織田信長・その1


 尾張の実力者・織田信秀の子。2人の兄がいたが、彼らは庶子であったために、信長が、事実上の嫡男であった。
 幼名は吉法師。通称は三郎。官位は上総介・弾正忠・右大臣。
 戦国の世を終幕に近づけた英雄にして、日本史上屈指の天才。古き権威を破壊し、合理主義に基づいた、数々の革新的な政策を行った。目的の達成に邪魔なもの・不要なものは、それが何であれ平然と葬ってしまうという、その容赦のなさゆえに、人々から「魔王」と恐れられもした。

 彼は、乳児のころから癇癪持ちであった。授乳しようとした乳母の乳首を、噛み切ってしまうのだ。そのため、乳母は次々とチェンジ、そのたびに彼は、乳首を噛み切っていた。もう歯が生えているというのに乳離れできず、それでいてこんな行為に走るとは、困った小僧である。
 しかし、後に養徳院と呼ばれることになる女(池田恒興の母)が乳母になってからは、噛み噛みする悪い癖は治まる。吉法師の奴、母性豊かなこの女性にだけは、なついたのだ。

 もう少し大きくなってからのこと。庭で遊んでいた吉法師は、蛇を発見した。その蛇を「どすこい!」とばかりにつかんだ彼、近習に、
「俺って、すげえだろ」
 と、自慢してみせた。
 しかしその近習は、
「こんなの小さな蛇ですから、別にすごくないと思います」
 と、つれない態度。
 この発言に、吉法師は、
「小さな蛇だって、大きな蛇と同じぐらい、毒は強烈なんだよ! それに、小さいから大したことないってんなら、お前は、『ガキだから』ってことで、俺をバカにしたりとかしてんのか!」
 と、ブリブリ怒ったという。
 ただのクソガキのようで、なかなか、鋭いことを言う奴である。

 1546年に元服、信長と名乗る。

 1547年には、家老・平手政秀に後見され、隣国・三河の、吉良の大浜攻めで初陣。大浜の色んなところに、したい放題放火して、意気揚々と、居城・那古野城に帰ってきた。

 1548年、父・信秀が、長いこと争っていた、美濃の蝮・斉藤道三と和睦。その証として、道三の娘・奇蝶(濃姫)を、信長の嫁に迎え入れる。いわゆる政略結婚というやつである。

 吉法師と呼ばれていたころからそうだったのだが、若き日の信長は、ヤンキー街道一直線であった。
 半袴をはき、髪を茶筅に結び、下げた刀の鞘は真っ赤っ赤、なぜか火打ち袋まで腰からぶら下げる。そんな格好で、ヤンキー手下共と町に繰り出し、上品さのかけらもなく、人前で柿やら瓜やら餅やらにかぶりついていたのだ。そんなみっともない姿を見せつけられ、家臣や領民は、陰で、「うつけ」と、彼を罵ったという。
 ヤンキー手下たちと共に、相撲や鷹狩をして遊んだりもしていたようであるが、これらは、単なる遊びの範疇に収まるものではなく、実はそのバックには、「忠誠心旺盛で屈強な親衛隊を育成する」という、リアルな目的が隠されていたらしい。やはりこやつ、ただのうつけ者では、なかったのだ。

 1551年、父・信秀が、急病のため死去した。その葬儀の席で、不良息子・信長は、信じられない非行に走った。
 葬儀に遅れてやってきたばかりか、なんと、いつもの通りのヤンキー装束で登場、場の空気を無視して、父の位牌に歩み寄る。そして、焼香をむんずとつかみ、
「喝!」
 と、位牌に投げつけ、退場したというのだ。
 それを見ていた家臣たちは、唖然としてしまった。「こいつは本当にバカだ」と、芯から思ったようだ。

 ところが、信秀の後釜として、織田家の新たな棟梁になるのは、事実上の嫡男である、信長なのだ。当然、家臣の中には、これに不満を持つ者が、大勢出てくることになる。
 そういった連中が支持したのは、兄とは違って良い子でお勉強もできる、信長の弟・信行であった。信行も信行で、「いつかあのアホ兄を追い落とし、自分が織田家当主になってやる」という野心を持っていた。

 1553年、信長の数少ない味方であった平手政秀が、割腹自殺を遂げてしまった。なんでも、アホアホな行動ばかり繰り返す信長を諌めるために、腹を切ったのだという。
 この事件に、信長は深く悲しんだが、それでもやっぱり、日ごろのうつけな生活スタイルは、あんまり改善されなかったようだ。

 とはいえ、うつけ信長、行動こそバカっぽかったが、頭は切れた。同じく1553年には、美濃・正徳寺にて、腹の底では何を考えているか分からない舅・斉藤道三と初対面。見事な変幻技を見せ、これを感服させている。
 この時、信長は、ずいぶんな人数の長槍隊・鉄砲隊を従え、正徳寺に赴いたという。彼は、新兵器の導入に、大変積極的だったのだ。

 1555年には、織田宗家のドンで、本来なら信秀や信長の主家筋に当たる、尾張下4郡の守護代・織田信友を討ち取り、その居城・清洲城を奪い取り、そこに本拠を移した。

 1556年、良き協力者となってくれていた斉藤道三が、息子・義龍との争い、長良川の合戦にて、戦死してしまう。信長は、道三救援のために美濃に向かったが、着いた時にはもはや手遅れ。仕方なく、尾張まで引き返した。
 死に際して道三は、「美濃一国を信長に譲る」という遺言を残していたといわれる。そのせいもあってか、以後信長は、尾張統一業務に精を出しつつ、美濃の奪取をも見据えることになる。

 道三の死を契機としたのかどうかは分からないが、同年、ついに、弟・信行が、謀叛を起こした。織田家中の信行派、林通勝・柴田勝家らも、これに加担。実際に兵を起こしたのは、柴田勝家と、林美作守(通勝の弟)。稲生の合戦の始まりである。
 柴田・林軍1700に対し、信長軍は700。信行支持派の勢力は大きく、人数の上では、信長はかなり不利であった。
 ところが、柴田・林軍の構成員の多くが、戦のアマチュア・農民兵だったのに対し、信長軍は、そのほとんどが、相撲や鷹狩を通して信長自身が育て上げてきた、精強な親衛隊だったのである。ために信長は、人数の面で劣勢に立ちながら、優位に合戦を展開することができた。
 さらに、信長が、馬上から柴田・林軍に放った一言も、大きかった。
 戦が始まるなり、
「俺が、正真正銘の織田家の当主だぞ! その俺に刃を向けるんか!」
 と、みんなに聞こえるように叫んだのだ。
 これにより、柴田・林軍の連中は、自分たちが後ろめたき謀反人であることを、今さら意識。信長軍を前に腰が引けてしまい、あっけなく敗戦してしまった。林美作守も、この時戦死している。

 戦後、信長は当然のごとく、信行を処刑しようとしたが、そこに、とんだ邪魔者が登場した。
 信長・信行の母、土田御前が、
「信行を許してやってちょ」
 と、哀願してきたのである。
 この母は、昔から、性格の歪んだ息子・信長を毛嫌いしており、代わりに、弟の信行を溺愛していた。そんな母に頭を下げられて、信長は、嬉しかっただろうか? それとも悔しかっただろうか? それは分からない。だが、いずれにせよ彼は、母の願いを聞き入れ、弟の罪を許してやることにした。林通勝・柴田勝家らも、ついでに許された。

 ところが、翌1557年、信行の奴が、懲りずに再び謀叛を企て始めた。
 だが今回は、決起する前に、兄貴にバレてしまった。
 もはや、あいつを生かしておくことはできない。信長は、計画が発覚したことを知らぬ信行を、病気と偽って清洲城に呼び出し、ザクッと殺害してしまった。

 1559年、上洛し、13代将軍・足利義輝に謁見。尾張の統治権を、正式にいただく。

 そしてその年のうちに、尾張上4郡の守護代・織田信賢を滅ぼし、尾張全土の統一を、ほぼ完了させた。
 信長のことを、いまだに、ただのバカ殿だと思っている者は、もはや皆無。織田家の前途は、限りなく明るく見えた。

 が、1560年、呼んでもいないのに、危機が訪れた。駿河・遠江・三河の太守、今川義元が、京を目指して西進を開始、尾張に近づいているというのだ(近年では、「そもそもこの出兵は、上洛ではなく、せいぜい尾張平定程度を目的としたものだった」という説が有力なんだけどね)。
 今川軍は、総勢、2万とも、2万5000とも、4万とも、4万5000ともいわれる大軍である。対する織田軍は、5000人の動員が精一杯であった。義元は、織田勢なんぞ、虫けらのように踏み潰すつもりだ。どう考えても、信長に勝ち目はない。
 だが、それでも彼は、戦うことを決意した。

 前線の、丸根砦・鷲津砦に、今川軍の攻撃が開始され、両砦が落ちるのも、織田家が落ちるのも、目前かと思われた夜明け前。ふと思い立った信長は、すくっと寝床から起き上がり、大好きな幸若舞、「敦盛」の中の、これまた大好きな一節を舞った。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬ者の有るべきか」
 信長の死生観が、目一杯に詰まった一節である。
 舞を終えた信長は、鎧を身につけ、立ったまま湯漬けをかき込むと、馬にまたがり、わずか5騎だけを従えて清洲を飛び出し、熱田神宮へと入った。このころには、空はもう、すっかり明るくなっていた。
 そして、そこで兵の集結を待ち、戦勝を祈願する(後に、無神論者として知られることになる信長だが、この時は、兵の士気を高めることを第一に考えたのだろう)。だが、集まった兵は、2000人ほどでしかなかった。
 その後、善照寺砦へと移動する信長軍(このころまでに、丸根・鷲津の両砦は陥落、守将であった、佐久間大学・織田玄蕃らも、討ち死にしている)。そこへ、「今川義元が、桶狭間でのんびり休憩している」という情報が飛び込んできた。信長は、軍勢を引き連れ、桶狭間へと急行する。
 やがて織田勢は、桶狭間にて、余裕をブッこき、のほほんと昼飯など食っている、今川義元の旗本勢を捕捉した。向こうは、こちらには気づいていないようだ。本隊だけなので、大して人数もいない。さらにラッキーなことに、ザーザーと雨まで降っていやがる。やるなら今だ。今しかない。
 雨がやんだと同時に、織田勢は、奇襲を敢行した。
 この予想外の事態に、義元の旗本勢は、大混乱に陥る。乱戦、乱戦、乱乱戦。その末に、なんと義元公は、不運にも首を取られてしまった。
 世にいう、桶狭間の合戦は、織田信長の、奇跡の大勝利で幕を閉じたのである。

 戦後の論功行賞において、信長は、義元に一番槍をつけた服部小平太でも、最終的に義元の首を挙げた毛利新介でもなく、「桶狭間で義元が休憩してるよ」という情報を持ってきただけの簗田政綱に、最も多くの恩賞を与えたという。政綱の情報がなければ、奇襲は実行不可能だったこと、そして、奇襲が実行できなければ、勝利など有り得なかったことを、信長は、よく分かっていたということだろう。

 と、ここまで盛り上げておいて、こんなことをいうのは大変恐縮なのだが、実は、近年では、桶狭間の合戦での、鮮やかな「奇襲」は、実際には行われなかったとの説が有力なのである。
 どうも実際には、
「織田勢が、善照寺砦から、まっすぐ中島砦にまで進んだ後、敵に丸見えの状態で、正面から攻撃をしかけたら、なんか敵が混乱しちゃって、ドサクサに紛れて義元まで死んじゃった」
 という話だった可能性が高いようなのだ。
 要するに信長、運が良かったのである。どうして勝てたのか、本人ですら、ビックリしたに違いない。

(つづく)



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