織田信長・その3


 1570年、信長は、朝倉義景討伐のために、3万ほどの兵を率い、越前へと向かった。「『上洛して、新将軍に挨拶しろ』と命令したのに、シカトした」というのが、その大義名分であった。
 義景は、プライドだけは高い男であった。その余計なプライドが、信長に、侵攻の口実を与えてしまったのである。

 浅井領を通過し、朝倉領へ侵入する織田軍。義景の従兄弟・朝倉景恒が守る金ヶ崎城などを落とし、破竹の勢いである。しかし、途中で、信長の計画は、大きく狂ってしまうことになる。
 なんと、北近江の、義弟・浅井長政が裏切り、織田軍の背後を突こうと、動き出したというのだ。このままでは、挟み撃ちである。
 「これはヤバい」と感じた信長は、わずかな供だけを従え、とっと京都へ逃げ帰ってしまった。彼は、その頭脳が「逃げるべし」と判断すれば、恥も外聞もなく、真っ先に逃げ出す男なのだ。徹底した、現実主義者なのである。
 間一髪、難を逃れた信長。もうちょっとで、死ぬところであった。彼に置き去りにされた味方の大軍も、相当な苦労の末、どうにか、帰還を果たすことができた。

 この、浅井長政の裏切り、大変に卑劣な行為のようだが、実際のところは、悪いのは、信長の方なのだ。
 実は、浅井家と朝倉家は、古くからの友人だったのである。そのため長政は、信長と同盟を締結する際、
「朝倉家には、攻撃をしかけないこと。万が一、攻撃しようと思うなら、事前に長政に相談すること」
 という約束を取り付けていたのだ。そういう条件のもとで、この同盟は結ばれていたのだ。
 その約束を破り、信長は、勝手に朝倉を攻め始めてしまったのである。これでは、義の人・浅井長政が敵に回るのも、無理はない。
 とはいえ、信長に、義理や人情などというものが理解できるとは、到底思えない。彼の目には、長政の行為は、単なる裏切りとしか写らなかったようだ。信長の、長政に対する憎悪は、それはそれは凄まじいものであった。

 織田・徳川連合軍3万1000(織田軍2万3000・徳川軍8000)と、浅井・朝倉連合軍1万8000(浅井軍8000・朝倉軍1万)の戦いである、姉川の合戦が起こったのは、それから間もなくのことだ。きっかけは、信長が、浅井討伐の兵を起こしたことであった。
 戦いは、主に、織田勢VS浅井勢、徳川勢VS朝倉勢という形で行われた。
 数の上では、浅井勢を遥かに上回る織田勢であったが、浅井勢の勇戦に押され、ついには、信長の本陣さえ危うい状況に追い込まれてしまった。
 しかし、少ない兵力の徳川勢が奮戦したことにより、数に勝るはずの朝倉勢が敗走を始めると、すかさず、信長勢の一角である美濃三人衆が、それぞれの隊を率い、浅井勢の脇腹を攻撃、これにより、形勢は逆転した。浅井・朝倉連合軍は総崩れとなり、大打撃を引きずりながら、退散していったのである。

 この戦いで、寡兵の浅井勢に苦戦していることからも分かる通り、実は信長は、戦の指揮は、あまり得意ではなかった。
 いや、もちろん、並の武将に比べれば、ずっと優れた戦術家だったといえるだろう。しかし、決して「戦の達人」といえるようなレベルの人物ではなかったのだ。少なくとも、上杉謙信や武田信玄などの、当時最高峰の戦術家とは、比ぶべくもない。
 信長が優れていたのは、戦術家としてではなく、戦略家としてなのだ。小手先の戦術は一流でなくとも、戦略眼は、超一流であった。先進性に富み、スケールがデカかった。
 その戦略眼プラス、「強運」。これらが、信長を、戦国時代の覇王たらしめたといえるだろう。

 姉川の合戦の前後から、にわかに、信長の敵が、増え始めた。
 一度は滅びたはずの六角義賢が、勢力を盛り返し、南近江にて挙兵。三好三人衆も、逃げていた阿波から、海を渡って摂津に上陸、陣を張った。
 石山本願寺も、信長に敵対、攻撃を仕掛けてきた(石山戦争の始まり)。本願寺プロデュースの、伊勢・長島の一向一揆により、小木江城主である、信長の弟・信興が、殺害されたりもした。
 さらには、姉川の敗戦で弱体化したとはいえ、浅井・朝倉も、依然、存続しているのである。

 翌1571年には、一度は帰順したはずの松永久秀が、謀叛を起こした。織田政権は、その外側も内側も、敵だらけである。
 これら、一連の勢力の、アンチ信長な行動。裏で糸を引いていたのは、他でもない、将軍・足利義昭であった。
 自分をないがしろにし、日本の支配者気取りでいる信長が許せなかった彼は、密かに、得意のお手紙を各地の勢力に飛ばしまくり、団結して信長を蹴散らしてくれるよう、お願いしていたのだ。
 こうして、いわゆる「信長包囲網」が、形成されていったのである。

 同じ年のうちに、信長は、比叡山の焼き討ちを決行、僧侶・民間人を問わず、その場にいた3000人とも4000人ともいわれる人々を、一人残らず虐殺した。「比叡山延暦寺が、信長側の『中立を保ってくれ』という要求を無視し、前年、浅井・朝倉軍を匿ったから」というのが、その理由であった(裏には、他に、「本願寺などの、その他の仏教系反信長勢力に対する、見せしめのため」「煩悩にまみれて堕落した比叡山の僧侶たちが、許せなかったため」「政教分離を推進するため」などの理由があったともいわれている)。
 これは、とんでもなくすごい行為であった。当時、比叡山延暦寺といえば、古より京の鬼門を守護し、日本中の人々から崇拝され畏怖される、聖地だったのだ。それを焼き尽くすなど、マトモな神経を持った人間なら、到底できないことである。
 実は、前年の段階から信長は、延暦寺に対し、「言うこと聞かないと焼き討ちするよ」と、警告を発していたのだ。それを延暦寺は、無視していたのである。聖地を実際に焼き討ちすることなど、有り得ないと考えていたのだ。そしてその考え方は、当時の人々の、常識的な考え方でもあった。
 しかし、信長には、そんな常識は通用しなかった。彼には、神仏を敬う気持ちも、畏れる気持ちも、なかったのである。当時の人々の目には、信長は、狂気に身を包んだ「魔王」としか写らなかったに違いない。

 そんな信長であったが、相変わらず、足利義昭とは、表面上は、仲良しさんであった。お互いに、今、正面きって争うのは、得策ではないと判断していたのであろう。仮面夫婦のような関係が、ずっと続いていた。

 1572年になると、信長に帰属していた、三好家の当主・三好義継が、反旗を翻し、信長包囲網に加わった。松永久秀と、結びやがったのである。
 どいつもこいつも、信長の敵に回っていく。困ったもんだ。

 そして、その、信長にとって最悪の事態は起こってしまった。
 甲斐の虎・武田信玄が、信長包囲網に加担、西上作戦を開始したのだ。
 これは、非常にマズいことであった。
 信長は、西側に抱えた敵で手一杯で、とても、東からの脅威に対応できるような状態ではなかったのだ。
 しかも、相手は、戦国時代最強の武将の一人、あの、武田信玄なのである。信長は、武田信玄と上杉謙信のことは心底恐れており、彼らに対しては、ずっと土下座外交を続けていたのだ(この低姿勢外交には「目指す京が西にあったために、東の連中とは何としても仲良くしようと考えていた」という理由もあっただろうが)。

 軍勢を率い、京を目指して動き始めた信玄は、まず、通り道である、徳川領・遠江に入る。この地で、信長の同盟者・徳川家康が、信玄を迎え撃つ。
 家康率いる8000に、織田家からの援軍である、佐久間信盛・平手汎秀(政秀の子)ら3000を加えた、総勢1万1000の織田・徳川連合軍。対する武田軍は、2万5000。三方ヶ原の合戦の始まりである。
 この戦いは、武田軍の圧勝で終わった。織田・徳川連合軍は、ほとんど敵にダメージを与えることもできずに、壊滅。平手汎秀も、戦死した。
 信玄は、浜松城に立て籠もる家康を無視。遠江を後にし、西隣の、徳川領・三河に入る。
 こうなると、もはや織田領は目前。信長は、まさに、絶体絶命の大ピンチに陥ってしまったのだ。

 明けて1573年、ついに、信長包囲網の黒幕・足利義昭が、自ら、打倒信長の兵を挙げた。
 武田信玄の圧倒的な強さに、信長の最期を確信し、本性を表したのであろう。

 ところが、三河に入ってからというもの、信玄率いる武田軍の動きは、やたらにノロノロになっていた。不可解なことに、なかなか前に進んでこないのだ。それどころか、後ろへ下がってしまう始末。
 結局義昭は、信玄との連携ができずに孤立し、信長と講和することになってしまった。
 その後、信玄は、武田領への帰還の道中にて、ポックリとあの世へ逝ってしまう。
 実は、元より、病を抱えながらの西征だったのだ。その病が、信長との決戦より前に、彼の体を重篤状態に追い込み、その命を奪ってしまったのである。

 信玄の死は、一応は隠されたのだが、不自然な撤退劇のせいで、緒大名には、ほとんどバレバレ。この、事態の急転に、笑ったのは信長、泣いたのは義昭であった。
 武田信玄亡き今、義昭には、再び信長を窮地に追い込むことは、できそうになかった。かといって、一度表立って歯向かってしまった以上、もはや、信長と元鞘に収まることができるかどうかも、かなり怪しいのだ。
 一か八か、槇島城に拠り、再度兵を挙げる義昭。しかし、勝負は目に見えていた。簡単に、敗北してしまった。
 信長は、もう、将軍などには、利用価値を認めていなかったのだろう。義昭を手放し、京から追放してしまった。命を取らなかったのは、将軍を殺せば、人心を失うことになると考えたからであろう。
 こうして、信長の手によって、室町幕府は滅亡。237年の歴史に、終止符を打った。

 その後、信長は、敵対勢力を、次々と潰していった。
 越前の朝倉義景を攻め、自殺させ、朝倉家を滅ぼした。
 浅井家の本拠・小谷城を陥落させ、浅井をも滅ぼした。浅井久政・長政父子は、城と運命を共にし、自害した(信長の妹であるお市の方と、彼女と長政の間にできた3人の娘は、助けられた)。
 河内の国・若江城の三好義継も、佐久間信盛を使い、攻め殺した。
 三好三人衆も、再起不能にしてやった。
 この勢いに恐れをなしたのか、松永久秀は、信長に降伏してきた。
 これらの諸勢力が消え去ったことにより、信長に対する包囲網は、事実上、瓦解してしまった。信長にとっては、とても喜ばしく、香ばしいことであったろう。

 翌1574年の元旦。家臣たちを集めての酒宴の席にて、信長は、悪趣味極まりないブツを披露した。
 それはなんと、浅井久政・長政父子と、朝倉義景の頭蓋骨に、漆を塗り、金粉をまぶし、盃にしたものであった。難しい言葉でいうところの、「薄濃」というやつである。
 憎き敵たちの頭蓋骨の盃で、みんなに酒を振る舞う信長は、実に上機嫌で、楽しそうであったという。
 しかし、家臣たちは、どいつもこいつもドン引きしていた。無理もないことである。普通の感覚を持った人間なら、「こいつヤバいよ……」と、思うのが当たり前であろう。

 この年、織田領になったものの混乱している越前で、一向一揆が蜂起。信長に降った朝倉旧臣たちを倒し、越前一国を、一揆持ちの国にしてしまった。「イイ気持ち」の国ではない。「一揆持ち」の国である。
 こんなことが起こって、信長も大層腹が立ったろうが、ちょっと、武田勝頼(信玄の子で、彼の後継者)や長島の一向一揆のことが気になっていたので、とりあえず、越前は放置することにした。

 その後信長は、7万もの軍勢を率い、長島一向一揆に対する殲滅戦を行った。
 この戦いは、地獄の鬼もビックリするほど、ハードボイルドに展開した。
 降伏してきた一向宗徒たちを騙し討ちにして、皆殺し。まだ宗徒たちの篭っている砦の周りには、逃げられないように柵を作り、2万人もの人々(そのほとんどは農民)を焼き殺した。
 信長は、これほどまでに、一向一揆を憎んでいたのである。政治に口を出し、自分に敵対してくる宗教が、許せなかったのだろう。
 同時に彼は、一向一揆を、恐れていたともいえるのではないだろうか。「死ねば極楽、逃げれば地獄」と、まさに命を捨てて挑んでくる一向一揆勢には、さすがの信長も、ビビッたはずだ。
 しかも連中の原動力は、庶民の中に根付いた、「信仰」。上からの命令で、嫌々戦うのではないのだ。これはもう、彼らとの共存を望まぬ信長にしてみれば、根絶やし作戦で臨むしかなかったであろう。

(つづく)



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