1467年。またまた、山名宗全に押し切られた義政公。今度は、畠山家当主・畠山政長をクビにし、代わりに、かつて自分でクビにした、政長のライバル・畠山義就を、当主の座に戻すことにした。例によって、義就は、宗全の仲良しさんである。
ところが、今回は、義政の手抜き人事の通りには、話は進まなかった。
なんと、細川勝元を後ろ盾とする政長が、宿敵・義就を前に、黙って引き下がることを潔しとせず、義就に対し、兵を挙げやがったのである。
義政が、テキトーなことばっかりやってきたせいで、将軍様の権威は、これ以上落ちようがないレベルにまで下落。とうとう、家来が公然と、決定に背き始めてしまったのだ。
畠山家中の、この由々しき事態に、さすがの義政も、少しはヤバさを感じたのか、山名宗全・細川勝元等の大名たちに対し、一応、言ってみた。
「このケンカは、あくまでも、畠山家内部のケンカだからね。他のみんなは、参加しちゃだめだよ」
畠山家の内紛が、幕府全体を巻き込むものに拡大することを懸念して、言ってみたのであろう。畠山家の内紛そのものは止めようとしない辺りが、いかにも義政らしい。
この、義政のお願いを、勝元は、どうにか聞き入れてくれた。しかし、宗全は、無視した。宗全の奴め、仲間である斯波義廉らと一緒に、畠山義就に加勢したのである。
戦闘は、京・上御霊社で行われた。
宗全らの力を得た義就に、政長はとてもかなわず、敗走した。
義就の勝利により、畠山家の内紛は収まり、問題は沈静化したかに見えた。
しかし、それは大きな間違い。
実は、この、御霊合戦こそが、幕府を真っ二つに割る内乱・応仁の乱の、幕開けを告げる戦いだったのである。
以降150年に渡って続く、戦国時代が、ここに始まってしまったのだ。
勝利の美酒に酔いしれ、京の中心で、笑顔でVサインをキメる、山名宗全。
しかし、対する細川勝元も、このままフェードアウトはしていかない。油断している宗全に、逆襲の顔面パンチを浴びせるため、密かに準備を始める。
摂津・丹波・讃岐・土佐・和泉・備中・阿波・淡路・三河。細川家の領地9ヶ国から兵を動員。さらに、自分と仲の良い、各地の大名たちにも声をかける。そしてそれらの兵を、京の都に集結させたのだ。
総大将はもちろん、細川勝元。従うは、畠山政長・斯波義敏など、多くの大名たち。総勢16万といわれる、大軍であった。
都に、これだけの軍勢を集めるからには、当然、かなりヘビーな大義名分が必要になってくる。
勝元が掲げた、その大義名分は、「正当な次期将軍である足利義視公の、その立場を脅かす、悪しき逆賊どもを討伐する」というものであった。
自分が面倒を見ている、義政の弟を旗印として利用し、義政の息子を担ぐ山名宗全を、幕府に対する反逆者として滅ぼしてしまおう、という魂胆である。
山名宗全のほうも、敵の集結を、ただ、指をくわえて見てはいない。細川勝元には一歩出遅れたが、こちらも、人数を揃える。
山名家の領地である、但馬・播磨・備後・伯耆・備前・因幡・美作・石見、計8ヶ国の兵と、各地のお友達大名の兵を、京都にかき集めたのだ。
山名宗全を総大将に、畠山義就・斯波義廉などが続き、総勢は、11万といわれる。やはり、大軍である。
こちらの陣営が掲げた大義名分は、当然の成り行きといえば、当然の成り行き。細川陣営とは、まったく正反対の、「正当な次期将軍である義尚お坊ちゃんの、その立場を脅かす、悪しき逆賊どもを討伐する」というものであった。
名目上は、完全に、将軍の後継者争い。見事なまでに、義政の優柔不断が、元凶となっている。
細川勝元率いる「東軍」と、山名宗全率いる「西軍」は、京都を舞台に、大激突した。応仁の乱、本格的に、スタートである。
大激突が始まったばかりのころ。義政は、
「ケンカはやめてね。両チームとも、仲直りして」
なんて、この期に及んで言ってみたりもしたが、もう、こんな人の言うことを聞いてくれる人なんて、いるはずもない。
この結果を受けて義政は、すぐに方針転換。東軍陣営を支持することを表明した。西軍ではなく東軍を選んだことには、特に深い意味はないと思われる。たぶん、頑張って中立を保つことに、めんどくささを感じ、どっちでもいいから一方に付くことにしたのだろう。
なお、この、義政の意思表示は、乱の大勢には、ほとんど影響を与えなかった。有名無実。天下の将軍様なのに、とことんまで、無視されっぱなしである。
大軍同士の戦場と化した、日本の政治と文化の中心・京の都。戦火に包まれ、結構な広範囲が、焼け野原となってしまう。京都に暮らす、お気の毒な人々は、逃げ惑って大混乱である。
やはり、先に、大軍と大義名分を揃えたのが良かったのか、戦いは当初、若干、東軍優勢で進んだ。
しかし、やがて、山名宗全のお仲間である、周防・長門・豊前・筑前の守護大名、大内政弘が、軍勢を率い、遅ればせながら京都に到着。彼の力を得て、西軍は、勢力を盛り返してくる。
両軍の勢力は拮抗し、乱は、まだまだ続く。京の都を、どんどん焼き払いながら。
応仁の乱全体の中でも、最も激戦だったのが、義満おじいちゃんが建てたお寺・相国寺を舞台として行われた、相国寺の戦いであった。
今までは、戦乱に荒れる都などどこ吹く風。「どうせ僕の言うことなんて誰も聞いてくれないもんね」と、芸術を愛でたり、酒を飲んだり、女と遊んだりしていた義政だったが、今回ばかりは、無関心ではいられない。普通に考えれば、そのはずであった。
なんたって、今回戦場となった相国寺は、義政が住む花の御所に、隣接する場所にあったのだから。
ところが、そこは、我らが義政公である。一般人とは、スケールが違う。
隣の敷地から、殺し合いの声が聞こえる中、彼が何をしていたのかというと、なんと、楽しく酒を飲んでいた。宴会を、エンジョイしていた。
結局、相国寺の戦いは、東西両軍の痛み分けという形で終結。相国寺は焼け落ちてしまったが、花の御所に、被害は出なかった。その間、義政がやったことといえば、ただただ、気持ち良く酒を飲むことばかりであった。
いつもは強気な、妻・富子でさえ、この時はパニックを起こし、「逃げましょう逃げましょう」と、オロオロしていたというのに、なんともはや、この男はすげえや。
実のところ、彼には、自分の価値が、よく分かっていたようなのだ。
この乱は、あくまでも、幕府あってこその戦い。幕府という枠の中での、勢力争いに過ぎない。幕府の象徴であり、名目上のトップである将軍に攻撃を加えるということは、幕府そのものに攻撃を加えることに等しく、そんなことをすれば、戦いの意義が崩れ去ってしまう。だから、西軍さんも東軍さんも、将軍に襲いかかってくることなど、有り得ない。
そのことを、義政は、よく理解していたようなのである。
彼、頭は、決して悪くはなかったのだ。むしろ、良かったとさえいえるだろう。
そして、その頭の良さの上に堂々と腰掛け、余裕をかますだけの、肝っ玉の太さも持ち合わせていた。
悪かったのは、周囲の環境であったのか。それとも、彼自身の気質であったのか。
相国寺の戦いなどの激戦を経ても、乱の勝敗は、決まらなかった。
東西両軍ともに、ダメージだけが蓄積。さらなる損耗を恐れ、やがて両陣営は、本格的な戦闘を避けるようになってくる。
乱は、すっかり、グダグダな雰囲気である。
両軍の兵士たちは、敵とマトモに戦わない代わりに、京の町で、略奪・強姦・放火などを繰り返す。
敵軍と睨み合ってるだけでは、カッコがつかない。その一方で、敵軍と睨み合ってるだけでも、腹は減るしストレスも溜まる。もう、町でも壊して食い散らかすしかない。
おかげで京都は、さらにさらに、ズタボロである。
翌1468年、東軍の旗印であった足利義視が、一応東軍側の人間ということになっている、兄・義政と仲違いし、西軍陣営に走ってしまうという事件が起こった。
義視を保護した山名宗全は、彼を、西軍の新たな旗印とすることを決定。彼を将軍に据えることを、新たな大義名分とした。
せっかく、敵の旗印が転がり込んできてくれたのである。冷遇して、東軍に出戻りされてしまうことは、避けたいと思ったのであろう。
この結果、宙ぶらりんなポジションになってしまったのが、もともと西軍が担いでいた、義政の子・義尚である。
すかさずこれをゲットしたのが、旗印を失ってしまった、東軍の細川勝元であった。勝元は、義尚を、東軍の新たな旗印とし、彼を将軍に据えることを、新たな大義名分としたのだ。
これは、とんでもなく、クソッタレな展開である。
なにしろ、両陣営の大義名分が、そっくりそのまま、入れ替わってしまったのだから。
この乱が、醜い権力争いに過ぎず、大義名分なんて、完全な飾りに過ぎないということを、両陣営のボスは、自分たちで証明してしまったのである。
このような、グダグダでクソッタレな流れの中で、義政が何をしていたのかというと、相変わらず、酒や、女や、芸術と遊びまくっていた。
この男、優柔不断なようで、ある意味では、決してブレない、鋼の意志を持つ男なのかもしれない。
旗印がトレードされた後も、何事もなかったかのように、泥沼の戦争は、膠着状態のまま継続。
特に進展もなく、グダグダと時は流れ、1473年。
西軍の総大将である山名宗全が、大乱に決着を着けられないまま、ポックリとあの世へ行ってしまった。あらら。
これで、勢いは東軍に傾くかと思いきや、実際には、そうも行かなかった。
なんと、東軍の総大将である細川勝元も、宿敵の後を追うようにして、あっさり他界してしまったのである。
こうして、乱の両主催者が、相次いで死去してしまったわけだが、乱そのものは、まだ収まることはなかった。
京都では、ものすごい大軍が、戦闘行為や破壊活動を行っているのである。言い換えればそこでは、ものすごいエネルギーが、動いているのだ。このエネルギーが生み出した流れは、そう簡単には、止まらない。惰性に従って、行く所まで行くしかないのである。
同年、義政は、息子である義尚に、将軍職を譲り渡す。
宗全と勝元は死んでしまったし、他のみんなは、泥沼の中で、目的不明のバトルに追われている。
今なら、ドサクサにまぎれ、誰にも文句を言われずに、将軍職からおサラバできると思ったのだろう。
後継者に指名したのが、義視ではなく義尚だったのは、単純に、義政が、一応東軍サイドの人間ということになっているためだと思われる。
義政さん的には、自分が将軍さえ辞められれば、後釜は誰でもいいのである。
なお、この、新将軍誕生を受けても、乱が収束することはなかった。
表向きは、新将軍を決めるための、争いであったはずなのに、である。
大義名分が消滅しても、惰性のパワーは、消滅しやしないのだ。
というか、そもそも、誰が新将軍になるかなんて、ホントはみんな、最初から、どうでも良かったんだよ。
翌1474年、義政は、妻子と同居していた花の御所を離れ、一人、近所にある、小川御所という所に引っ越しをする。
もともと、妻の富子とも、息子の義尚とも、あまり仲がよろしくなかった彼。いよいよ、家族仲がマズいことになってきて、とうとう、別居せざるを得ない状況になってしまったらしい。
なんとも、みっともない前将軍である。
まあ、こんな人が、家族から好かれているはずもないので、「家族仲が悪かった」というところまでは、非常に納得が行くが。
同年、ついに、東西両陣営の間に、和議が結ばれる。
一応、東軍の新総大将ということになっている、細川政元(細川勝元の子)と、同じく西軍の新総大将ということになっている、山名政豊(山名宗全の孫)が、「仲直りしましょう」と、歩み寄ったのだ。
しかし、それでもやっぱり、乱は収まらなかった。せいぜい、ちょっとだけ、惰性の勢いが、緩くなったくらい。
細川家や山名家の力など、すでに、惰性さんの強大なパワーの前では、ほぼ無力に等しくなっていたのである。
(つづく)
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