加勢するために、1万3000の軍勢を率い、中国戦線に発とうとしていた。
 しかし、光秀の向かった先は、当初の予定とは、まるで違う場所であった。

 その時、信長は、100人にも満たない人数を連れ、京・本能寺にいた。自らも、中国戦線の秀吉に加勢しようと、茶会なんぞに興じつつ、兵の集結を待っていたのだ。
 あろうことか光秀は、その本能寺にやってきて、1万3000の軍勢で、周囲をぐるりと取り囲んだのである。夜明けごろのことであった。
 外の騒がしさに目覚めた信長、最初は、家来がケンカでもしてるのかと思ったらしい。しかし、次第に、少々様子が違うことに気づく。
 その後、小姓・森蘭丸から、明智光秀が謀叛を起こしたことを聞かされた彼は、
「是非に及ばず」
 と、つぶやいたという。
 ニュアンスとしては、「そりゃあ、しょうがねぇなぁ」という感じであろうか。
 霊魂の不滅も、来世の存在も信じず、死んだらそれで終わりだと思っているというのに、自分の最期を前にしての、この“あっけらかん”とした態度。信長の、無類のカッコ良さを演出している。
 間もなく、明智兵が、すぐそばにまで迫ってきた。信長は、自らも、白い寝巻姿のまま、弓矢を手に応戦する。弓の弦が切れると、今度は槍を持ち、果敢に戦う。しかし、やがて、敵の槍を受け、肘を負傷してしまう。
 戦えるだけ戦った信長は、奥の部屋に入り、自身の亡骸が見つからぬよう、寺に火を放った。そして、燃えさかる炎の中、自害して果てたのである。享年は49。
 焼け跡からは、信長の遺骸は、髪の毛一本として、発見されなかった。

 この「本能寺の変」で、信長を屠った明智光秀。彼以前にも、織田家中からは、多くの謀叛人が出ている。このことは、「信長の苛烈さ・先進性についていけなかった者が、家臣の中にも大勢いた」ということを、そのまま意味しているといえるであろう。皮肉なことに、信長は、自らの手で、自らの首を絞めてしまったのかもしれない。
 しかし、たとえそうであるにしても、彼の成し遂げた業績は、あまりにも偉大である。長い日本史の中にあって、燦然と光り輝いている。
 結局、信長の横死は、歴史の必然だったのではないだろうか。「出る杭は打たれる」「改革者は長生きできない」という、古来よりの、ごく自然な、人間社会の摂理だったのではないだろうか。
 そして、そんなラストシーンが待っていることを、頭のいい信長は、誰よりも理解し、覚悟していたのかもしれない。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬ者の有るべきか」
「是非に及ばず」
 これらの言葉を目にするたびに、そんな思いが頭をよぎる。

(おしまい)



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