室町幕府第8代将軍。
6代将軍・足利義教の子。室町幕府の全盛期を築いた3代将軍・足利義満は、祖父に当たる。
幼名は三春。
混乱する世情を顧みず、政務を放棄。芸術にばかり熱中してしまった、国のトップとしては非常に問題のある人物。
日本を戦国時代に追い込んだ、最大の責任者とされることが多い。
彼の父・足利義教は、超絶ワンマン将軍であった。
権力を、どこまでも自分の手に集中させるため、目障りな奴は徹底排除。協調性のカケラも見せず、いろいろと、苛烈なことをやりまくった。
そのため、家来の皆さんからは、恐れられ、嫌われていた。
1441年、とうとう義教は、今までの横暴のツケを、一括払いさせられることになった。
播磨・備前・美作の守護大名、赤松満祐の屋敷で催された、宴。その真っ最中に、ホスト役であるはずの満祐によって、ブッ殺されてしまったのだ。
仕切り屋の独裁ボスが、後継者も指名せずに、唐突に人生を終了。幕府は、パニック状態に陥った。
この混乱を収めるため、管領・細川持之ら、残された幕臣たちは、まずは頑張って話し合い、義教の嫡男で、まだ8歳の千也茶丸を、次の将軍に立てることを決定。
こうして幕府としての体裁を整えたら、続いてやるべきは、謀反人の、赤松満祐討伐。山名持豊らによる幕府軍が編成され、赤松家を、本拠地である播磨に攻め滅ぼした。
足利義教の暗殺から、赤松満祐が討たれるまでの、これら一連の騒動を、「嘉吉の乱」という。
残された幕臣たちが、嘉吉の乱を収拾し、晴れて迎えた、翌1442年。千也茶丸は元服し、足利義勝と名乗る。そして正式に、第7代将軍に就任する。
この、新将軍・義勝は、元服したとはいえ、実際にはまだまだお子ちゃま。当然、自力で政治はできないため、管領以下の家来衆が、引き続き、幕府を引っぱっていくことになる。
先代将軍の時に力を押さえつけられていた、その反動もあったのだろう。ここいらで急に、幕府内では、幕臣たちが大きな顔をし始める。先代将軍のカタキを討ったのだって、今の将軍じゃない。残された幕臣ズだもんね。
1443年、なんと今度は、将軍になったばかりの義勝が、ポックリとあの世へ行ってしまう。落馬事故が原因だといわれる。
この事態に、残され幕臣ズは、再び話し合う。そうして、義勝の弟である三春を、次期将軍とすることを、決定する。
本稿の主役、ようやっと、名前が出てきました。
1449年、三春は元服。足利義成と名乗り、正式に、第8代将軍に就任した。
義勝兄ちゃんの死から、実に、6年もの歳月が流れている。この6年間ずっと、将軍の席は、空席。名実ともに、幕府は、幕臣たちのものとなっていたというわけだ。ずいぶんと、ナメたことをしてくれたもんである。
将軍となった当初の義成は、実はかなり、政治に対してやる気を見せていたらしい。
――もう一度、室町幕府の黄金時代を築くぞ。僕も、尊敬する義満おじいちゃんみたいになるんだ!
そんな熱い思いを胸に、政務に腕を、振るいまくろうとしていたようなのだ。
しかし、周囲の状況が、それを許してはくれなかった。
将軍の立場は、前将軍・義勝のころ以上に、弱くなっていたのだ。
側近である伊勢貞親や、乳母である今参局が、やたらと、政治に口を出してくる。それ以外のいろんな連中も、いろんなことを言ってくる。無力な将軍には、こういった奴らの意見を、無視することができない。義成の思い通りの政治なんて、全然、できやしない。
義成は、次第に、当初のやる気を失っていってしまう。
1453年、義成は、「義政」と、名を改める。
「義成」という名前に使われている、「義」と「成」の字には、共に、「戈」という、ウエポンな字が隠れている。1つならともかく、合計で2つも隠れているのだ。これを、「戦争を連想させ、物騒だ。なんか血生臭い」と考え、改名することにしたのだという。
天下泰平、天下泰平。お願いだから、みんな仲良くしてね。将軍様の言うこと聞いて。
翌1454年、前々から幕府との折り合いが悪かった、鎌倉公方・足利成氏が、反乱を起こした。
関東地方を舞台に、以降約30年に渡って続く、享徳の乱の始まりである。
戦を嫌い、改名までした義政の気持ちは、見事にあっさり、裏切られたわけだ。上手くいかないもんだ。
1455年、義政は、日野家の娘である、富子と結婚する。
日野家は、たびたび、足利将軍の妻を輩出する家柄。義勝や義政の母も、日野家の女だし、義満おじいちゃんの奥さんだって、日野家の女なのだ。
せっかくの、この結婚であったが、残念ながら、義政を幸せにはしてくれなかった。
富子さんもまた、将軍の奥様であるのをいいことに、やたらと、政治に口を挟むようになってきてしまうのだ。富子の実家の日野家も、政治に強く介入してくるようになる。義政は、ますます、政治に嫌気が差してくる。
政治家なのに、政治が大嫌いになってしまった義政。そんな彼の、心の隙間を埋めてくれたのが、芸術であった。
建築や、庭造り、歌作りに、お茶など。ありとあらゆる美の世界が、彼を惹きつけ、飲み込んでいった。義政公は、芸術面に関してだけは、かなりの才能があったのだ。そのことが、本業を忘れ、風流な趣味に没頭する彼の背中を、力強く押した。
義満おじいちゃんのころとは、時代が違う。おじいちゃんのような政治的才能も、僕にはない。
将軍の権力回復のためガムシャラになれば、義教パパみたいに、殺されちゃうかもしれない。
武家の棟梁らしくスポーツに励んだって、義勝お兄ちゃんみたいに、馬から落っこって死んじゃうかも。
やっぱ、アートだよ。僕が求めていたのは、僕を求めているのは、この、芸術の世界だ!
1458年、幕府公認の新たな鎌倉公方として、義政の弟である政知が、鎌倉へと派遣される。裏切り者の足利成氏をやっつけるために、送り込まれたのである。
しかし、成氏の力は思いのほか強く、もはや関東は、幕府がどうにかできる場所ではなくなっていた。政知さんは、残念なことに、鎌倉に入ることすらできなかったのだ。
将軍の力が、みるみる弱まっているうちに、幕府それ自体の力も、ずいぶんと弱くなっていた、というわけだ。本当に、上手くいかない。
1459年、越前・尾張・遠江の守護大名である斯波義敏が、ふざけた行いをした。
幕府から、足利成氏討伐の命を受け、兵を集めていたというのに、その、集まった兵を、私闘に使ってしまったのだ。
すっかり、マトモに仕事をしなくなっていた義政だったが、珍しく、これには怒り、積極的に動いた。義敏をクビにし、代わりに、その息子である松王丸を、斯波家の当主に据えた。
やる時はやるんだな、義政。まあ、この時は、誰も義敏の擁護をする者がいなかったがために、義政の思い通りになっただけかもしれないが。
河内・紀伊・越中の守護大名である、畠山義就。
1460年、今度は義政公、その義就を、突然クビにし、追放した。そして代わりに、義就の従兄弟であり、家督を争ったライバルでもある畠山政長を、新しい畠山家当主とした。
別に何か、義就が悪さをしたからではない。政長と仲良しの、管領・細川勝元(持之の子)が、そういう人事をするようにと、義政に圧力をかけてきたためである。
翌1461年には、こないだ斯波家当主に据えたばっかりの斯波松王丸を、クビ。松王丸の親戚である斯波義廉を、新当主とした。
やっぱりこの時も、松王丸は悪さをしていない。義廉と仲良しである、山名宗全(持豊の出家後の名前)の、圧力があったのである。
部下の言いなりになって、投げやりな人事。なんとも情けないが、これが、いつもの義政なのだ。
斯波家や畠山家が、家督問題でゴタゴタしていた、この3年ほどの間。もっと広い世界では、もっともっと大変なことが起こっていた。
日本全土で、深刻な飢饉が発生していたのだ。
特に、畿内の被害は、凄まじかった。その凄まじさは、京都だけで8万2000人もの餓死者が出たといわれるほどの、凄まじいまでの凄まじさであった。
おお。これは凄まじい。
こんな凄まじい事態を前に、義政公が何をしていたのかというと、ひたすら、自分の住居である、花の御所の改築をしていた。
食うのに困っている人々なんて、どうせ僕には助けられない。見えないし、見たくもない。それよりも、美の追求。芸術。御所を美しくするほうが、大事ってもんですよ。
いやはや。こっちはこっちで、違った意味で凄まじい。
目を閉じ耳を塞ぎ、大飢饉を優雅にやり過ごした義政。その、政治大嫌いマインドは、いよいよ一線を越えてしまった。
将軍を、辞めることに決めたのである。
本来ならばこういう場合、自分の息子に跡を継がせるのが、筋というものだ。しかし義政には、肝心の息子がいない。そこで彼は、弟である、義尋を頼ることにした。
出家し、お寺で坊さんをやっている義尋に、「僕の代わりに将軍になってくれよ」と、お願いをしたのである。
義尋は、特に将軍職には興味がなかったようで、
「兄さんはまだ若いんだし、これから男の子が生まれるかもしれないよ」
と、当初はこのお願いを、丁重にお断りしたが、
「もし、これから僕に男の子ができても、その子は寺に入れて、お坊さんにする。その子を将軍にしようなんて、絶対に考えない。僕が将軍職を譲るのは、義尋だけ。約束するよ。指きりしてもいい」
と、なおも食い下がる兄の姿に、ついには折れた。
義政は、弟と、固く指きりゲンマン。こうして義尋は、還俗。足利義視と名乗り、次期将軍の座を約束された地位となった。義政は、後継者たる弟に、後見人として、細川勝元を付けてあげた。1464年のことであった。
これで義政公、ひと安心。もうじき、将軍職を弟にバトンタッチ。残りの人生は、芸術と遊んで暮らすのだ。
翌1465年、義政と、妻・富子との間に、男児・義尚が誕生した。
すると、途端に微妙になったのが、義視の立場だ。
我が子が可愛くて仕方ない富子さんが、夫のした指きりを無視。息子を新将軍に据えようと、動き始めたのである。細川勝元と仲の悪い、山名宗全を味方に付けて。
しかし、本当ならば、こんなことで、義視の次期将軍の座が揺らぐはずがないのだ。
なんたって、今現在の将軍である義政が、「たとえ自分に息子が生まれても、義視に将軍職を譲る」と、彼の立場を保障していたはずなのだから。
確かに、そう。していたはず。していたはずなのだが、困ったことに義政さん、なかなかホットな性格の富子の、その尻の下に完全に敷かれており、彼女に文句を言うことが、全然できなかったのである。ああ、みっともなや。
弟には、「必ずお前に将軍職を譲る」と約束してしまったし、後見人に細川勝元まで付けてしまった。もう、この流れは止められない。
かといって、嫁の富子は怖い。とっても逆らえない。こっちのバックには、山名宗全が付いている。
どうしようどうしよう。どっちを後継者に指名しよう。悩みに悩んだ末、義政が下した決断は、おおよそ決断とは呼べない、どうしようもない決断であった。
とりあえず、将軍を辞めないでおくことにしたのである。
考えてみれば、自分が将軍でいる限りは、後継者を決定する義務はないのだ。判断なんて、先送りにすればいいや。勝元と宗全という、幕府の二大横綱が、なにやら睨み合い、今にも取っ組み合いを始めそうだが、これは見なかったことにしておこう。
こうして義政は、ズルズルと、将軍のイスに座り続ける。
1466年、義政は、側近・伊勢貞親の意見をハイハイと聞き入れ、以前にクビにした斯波義敏を、再び、斯波家の当主とした。今まで斯波家当主だった義廉は、義敏と入れ替わり。特に落ち度もないのに、クビである。
この人事に、義廉の強力なバックである、山名宗全が怒った。おお、これは怖い。というわけで義政は、同年のうちに、義廉を斯波家当主に据え直した。せっかく当主に復帰した義敏は、何もしないうちに、またもやクビになってしまった。
本当に、いい加減。その場のことしか考えない、クソ人事ばかりである。
(つづく)
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