織田家臣。初め土岐家臣。次いで斎藤家臣。肥田城主。岸和田城主。敦賀城主。
官職は兵庫助・出羽守・侍従。
黒母衣衆の一人。織田信長に仕え各地で戦った、律儀で正直な武将。満ち足りた老後に思いを馳せる人物でもあった。
1534年、美濃国にて誕生する。土豪の家の生まれであるというが、親の名など、詳しいことはよく分からない。
初め彼は、美濃守護である、土岐家に仕えていたらしい。
しかしその後、美濃国内で一番の実力を持つ、斎藤家の家臣となったそうだ。
しばらくすると、そこからさらに転職。美濃の南隣・尾張国の戦国大名、織田信長に仕官することになる。
織田家臣となった時点で、彼はまだ、かなり若かったようである。
こうして尾張で働き始めた頼隆。やがて彼は、信長から認められ、その馬廻衆の一員となる。主君の身辺を固める役割を、仰せつかったわけだ。
実は頼隆、同僚からはあまり有能な人物だと思われていなかったようなのだが、信長は、彼を自分の近くに置くことを選んだのである。
1559年、信長は、少人数の供回りだけを連れて、上洛をする。
その、数限られたお供の中には、頼隆の姿もあった。なかなかに、信頼されておるじゃあないですか。
馬廻衆である頼隆は、当然のことながら、信長に従い、しばしば戦場にて戦う。
そんな彼には、戦で使う武具である槍について一家言あったらしく、周囲の人に、よくこんなことを語っていたそうだ。
「世の一部の侍は、自分の槍を作る時に、金や銀の金具で飾り立てたりするけど、それはとても浅はかな行いだ。槍っていうのは、常に肌身離さず持ってる物じゃなくて、使う時以外は、自分の目の届く場所には無い物なんだ。そういう物を金や銀で飾ると、卑しい奴らに目をつけられて、盗まれてしまうかもしれない。そうなったら、戦の時に困ることになる。槍に使う金具は、銅の金具で十分だ」
見栄や虚飾は不要。地味でも目立たなくてもいい。働くべき時に、しっかり働けることが大事。って、ことですな。
1567年、信長の馬廻衆から選抜された優秀な人材たちから成る、黒母衣衆と赤母衣衆が結成される。信長側近の、精鋭集団の誕生だ。
頼隆はこの折に、めでたく黒母衣衆の一員に選ばれる。
この時、頼隆と同じく黒母衣衆に選抜された者の中に、佐々成政がいた。彼は、頼隆が自分と同様に抜擢されたことを知り、主君・信長に対し、直々に抗議をしたのだという。
成政は、こう言うのだ。
「今回は、馬廻衆の中でも優れた者たちを、母衣衆に抜擢したということだと思いますが、なんで蜂屋みたいな愚直な奴が選抜されてるんでしょうか? あんな頭の足りない奴と同列に扱われるなんて、迷惑です。今回の黒母衣衆入りの話、俺は辞退します」
すると信長は、こう返す。
「いやいや。それはお前が間違ってるぞ。お前や多くの選抜メンバーたちは、確かに優秀で武勇も抜きん出てるかもしれんが、戦場で物見に遣わした時なんかに、行った先で戦いに巻き込まれたりすれば、本来の仕事を忘れて戦いに没頭しかねないだろ? そこへ行くと、あの蜂屋は律儀者。必ず戻ってきて仕事を全うする。だから、選抜メンバーに混ぜ込んだんだよ」
この発言を聞いて、成政は納得。引き下がったという。
誰にだって短所はあり、長所もある。人材活用において大切なのは、使い所と使い方なのだ。
信長は、ちゃんと見て、分かっていたのである。銅金具の槍で戦う頼隆の、その心根と、頼もしい仕事ぶりを。
1568年、すでに美濃を平定済みの信長は、当時の居城である、美濃・岐阜城を進発し、西へ。大軍を率いて上洛する。
頼隆はこの時、柴田勝家・森可成・坂井政尚らと共に織田軍の先鋒を任され、一隊を率いる将として、入京する。
そうしてそのままの流れで、柴田・森・坂井たちと共に、信長の敵対者である、三好三人衆の一人・岩成友通が拠る、山城国は勝龍寺城を攻略する。
蜂屋頼隆、信長から厚く信頼され、だいぶ重用されておりますな。
それから翌1569年に至るまで、頼隆は京都に残る。そしてそこで、さっきの柴田・森・坂井に、織田家の重鎮・佐久間信盛を加えたみんなとチームを組み、京の政務に携わった。
やがて京を離れた頼隆。今度は、主君・信長の命に従い、各地を転戦する。
尾張の西隣の伊勢やら、美濃の西隣の近江やら。数年間にわたり、いろんな土地に行き、反織田勢力との戦いに従事する。
そのうちに、積年の働きぶりが実を結ぶ。
1574年のことであったという。ついに頼隆は、信長から城を与えられたのである。すっかり織田領となった近江国にある、肥田城という城の城主に任命されたのだ。
1581年には、さらなる出世を遂げる。
京の都の南西。当時すでに織田家の領地となっていた、和泉国。信長の命を受けた頼隆は、その和泉国は岸和田城に入城。和泉一国の国主という地位に収まったのである。
1582年、信長は、四国攻めを表明する。
土佐を本拠地とする、四国の雄・長宗我部元親。四国全土をほぼ統一しようかという勢いで勢力を拡大するこの野郎を、ここらで潰すことにしたのだ。
この遠征軍の大将に指名されたのは、信長の三男である、神戸信孝。頼隆は、この信孝の与力の任を拝命。和泉の北隣の、織田領・摂津に入った信孝を補佐し、一緒に出撃の支度をする。
和泉や摂津から、西。海を渡れば、そこは四国。船の用意が整ったら、みんなで渡海して、長宗我部を叩き潰そうね。
しかし、同年。出発直前に、遠征は突如、中止となる。
本能寺の変。このまま行けば、確実に天下を統一するだろうと思われた、あの織田信長公が、京に滞在中、重臣・明智光秀の謀反により、命を落としてしまったのだ。
とんでもない凶報。もはや、四国攻めどころじゃねえよ。
直後、亡き信長の重臣の一人・羽柴秀吉が、主君のカタキを討つため、西方の備中から、明智光秀の犯行現場である京都方面に、兵を率いてガツンガツンと突っ込んでくる。
頼隆は、神戸信孝らと共に、この秀吉の軍勢に合流。山城国で行われた秀吉と光秀との決戦・山崎の戦いに参戦し、主君の無念を晴らすことに成功する。
翌1583年、頼隆は、和泉国から転勤。近江の北隣・越前国、敦賀5万石に移封される。そうしてそこに、敦賀城という城を築き、その城主となる。
これ、織田家中の配置転換ではあるが、彼に異動命令を出したのは、事実上、山崎の戦いで共に戦った、あの羽柴秀吉であった。このころの織田家の主導権は、主君のカタキ討ちの戦いを取り仕切った、秀吉が掌握していたのである。そんな秀吉の判断により、頼隆は、国替えをされることになったというわけなのだ。
家中の権力構造は大きく動き、時代は移り変わろうとしている。そのあたりのところ、頼隆は、ちゃんと読み取れていただろうか?
この人、律儀に自分の仕事をやり遂げる、底光りする武将だが、バシバシッと頭が切れるようなタイプではないのだ。いかにも、空気を読むのとか苦手そうである。
1585年、羽柴秀吉は、関白に就任。とうとう、主家であった織田家を名実共に追い抜き、自分自身の名のもとに、天下統一事業を進めていくことになる。
旧来の織田家臣たちは、羽柴家臣にスライド。秀吉は頼隆の、主君となった。
頼隆は秀吉の「元同僚」だが、そんな程度の肩書きなんて、もはや意味を持たない。今後はしっかりと立場をわきまえ、秀吉に仕えていかないといけないぜ。
秀吉が関白になって以降の、ある時のこと。とある食事の席にて、頼隆は秀吉に意見書を提出した。
当時秀吉が、自分の領内にて推し進めていた大規模な検地。後世において「太閤検地」と呼ばれる検地に対し、不服を申し立てる意見書であった。
この太閤検地は、それまで曖昧な基準に基づいて算出されていた田畑の生産力を、統一的な基準を用いて算出し直そうという施策であり、秀吉政権の最重要政策の一つ。これにより、土地土地の所有者と収穫量は明確に定義され、年貢の取りっぱぐれはぐっと減り、秀吉政権は、その力を大幅に高めることができるのだ。
とはいえ、もちろん、旧来の曖昧な基準のおかげでおいしいご飯が食べられていた人たちも、大勢いる。強い痛みを受けて泣いちゃう人が出るのも、間違いない政策だったんだけどね。
で、そんな太閤検地に対する、頼隆の意見書であるが、こんなような内容であった。
「今回の検地では、皆が、とてもしんどい思いをしています。このしんどさが続けば、いずれ取り返しのつかないことになります。武士もそれ以外の者たちも、曖昧な基準のおかげで生まれた年貢徴収対象外の土地があるからこそ、老後の楽しみが得られ、それにより人心は清らかでいられ、上に媚びへつらうような邪心も薄くなるのです。そういう土地を認めず、容赦なく年貢を取るとなれば、人々の心は年を追うごとに卑しくなり、誠実な者などいなくなってしまうでしょう。それでも検地を行うのであれば、せめて、それぞれの屋敷が建つ土地の分だけは、厳格な基準を当てはめるのをご勘弁いただきたい」
気持ちは、分かる。ただの自分本位な言葉ではなく、多くの人たちの思いを汲んでの言葉なのも、よく、分かる。だが、最高権力者が推進する最重要政策に対し、気持ちばかりを前面に押し出して、いきなり何を言い出すのだ、この人は。
秀吉に、太閤検地を根幹から否定するような文句を言うというのは、例えば、かつて佐々成政が、母衣衆の人選のことで信長に物言いをしたのなんかとは、ことの重大性がまるで違うのである。やっぱりこの人、空気も世の流れも、全然読めてないじゃないのよ。
秀吉は、頼隆のこの反対意見を、テキトーに聞き流し、マトモに取り合うことはなかった。
秀吉という人は、物事の機微に聡く、頭の回転が速く機転も利く。それによって出世してきた部分が、大いにある人なのだ。そんな彼だから、「元同僚」という微妙な立ち位置の家臣が、こんな前時代的で近視眼的な内容の諫言をしてきたことに、だいぶうんざりしてしまったのではなかろうか。
1587年。どんどん天下統一へと近づき、もはや誰もがその威光にひれ伏すような状態の豊臣秀吉(改名した羽柴秀吉)は、京都にて、北野大茶会という、文字通りの大茶会イベントを開いた。
頼隆も、この茶会に参加。頼隆の座敷を訪ねてきた秀吉に茶を振る舞い、それから、そのお供をし、一緒に様々な人々の座敷を回ったのだという。
で、なんと彼、行く先々の座敷でギャグを言い、秀吉を大いに喜ばせたのだそうだ。
このころの秀吉は、エラくなりすぎてしまっており、皆から恐れられ、周囲の人間たちはゴマをすりまくるばかり、みたいな状況になってしまっていた。なかなか、当時の秀吉の前でギャグを連発する奴なんて、いなかっただろう。
空気を読めない読まない頼隆が、かつて一緒に信長のもとで働いていた時みたいに、「仲間」みたいな距離感で接してくることに、この時の秀吉は、安らぎと嬉しさを感じたのかもしれない。たぶん、この時は。あくまでも、この時は。
1589年のこと。蜂屋頼隆は、世を去った。56歳であった。
この時代としては別に早死にというわけではないが、現役の武将のまま生涯を終えた彼には、秀吉に物申した時に語っていた、「老後」なんてものは、そもそも訪れなかった。
遺言により、遺品が秀吉に届けられたが、秀吉はその受け取りを拒否。そればかりか、頼隆に子供がおらず、跡継ぎ不在であることを理由に、彼の所領であった越前敦賀5万石を、全て没収してしまった。蜂屋家は、改易されてしまったのだ。
遺品の受け取りは拒否し、領地は没収。このあたりに、秀吉の、頼隆に対する本心が透けて見えている気がする。なんだか、もの寂しいやね。
(おしまい)