織田信長・その2


 1561年、美濃攻めの障壁となっていた、舅のカタキ・斉藤義龍が急死した。
 後を継いだのは、まだ若く、しかも到底有能とはいえない、義龍の子・龍興。これはもう、この機に乗じるしかない。信長は、本格的に、美濃攻略に乗り出した。

 翌年には、桶狭間をきっかけに今川家から独立していた、三河の松平元康(後の徳川家康)との間に、軍事同盟を締結。「清洲同盟」の名で知られるこの同盟により、信長は東方の安全を確保。ますます、美濃を見る見る見る。

 1563年、信長は、本拠地を、清洲城から小牧山城へと移転。攻略戦がやりやすいように、より美濃に近い土地に引っ越したのである。

 また、こうやって、たびたび居城を移転することには、兵農分離を推進するという狙いもあったと思われる。
 実は、天才・信長は、家督を継いで間もないころから、「兵農分離政策」という、型破りな政策をひねり出し、実行に移していたのである。
 当時、日本全国の武士という武士は、ほとんど例外なく、土地に縛りつけられた、半農半士であった。武士と農民の間に、明確な境界線などなかったのだ。「武士」というものの誕生以来、ずっとそうであった。そのため、当時の戦国大名たちは、皆、農繁期には、軍事行動を起こせなかったのである(戦闘員が農業にいそしんでいるんですから、当たり前ですな)。
 そんな状況を、信長は、打開しようとしたのだ。「武士は武士、農民は農民」と、きっちり分け、身軽な常備軍を創り出そうとしたのだ。そのために、本拠地を移し、家臣たちを父祖伝来の土地から離れざるを得なくし、彼らを除々に専業武士(すなわち職業軍人)化させていったのである。
 そして、商業の発展に力を入れることも、忘れなかった。なにしろ、常備軍の維持には、カネがかかるのである。
 こうして兵農分離が進んだことにより、織田軍は、農繁期でも、平気で戦争ができるようになった。尾張兵は、弱兵として知られていたが、「一年中、間断なく敵地に攻め込める」というスーパースキルを手に入れ、他の国の強兵どもに対しても、有利に戦えるようになったのである。

 さらに、この兵農分離は、信長を絶対君主化させることにもつながった。
 家臣たちが、それぞれ自前の土地を持っている場合、当然、彼らは、自前の生産力・兵力をも持っていることになる。となると、大名も、彼らの意見を無視できない。極端な話、家臣団が団結すれば、大名の意向など、どこかへ消し飛んでしまうのである。
 それに引き換え、織田家臣たちは、職業軍人化したことにより、土地と、それに基づく力を奪われてしまっている。織田家中の、力という力は、ひたすら、信長に一極集中していくことになったのだ。何もかも、信長が、思い通りに動かせるようになっていったのである。

 何年も頑張った甲斐あって、1567年、ついに、斉藤家の本拠・稲葉山城は陥落、信長は、美濃制圧を達成した。斉藤龍興は、越前の朝倉義景を頼り、落ち延びていった。
 これ以降、信長は、稲葉山城を岐阜城と改名し、ここを本拠地とする。「岐阜」の名は、中国の周王朝が、岐山から興り、天下を取ったという故事が、元ネタであるといわれている。残念ながら、「義理のお父さんが住んでいたから」という理由で、名付けられたわけではないのだ。

 有名な、「天下布武」の印章を使い始めたのも、美濃制覇の直後からである。
 信長め、いよいよ、大望に向けて動き出したということか。
 実は彼、非常に早い段階から、明確に、上洛して天下を制することを目的として行動を始めた、極めて例外的な戦国大名なのである。

 妹のお市を、北近江の浅井長政のもとへ嫁がせ、これと同盟を結んだり、娘・五徳を、徳川家康の嫡男・信康のもとへ嫁にやったりしたのも、1567年のことだ。
 これらはいずれも、安心して京に上るための、布石であろう。

 そして1568年、信長は、朝倉義景の庇護を受け越前で暮らしていた足利義昭を奉じ、同盟者である、徳川家康・浅井長政らの支援も受け、6万ともいわれる軍勢を率いて、ついに、上洛の途についた。
 道中に立ち塞がった南近江の六角義賢や、これまで京洛を支配していた松永久秀・三好三人衆らは、大軍の前に為す術もなかった。六角と三人衆は逃げ出し、松永は、信長に帰順した。信長は、何の問題もなく、入洛し、京の制圧を果たすことができたのである。

 この時、共に京に上った足利義昭。彼は、松永久秀らに殺害されたかつての将軍・足利義輝の、弟である。
 義昭は、兄が殺されてからというもの、各地の有力大名にお手紙を送り、自分を将軍にするために上洛してくれるよう、依頼し続けていたのだ。しかし、全国の皆さん、四方八方に敵を抱えているため、なかなか上洛などできない。そんな折、美濃を制し、いいタイミングでヒマになった信長が、お願いを聞いてくれたというわけなのである。
 京に入った信長は、無事、義昭を15代将軍に就けることに成功した。義昭は、このことに、深く深く感謝した。

 上洛ついでに信長は、和泉の国の商業都市・堺に2万貫、石山本願寺に5000貫の、矢銭を要求、豪快にふんだくっている。

 信長が、軍律を厳しくしたがために、京に滞在中の織田軍は、実に、品行方正であった。略奪やら強姦やら放火やらなんてマネをする者は、全然いなかった。そのため、京の人々からの評判は、かなり良好であった。

 この年信長は、自分の領国内にある関所の、撤廃も行った。
 当時の関所のほとんどは、寺社勢力などが、通行料を取るために設置していたものだった。これが、商品の流通を、阻害していたのだ。したがって、関所の撤廃は、そのまま、経済の発展へとつながったのである。
 だが、同時にそれは、関所のおかげでウハウハだった宗教勢力に対して、ケンカを売ることを、意味してもいたのだ。

 京を制圧した織田軍によって捕らえられていた、敵方の人間の中に、三好家お抱えの料理人だった、坪内がいた。
 信長は、家臣の提案を受け、彼に、試しに料理を作らせてみることにした。その料理がうまければ、彼を料理人として雇おうというのだ。
 思いがけない好機に恵まれた坪内、自慢の腕を振るい、信長に、特上の料理を作って差し上げた。
 ところが、この料理、信長の逆鱗に触れてしまった。
「こんな水みたいなもん、食えるか!」
 と怒った彼、坪内を処刑しようとまでしやがったのだ。
 これはヤバいと思った坪内は、信長に、
「あと一度だけ、チャンスをください」
 と、懇願した。この願いは聞き入れられ、彼は、もう一度、信長のために料理を作ることになった。
 今度の料理は、信長のハートを、見事に射止めた。坪内の料理の腕前に満足した信長は、約束通り、彼を、料理人として召し抱えることにした。
 後に、坪内が人に語ったところによると、最初に信長に出したのは、京風の一流料理。二度目に出したのは、味が濃いだけの田舎料理だったという。
 どうも、信長という人は、味の濃いものが、好みだったようだ。

 短期間ですっかり仲良しになった、信長と義昭。しかし、関係が冷え始めるのも、また早かった。
 1569年、信長は、将軍の権力を抑制する「殿中御掟」なるものを発布、義昭に突きつけた。信長のような強大な軍事力を持たない義昭は、これを認めざるを得なかった。
 信長は、義昭を、上洛して天下に号令をかけることの大義名分を得るために、利用したにすぎなかったのだ。将軍の力を封じ込めようと動き出したのが、何よりの証拠だ。義昭と信長の仲は、ちょっと、険悪になってきた。

 それでも信長は、表の顔では、義昭を敬い、親切にしていた。義昭のために、防御能力に優れた居館・二条城を築城してあげたりもしている。しかも、自ら総普請奉行となり、陣頭指揮をとって、である。

 この築城期間中の、ある日、こんなことがあったという。
 陣頭指揮をとっていた信長の目に、実にナメくさった態度の、職務怠慢野郎の姿が入ってきた。その、作業員の男は、仕事をサボり、その代わりに、通りすがりの女にちょっかいを出していたのだ。
 プチッと切れてしまった信長は、何も言わずにその男に駆け寄り、これを、一刀のもとに斬り殺してしまった。
 以降、仕事を放棄して女に手を出すような奴は、この作業現場からは、一人も出なかったに違いない。

 ちなみに、信長が、イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスと会い、キリスト教の布教許可を与えたのも、この、二条城の築城現場である。

 このフロイスが、後に、その著書、『日本史』で語ったところによれば、信長は、
「中くらいの身長・やせ型・ヒゲが少ない・声がよく通る・いつも憂鬱そうな表情をしている・酒を飲まない・日常生活は規則正しい・正義に対して厳格・キレると怖いが普段はそうでもない・対談においては長ったらしい前置きを嫌う・滅多に家臣の意見に従わない・日本のあらゆる公家や大名を見下している・身分の低い者とも親しく話す・神仏や占いを全く信じず軽蔑する・霊魂の不滅も来世の存在も信じない」
 というような人物だったという。
 なお、「信長の身長は中くらい」とのことだが、それはあくまでも、ヨーロッパ人の目から見ての話であるようだ。当時の日本人男性の平均身長は、157p程度。それに対し信長の身長は、162〜168pくらいあったと推定されている。これは、当時のヨーロッパ人の平均身長に、ほど近い数値なのである。
 ついでにいっておくと、信長さんは、顔立ちの凛々しい、結構なハンサムさんでもあったらしい。

 信長が、義昭にいい顔をしていたように、義昭もまた、信長に、整った、素敵な顔を見せていた。信長に、「副将軍になってくれ」と、要請してきたのである。これによって信長を慰撫し、それと同時に、足利幕府の権威の下に組み入れようと考えたのだ。
 しかし、その手に乗る信長ではない。彼は、義昭のこの依頼を、辞退。代わりに望んだのは、和泉の国の堺と、近江の国の大津・草津に、代官を置かせてもらうことだけであった。義昭は、この要求を、許可した。
 信長は、幕府の権威を暗に否定しつつ、まんまと、交通の要衝であり、商業も盛んなこれらの都市を、手に入れたのだ。

 この年信長は、京において、「名物狩り」を行っている。「名物」と呼ばれる高価な茶器の数々を、惜しげもなく、買いあさったのだ。
 後に彼は、この「茶器」を、人心掌握に利用する。
 まず、「茶会の席で、密かに軍議を行う」という習慣を作り、さらに、「信長から許可されなければ、家臣たちは茶会を開けない」というルールを定めた。これにより、「茶会」というイベントは、信長配下の武将たちの中で、重大な意味を持つに至った。
 その上で、功績のあった家臣に、所領の代わりに、茶器を与えたのである。信長によって、「茶会・茶器って最高!」という価値観を刷り込まれていた家臣たちは、それはもう、大喜びであった。一つの国よりも、一つの名物茶器の方に大きな価値を見出だす者も、いたぐらいだ。
 土地には限りがある。それに、家臣にあんまり多くの土地を与えてしまうと、独自に力を付け、織田家にとって危険な存在になってしまう可能性がある。信長は、茶器を巧みに利用することで、リスクを小さく抑え、家臣たちの心をゲットしたのである。

(つづく)



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