戦国人物伝


織田 信友
(おだ のぶとも)

生年不詳〜1555年

異名:――――

 尾張の戦国大名。清洲織田家の当主。清洲城主。
 名は広信・勝秀とも。通称は彦五郎。官職は大和守。
 形の上では、織田信長の主君であった武将。父の跡を継いで間もない信長の前に立ち塞がり、下剋上にその生き死にを委ねた。

 尾張国にて、守護の斯波家の家臣という立場にあった、織田家。信友は、その織田家の有力な分家の一つである清洲織田家出身の、織田達広という武将の子として生まれたという。

 時が経ち信友は、自身の伯父にあたる、清洲織田家の当主・織田達勝より、養子として迎えられる。
 この清洲織田家というのは、尾張国内の諸勢力の中では、その強さがなかなかに目立つ家であった。長年にわたり本家である岩倉織田家と争い、勢力を伸ばし、尾張国の南半分・尾張南部の守護代という立場にまでなっていた。残る北半分・尾張北部の守護代は、織田本家である岩倉織田家であるからして、清洲織田家は、本家と並び立つ存在ともいえる家なのである。
 そんな清洲織田家の力の前には、守護すらも屈する有り様であった。
 このころ、尾張の守護である斯波家は、すっかりその力を失っており、当主の斯波義統は、清洲織田家の本拠である清洲城の、その一角に建てられた館に、まるで居候のように在住。守護代の権力の正当性を担保するためだけの存在として、家臣であるはずの清洲織田家に据え置かれる、お飾りのザコに成り下がっていた。
 要するに清洲織田家は、守護をザコ扱いし、手のひらの上で転がすほどの家だったのである。

 1547年のこと。織田家の分家の一つ・勝幡織田家の当主である、尾張南部は古渡城の織田信秀が、尾張の北隣・美濃の斎藤利政を攻めた。
 この軍事作戦には、尾張のみんなが協力。清洲織田家も岩倉織田家も守護の斯波義統も、みんな信秀を支援。その一環として、信友の実父である織田達広は、信秀の指揮下に入り、美濃まで従軍することになる。
 尾張の諸勢力を抱き込み、他国に侵攻していくほどのことをやってのける、織田信秀という男。ついさっき、「清洲織田家は本家と並び立ち守護をもザコ扱いするほど強かった」みたいな解説をしたばかりなのに申し訳ないが、実は当時、この織田信秀こそが、尾張国最大の実力者だったのである。
 彼が率いる勝幡織田家は、清洲織田家より格下の家であり、その家臣筋にあたる家。本来信秀は、清洲織田家の家来に過ぎない存在なのであるが、主家の束縛を吹き飛ばすほどの力を持ち、独立勢力の当主として振る舞っていた。なんか風下に立たされている清洲織田家からすれば、実に目障りな野郎である。
 そんな信秀であったが、意気揚々と美濃に進撃していったものの、斎藤利政にボロ負けし、敗走。この、加納口の戦いにて、信友の実父・達広は、戦死を遂げてしまう。
 勝幡の信秀野郎が起こした負け戦に巻き込まれ、父が、命を落としてしまったのだ。信友はきっと、信秀と勝幡織田家を、恨んだことであろう。

 伯父との養子縁組から、年月が経過。やがて信友は、清洲織田家の家督を継承。尾張南部の守護代の地位に納まる。

 信友が家督を継いでから、さほど時が経っていないころだと思われる、1551年。あの目障りな、勝幡織田家の織田信秀が死去した。
 跡を継いだのは、信秀の嫡男でありバカ息子として評判の、信長。信友は、幸運を感じ小躍りしたに違いない。今こそ、実父を死に至らしめた、憎き勝幡織田家を叩き潰す好機だ。

 織田信長との対立姿勢を鮮明にした信友は、翌1552年、攻撃を開始。清洲城の南に広がる勝幡織田家の領地に、兵を差し向けた。軍勢を率いるのは、清洲織田家の家老・坂井大膳である。
 信長はこの進撃を、勝幡織田陣営の勇将である、叔父・織田信光らを引き連れて、自ら迎撃する。萱津の戦いである。
 信長なんぞは、あっけなくやっつけてやるはずだったのだが、この合戦に、なぜか清洲軍は敗北。坂井大膳は逃げ帰ってくる。おバカさんであるはずの信長、叔父・信光の力添えがあったとはいえ、妙に手強い。

 そのうちに、別の方面から、良からぬことがやってくる。一応信友の主君である斯波義統が、お飾りのザコとして扱われることに不満を募らせ、どうにかして信友を排除しようと、密かに動き出したのだ。
 主君の策謀を事前に察知した信友は、1554年、知恵を絞って先手を打つ。
 義統の嫡男である岩龍丸が、ある時、守護館に詰める屈強な若侍たちを連れて、川遊びにお出かけ。館の守りは、爺さんと貧弱野郎ばかりになる。その隙を突き、なんと信友は、家臣である坂井大膳や河尻左馬丞を使い、守護館の義統を襲撃したのである。
 為す術なく追い詰められた義統は、自害。出先で悲報を聞いた岩龍丸は、織田信長の元へと逃げ込む。信友は、自らの主君をブチ殺し、下剋上を成し遂げたというわけだ。

 鮮やかな手際で目的を達したかのようだが、実はこれ、結構、信友自身の首を絞める行為であった。
 斯波義統は、信友が囲って担いでいた、尾張守護。清洲織田家が尾張南部の守護代として威張ることの正当性を担保してくれていた、信友にとって大事な存在だったのだ。彼は、それを自らの手で潰し、守護代としての正当性を放棄しちゃったのである。
 そればかりか、形式上は清洲織田家の臣下である信長に、「尾張守護・斯波義統を討った謀反人の織田信友を成敗する」という、下剋上の大義名分を与えてしまっている。自らが行った下剋上が、自らに対する下剋上を認める形になってしまったのである。
 だけれども、信友は、そんなに深刻に考えてはいなかったのかもしれない。
 だって、信長って奴は、おバカさんなのだ。下剋上の大義名分を得たところで、大した脅威ではない。簡単に、蹴散らしてやれるさ。

 信友が斯波義統を死なせた事件を受け、すぐに信長は動き出す。尾張守護のカタキ討ちを掲げ、勝幡織田家の猛将・柴田勝家を、清洲織田領に攻め入らせたのだ。信友は、重臣の河尻左馬丞を差し向け、これを迎撃させる。安食の戦いだ。
 この戦いで、清洲織田勢は、勝幡織田勢に圧倒されてしまう。大義を掲げる敵勢の士気は高いし、大将の柴田勝家は勇猛だ。そりゃ、強いに決まってる。
 けれど、それより何より、連中の強さの決め手となっていたのは、その槍の長さであった。
 勝幡織田勢は、信長が採用した長槍を装備しており、とても槍攻撃のリーチが長かった。普通の槍を装備する清洲織田勢では、とても歯が立たなかった。「敵の槍が届かない位置からペチペチ叩く」という、単純明快だが実に合理的な戦い方を、信長は考案したのだ。
 清洲織田勢は一方的に打ちのめされ、河尻左馬丞は戦死。そのままの勢いで、清洲城にまで攻め込まれることこそなかったものの、清洲織田家の完敗である。
 信長の野郎、おバカさんのくせに、だいぶ有効な戦法を思いつく。どういうことなんだ?

 いよいよ、清洲織田家の旗色は悪い。翌1555年、信友は、起死回生の策に出る。勝幡織田家の主力メンバーの一人である、信長の叔父・織田信光を調略し、味方に引き入れようとしたのだ。
 信光は、優れた武勇で近隣に聞こえた武将。先年の萱津の戦いに勝幡織田家が勝ったのだって、おバカさんな信長の実力ではなく、どうせ信光の助力のおかげに決まってるのだ、どうせどうせ。
 そんな有能な信光が、いつまでも信長なんぞに従い続けるはずがない。だって信長は、結局のところおバカさんなはずなのだから。そのうち信光も、見限るはずだ。
 信光の勧誘を担当したのは、信友の家老である、坂井大膳。信光は誘いを受け入れ、「信長を裏切り信友に付く」と、しっかり返信をしてくれる。
 ほら、やっぱりね。ちょろいちょろい。これで勝てるぜ。勝幡織田家を内部から切り崩して崩壊させ、今度こそ、実父の命を取られた恨みを晴らすのだ。

 信光は兵を連れ、信友が待つ清洲城へと転がり込む。一行の中には、どういうわけだか、信長の直臣である森可成なども加わっている。
 信光殿の到着に、清洲織田家のみんなは大喜び。家老の坂井大膳が、信光の所へ挨拶に向かう。
 そこで大膳は、信光の軍勢から漂う、ただならぬ殺気に、ただならぬ事態を察知する。
 実は信光は、寝返ってなどいなかったのである。信長と示し合わせた上で、信友の誘いに乗ったフリをし、刃を握って無警戒な清洲城内に乗り込んできた、というわけだったのである。
 大膳は、すかさず逃走。以前から交流のある、尾張の東方・駿河の今川義元を頼り、走り去っていく。

 ここに来て信友も、自らが置かれた危機的状況を認識。城からの脱出を図るが、ちょいと初動が遅かった。本性を現し牙を剥いた信光の軍勢に襲いかかられ、城内を逃げ回る羽目になってしまう。
 逃げ走る信友は、城域内のどっかにある館へと駆け込む。その背中を追い、敵勢も館に突っ込んでくる。
 目下だったはずの者に不意打ちされ、館に追い詰められる、この光景。かつて信友が、主君・斯波義統を死に追いやったあの時の様子と、なんだかとっても、よく似ている。
 なおも諦めない信友は、上へ上へと逃げていき、ついには館の屋根の上によじ登る。
 しかし、そんな所へ出てみたところで、お空でも飛べない限りは、どうにもならない。
 目の前にまで迫ってきた、敵の武将・森可成によってグサグサッとやられ、殺害されてしまった。
 尾張国南部の守護代・清洲織田家は、こうして滅亡。清洲城は、勝幡織田家の手に落ちた。

 なんとも格好のつかない最期を遂げてしまった、織田信友。不意を突いて主君を殺めてみたり、敵将を調略しようとしてみたり、策士っぽい動きはするのだが、そのせいで敵に大義名分を与えてしまったり、逆に懐に潜り込まれてしまったり、ちょっとドジっ子な奴である。
 だがしかし。しかしだが。彼もドジを踏んだかもしれないが、そもそも、相手が悪すぎたよ。
 おバカさんだなんて、とんでもない。実は、この時代を代表するほどのハイレベルな武将である、織田信長。その信長を侮り、潰そうとしてしまった時点で、彼の運命は、決まってしまっていたのかもしれない。


(おしまい)


おまけ写真

清洲古城趾の碑
(愛知県清須市 清洲古城跡公園)
撮影日:2007年7月2日
周辺地図

尾張守護・斯波家を擁した、清洲織田家の本拠。
地理的にも政治的にも、尾張国の中心地であった。

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