足利義政・その3


 ようやく、惰性の力が消滅し、乱に終わりが訪れたのは、それからさらに3年後。1477年になってからであった。
 この年、大内政弘ら、最後まで京に残って争っていた大名連中が、本国へと撤収。なんとか、京の都は、戦争状態から抜け出すことができたのである。
 しかし、決して、元通りの京都が、帰ってきたわけではない。
 都はすでに、かなりの部分が焦土となってしまっており、焼け残った部分も、すっかり荒廃し切ってしまっているのである。

 乱に勝利したのが、東軍と西軍、どちらなのかは、結局、よく分からない感じであった。
 将軍になったのは義尚なわけであるから、戦いの目標を達成したのは、東軍。しかしながら、実際にはそんな目標には、誰も興味なし。事実、目標達成後も、争いは続いたわけだし。そもそも、当初の東軍は、全く逆の目標を掲げてたわけだし。
 グダグダな争いが、11年間もグダグダと続いた果てに、自然消滅。勝敗決まらずの引き分けというか、両方とも負けというか。そんな感じで終わった、どうしようもない、首都決戦であった。

 この戦乱によって痛めつけられたのは、京都だけではなかった。日本そのものが受けたダメージも、あまりにも深刻であった。
 国の中枢部が、11年間もの長きに渡り、戦闘や放火や略奪や強姦の舞台となってしまったのだ。おかげさまで、首都機能は、すっかり麻痺。中央政府としての幕府は、機能を停止。11年間もの長きに渡り、国家は、国家としての働きを失ってしまうことになる。
 こうなれば、地方は、地方だけの力で、やっていかざるを得ない。
 京都で争っているのが、京都の人たちだけであったなら、それでもなんとかなったかもしれない。地方の人たちは、地方の人たち同士で助け合い、中央の嵐が治まるのを、仲良く待つということも、できたかもしれない。
 しかし、残念ながらこの乱は、そんなことを許してくれるような、生やさしい乱ではなかった。
 確かに、戦場こそ京都であったが、東軍と西軍に分かれ、実際にその地で戦っていたのは、他でもない、日本各地から集まった、守護大名たちなのである。つまり、戦場とはなっていない、京都以外の日本各地も、東西二派に分かれ、感じの悪い空気を漂わせていたということなのだ。
 こんな状況下で、中央政府がダメになってしまったのである。当然、各大名の領国で、お留守番をしている人たちは、近隣にある敵軍派の国と、めんどくさい揉め事を起こしてしまったり、軍事的衝突をしてしまったりする。
 生前の細川勝元が、西軍陣営を撹乱するために、意図的に、乱を、西軍諸大名の領国にまでに広げようとしていたせいもあり、戦火は次第に、京都以外にも飛び火していくことになる。

 それだけではない。各大名の領国内だって、必ずしも一枚岩でいられるとは限らなかったのだ。
 だって、こんな時に、リーダーシップを発揮し、領国の平和を守り、部下たちの利害関係を調整するべき守護大名が、多くの場合、京都に戦争しに行っちゃってるのである。
 これではもう、どうしようもない。自分の面倒は、自分で見るしかないし、自分の願いは、自分で叶えるしかない。
 ある者は、自分の家族や家来や、領地・領民を守るために。ある者は、自らの野心のために。全国にて、数多くのお留守番野郎どもが、独立独歩の動きを見せ始めてしまうのである。

 応仁の乱が終わったころには、もはや日本は、すっかり空中分解。東軍派も西軍派も関係ないくらいに、バラバラに分裂してしまっていた。
 巨大なパワーが京都に集まり、日本を粉々にしてしまったのである。
 再びこの国を一つにまとめるためには、同じような、巨大なパワーが必要だ。
 しかし、幕府が死に体となり、細川勝元も、山名宗全もこの世を去ってしまった今、そんなパワーを持った人間は、日本には、いないのだ。
 戦国時代は、どんどん、拡大し、加速していくことになる。

 さて。そんな、激動の日本列島なんて、全然お構いなし。お気楽なご隠居の身となっている義政は、1482年、芸術家人生の集大成ともいうべき、一大プロジェクトを始動させる。
 自ら指揮を執り、京都の郊外に、新たな自邸の造営を始めたのだ。自身の芸術的才能の粋を集めた、終の住処。東山山荘と呼ばれることになる、大規模な邸宅である。
 このプロジェクトの推進には、当然、結構な額のお金が、必要になってくる。
 しかし、応仁の乱以降の、疲弊のドン底にある幕府には、そんなもんのために使える余分な資金なんて、ありやしない。というか、仮にあったとしても、すでに将軍ではない義政には、それを自由に使うことなんて、できやしない。義政個人が持っている財産だって、たかが知れてる。
 そこで義政は、京都の一般庶民からお金を徴収し、それを、邸宅の造営費用に充てることにした。そして、ついでに、邸宅の造営工事そのものも、京都の一般庶民を作業員として使い、やらせることにした。
 いくらドン底幕府だといったって、さすがに前将軍ともなれば、近所の人たちからお金を巻き上げたり、その人たちをコキ使ったりすることぐらいは、朝飯前なのだ。住んでる町をボロボロにされた上に、こんな仕打ちを受けた京都の一般庶民にしてみれば、泣きっ面に蜂以外の何者でもないが。
 ちなみに、義政の妻である富子は、いろいろと金儲けを頑張ってきたおかげで、このころには、巨万の富を築き上げていたが、今回の、夫の邸宅造営に際しては、一切、資金援助をしてくれなかった。当たり前だ。

 翌1483年、義政は、早くも、東山山荘に引っ越しをする。
 やはり、ボロボロの庶民から巻き上げた金ぐらいでは不十分だったのか、慢性的な資金不足により、工事がなかなか進まず、まだまだ、山荘は完成には至っていなかったが、それでも、彼は転居した。ワクワクしすぎて、待ち切れなかったのだろう。
 新しい住居で彼は、工事の陣頭指揮を執りつつ、芸術に身を委ねた風流極まる生活をして、楽しく過ごす。

 1489年。まだ、東山山荘は、完全体にはならない。
 この年、義政は、山荘の敷地内に、ある建物を建てる。
 京都市中にある立派なお寺・金閣寺こと鹿苑寺。その境内にある、義満おじいちゃんが建てた建物・舎利殿。通称、金閣。
 この金閣の姿形を模した、観音殿という名の建物を、建てたのだ。後世、「銀閣」と呼ばれることになる建築物である。
 元ネタとなった金閣には、金箔が貼られているが、義政が造った銀閣には、銀箔は貼られていない。
 後世の人々から、「当初は銀箔を貼る予定だったが、予算不足のため、貼ることができなかった」なんて、まことしやかに語られてしまったりもしているが、その話もウソっぱち。銀閣には、初めから、銀を貼る予定なんてなかったと思われる。
 「銀閣」などというニックネームを付けられてしまったばっかりに、みんなから誤解をされてしまっているだけなのである。
 そもそも、銀なんかを貼ってしまえば、銀閣は、完全に金閣の劣化コピーになってしまう。銀閣の持つ、優れた芸術性が、台無しになってしまうのだ。

 銀閣の特長は、なんといっても、その渋さにある。
 質素な外観と内装の中に、「侘び・寂び」の精神が、凝縮されている。日本的な美しさの真髄が、そこにはあるのだ。
 いや。実のところ、銀閣だけではない。
 その他の建造物も、庭園も。東山山荘は、その全体が、純和風の渋すぎる美しさに、彩られているのである。
 これらは、決して、義政が、日本的な美の姿を追いかけた結果、生まれたものではない。実態は、逆なのだ。義政が示した芸術的な方向性こそが、後世における、日本的な美しさのスタンダードとなったのである。
 金閣は、確かに豪華絢爛である。しかしあれは、残念ながら、キンキラキンの一発屋にすぎない。銀閣の、恐るべき影響力と、ギンギラギンにさりげない佇まいの前には、霞んでしまうのだ。
 本業の政治のほうでは、祖父の足元にも及ばなかった義政だが、芸術面では、明らかに、祖父を凌駕していた。
 ある意味では、間違いなく、日本を粉微塵に破壊してしまったこの男。別の意味では、間違いなく、日本を創り上げた男であったのだ。

 同年、義政の息子であり、現将軍である義尚が、若くしてこの世を去ってしまう。
 これを受け義政は、なぜか、「ここは俺が政務に復帰するしかない」と、突然、いまさらすぎるやる気を見せ始め、再び将軍の座に返り咲くことを決意する。
 しかし、この決断は、妻・富子によって、一瞬にして却下。義政は、あっけなく引き下がり、また、東山山荘に籠る暮らしに戻る。
 その後、義尚の次の将軍には、足利義視の息子である、足利義材が内定する。

 こんな人でも、やはり、実子の死は、結構ショックだったのだろうか。義尚の死後、義政は、みるみる体調を崩してしまう。
 そして、義尚の死の翌年である、1490年。後を追うようにして、義政もまた、死去する。死因は、中風であったという。
 晩年の全てを捧げた東山山荘の完成を、とうとう彼は、見ることができなかった。まあ、もうほとんど、完成していたようなものではあったのだけれど。
 主を失った東山山荘は、その後、慈照寺という名の寺となり、末永く、京都の町に残り続けることになる。後の世において、「銀閣寺」と称されることになる寺である。

 義政が、その死に臨んで詠んだ辞世は、
「何事も夢幻と思い知る身には憂いも喜びもなし」
 というものであった。
 なんとも虚無的で、無常観あふれる歌である。
 彼は、ずいぶんと、好き勝手に生きてきたはずだ。自分の役割を放り出し、居心地のいい世界へ逃げた。
 確かに、待ち望んでいた東山山荘の完成は見ることができなかったし、最後は息子にも先立たれてしまった。
 だが、それを差し引いても、彼の人生は、十分充実していたように思える。
 それなのに、この辞世である。
 享楽に溺れ、快楽に生きた義政の、その心の奥の奥は、祖父・義満に憧れ、為政者として腕を振るうことを夢見た、少年のころのままだったのかもしれない。


(おしまい)



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