戦国人物伝


武田 元明
(たけだ もとあき)

1552年〜1582年

異名:――――

 若狭の守護大名。若狭武田家の当主。後瀬山城主。石山城主。
 名は元次とも。幼名は孫犬丸。通称は孫八郎。
 妻は京極竜子。
 不遇に沈む日々を過ごした、若狭の名家の若き継承者。事変に乗じて立ち上がり、名門の意地を見せた。

 若狭の守護大名・若狭武田家の御曹司である武田義統の子として、1552年に生まれたという。
 応仁の乱において東軍の副将を務めた、かつての若狭武田家当主・武田信賢。その弟である、国信。元明は、血筋としてはこの武田国信の直系子孫にあたる。
 元明が生まれたころの若狭武田家は、なんとか若狭一国こそ保持しているものの、往年の力をだいぶ失い、ヘナヘナに弱体化していた。若狭の南方にある京都を中心とした戦乱に、ここ何十年も巻き込まれ続け、揉まれて揉まれて、領内の統治すら怪しい状況になっていた。だいぶ昔、武田信賢が当主だったころには、文化人たちと華やかに交流したり、独自に海外貿易をしたり、景気が良かったんだけどねえ。

 元明の祖父である、武田信豊。
 1556年、時の若狭武田家当主であった信豊と、元明の父・義統とが、抗争を始める。実の親子でありながら、ずっと不仲だったという二人。とうとう軍事的衝突を始めてしまったのだ。
 若狭武田家そのものの存在が揺らいでいる状況だというのに、いったいこの人たちは、何をやっているのだ?

 1558年のことだという。祖父・信豊と、父・義統が、ようやく和解をした。
 信豊は、義統に家督を譲り、引退。義統の勝利ということで、内乱に決着がついたのである。
 若狭武田家そのものの存在が揺らいでいる状況だというのに、いったいこの人たちは、何をやっていたのだ?

 若狭国の東部にある、国吉城。若狭の東隣・越前国との国境線に近い城だ。
 1561年、そんな国吉城の城主である、若狭武田家重臣・粟屋勝久が、謀反を起こす。ヘナヘナに弱体化した家で、何年も親子喧嘩を続けたりするもんだから、家来が叛いてしまうのだろう。
 この事態に武田義統は、隣国・越前の戦国大名である、朝倉義景に哀願をする。頭を下げて、援軍のお願いをする。すでに若狭武田家には、家臣の反乱を独力で鎮めるだけの力も残されてはいなかったのである。
 朝倉義景は、叔父である朝倉景紀を総大将とする1万1000もの軍勢を若狭に派遣。この援軍のおかげで、粟屋勝久の反乱は鎮火。とりあえず、若狭武田家は救われた。朝倉家に、かなり大きな借りができてしまったわけではあるが。
 ちなみに、主家に反逆した粟屋勝久は、乱の終了後、何事も無かったかのように、元通りの若狭武田家重臣という立場に戻っている。もはや若狭武田家には、謀反を起こした家臣を処断することすらできない、ということだ。

 そんな様子の若狭武田家で、1563年、またもや親子喧嘩が勃発する。今度は、当主である義統と、それに反発する息子の元明とが、抗争を始めたのだ。元明は、若狭武田家の重臣である、例の粟屋勝久と手を結び、その支援をバッチリと受けて、この親子喧嘩に臨んでいる。
 若狭武田家そのものの存在が揺らいでいる状況だというのに、いったいこの人たちは、何をやっているのだ? …と、武田父子にツッコみたくなってしまうが、少なくとも元明については、責めてやるのは酷であろう。このころ元明は、まだ12歳。実際のところ、主体的に行動し、兵力をかき集めて親と抗争する可能性は、かなり低いだろう。
 たぶん、この内乱の黒幕は、粟屋勝久。実質的には、彼による反乱。大義名分を得るため、まだ少年である元明をお神輿として担いだのであろう。元明の、父に対する反抗心に寄り添うという体裁で、これを利用したというわけだ。

 1566年。困ったことに、まだまだ若狭武田家の内乱は継続中。この年、先代の征夷大将軍・足利義輝の弟である足利義秋が、若狭武田家を頼り、若狭国にやってくる。
 次期将軍の座に就くことを望む義秋は、自分を支援し上洛させ将軍職に押し上げてくれる強力なパトロンを求め、流浪中の身。名門である若狭武田家に期待して、若狭に来たのであった。
 実は義秋の姉は、若狭武田家当主・武田義統の妻。義統は彼にとって姉婿であり、元明は甥なのだ。そんな関係性にも希望を抱き、彼は、若狭武田家の玄関のドアを、トントンとノックしたのであろう。
 しかし、義秋の若狭武田家滞在期間は、ごくごく短かった。ヘナヘナな状態で、かつ当主親子の抗争が続くこの家に、上洛作戦なんて到底無理。すぐに気づいた義秋は、若狭武田家を見限り、隣国・越前の朝倉義景を頼って、若狭を立ち去ってしまった。あららー。

 1567年、若狭武田家の当主であり、元明の父である武田義統が、病によって死去した。結局この父子は、和解できないままであった。
 義統の他界により、自動的に内乱は終了。一応、元明陣営の勝利みたいな感じで決着。元明が、若狭武田家の新たな当主となった。
 時に元明は、16歳。ヘナヘナになった家で何年も内部抗争が続いた末に、鮮やかに勝ちを掴んだわけでもない若造が家督を継承。もはやこの家は、ヘナヘナの極み。風前の灯火である。元明を擁立する粟屋勝久の後ろ盾こそあるが、そんな程度では、もうどうにもならない。

 そうして迎えた1568年、その時はやってくる。朝倉義景の命を受けた朝倉景紀の軍勢が、東の越前より若狭に侵入してきたのだ。
 友好国から友好的に訪れたという建前で、どんどん進軍する朝倉景紀。弱体化が著しく、朝倉家に大きな借りもある若狭武田家は、朝倉勢に対し手も足も出せない。朝倉勢は、たやすく若狭武田家の中枢にまで到達する。
 当時の若狭武田家の本拠地は、若狭国の中部にある、後瀬山城。元明の曾祖父・武田元光以来の、若狭武田家の本城である。
 そんな後瀬山城に、強権的な姿で現れた朝倉景紀は、城主である元明を連れ出し、なんとそのまま、「保護する」という名目でもって、拉致。越前へと連れ去ってしまった。

 こうして元明の身柄を得た朝倉義景は、自身の居城である、越前は一乗谷城の一角に彼を軟禁。以降、若狭国守護・武田元明の名義を使い、朝倉家が若狭国を間接的に支配することになる。
 若狭武田家は、朝倉家に隷属。若狭は事実上、朝倉家に乗っ取られてしまったというわけだ。
 とはいえ、こんな強引なやり方で国を飲み込もうとした朝倉義景に対する、若狭国内の反発は強く、若狭武田家臣団は、あんまり義景の言うことを聞かなかったみたいなんだけどね。
 元明にとってもまた、この状況はおもしろいわけがない。彼は、自分こそが、独力で若狭を治めるべき国主であると信じているはずだ。実力は、無いんだけどな。

 すでに京都を勢力下に置いている、時代の寵児たる実力派の戦国大名・織田信長。若狭武田家を見限った足利義昭(改名した足利義秋)が、上洛のためのパトロンとして最終的に選んだ男だ。
 まだまだ元明が囚われ中の、1570年。その信長の力が、ついに若狭国にまで及んでくる。
 粟屋勝久、それから、その他の若狭武田家臣の多くは、このタイミングで信長に臣従。実質的に若狭国は、ここで織田家に取り込まれたような感じである。

 1573年、未だに元明は、軟禁状態継続中。この年織田信長が、以前から敵対関係にあった朝倉家を滅ぼすため、越前に侵攻。猛攻撃をかける。粟屋勝久ら、信長に従う若狭の武将たちも、これに加わる。
 朝倉家の本拠・一乗谷城にまで辿り着いた織田勢は、攻城戦を開始。この時、真っ先に城中に斬り込んでいったのは、粟屋勝久が率いる部隊であったとされる。
 城内に突入した勝久は、囚われの身となっていた元明を発見し、見事に救い出したのだという。
 なんだかちょっと、意外である。粟屋勝久という男、武家社会の倫理や仁義なんぞどこ吹く風の、いかにも利己的な人物っぽかったのに……。
 信長という強大な新主君に仕える今、無力な旧主君なんて、勝久にはもはや何の利用価値もないのだ。それなのに、そんな元明を、命がけで救出するだなんて。いつか自分が担ぎ上げた、かつての若君に、いつの間にやら、情や自責の念を抱くようになっていたのであろうか。

 一乗谷城は落ち、朝倉義景は死に、朝倉家は滅亡した。
 一乗谷城一番乗りの手柄を立てた粟屋勝久は、戦後、信長に直訴をした。
 旧主・武田元明を許し、織田政権下で、再び若狭の国主としてほしい、と、嘆願したのである。
 しかし信長は、承諾しない。信長からすれば元明なんて、何の実績も実力も無いばかりか、いろいろ事情があったとはいえ、一乗谷城で朝倉家に協力していた不届きな野郎なのである。若狭の国主になんか、するわけない。
 嘆願のおかげか、信長は、元明を処罰することこそなかったが、それだけ。元明は全然、相手にされなかった。

 同年、信長は、朝倉家の影響力が消滅し、完全に織田領となった若狭国を、重臣である丹羽長秀に任せることを決定。長秀は、元明の居城だった後瀬山城を拝領し、若狭一国の国主となった。といっても長秀は、若狭国の南東に隣接する近江国にある、佐和山城を本城としていたから、若狭に常駐するわけではないんだけどね。
 信長は、織田家に従う旧若狭武田家臣たちについても決定。粟屋勝久をはじめ、その多くが若狭の地に留め置かれ、そのまま丹羽長秀の与力とされた。
 元明の席は、無かった。彼は、後瀬山城の近くにある神宮寺という寺に身を寄せ、そこで静かに暮らし始める。
 若狭武田家は滅亡。当主だった元明は、今や無職の兄ちゃんである。

 寺で小さく生きていく、元明。そんな日々を送る彼の、その生活を助けたのは、粟屋勝久であったという。
 勝久は、身分を失った元明を見守り、彼が困窮しないように援助をし続けたそうなのだ。この人、途中からキャラが変わりすぎである。
 また勝久は、折を見て信長に頼み込むことも忘れなかったらしい。元明を元の地位に復帰させてほしいとのお願いを、諦めずに繰り返したのだ。何年間にもわたって。
 それでも、信長からは無視され続ける元明。名門の跡取りに生まれながら、おかしな環境に身を埋め立てられ、能力を磨くことも発揮することもできず、ここまで来た。静かに暮らす胸の内には、モヤモヤとしたモヤモヤが、モヤモヤと溜まりに溜まっていったことだろう。

 しかし1581年、ようやく潮目が変わる。
 幾年にもわたる粟屋勝久の懇願に、ついに根負けしたということだろうか。織田信長が、元明を拾い上げ、若狭国の東部・石山城の城主に取り立ててくれたのである。
 元明は、石山城主として3000石を知行され、若狭国主である丹羽長秀の与力とされる。抜擢には、違いない。
 そうはいっても、3000石。3000石である。若狭は面積の小さな国ではあるが、それでも国全体の石高は、8万5000石ある。国主には、ほど遠い扱いだ。しかも、若狭のボスの座を掠め取っていった、丹羽長秀とかいう奴の部下にされてしまっている。おもしろいわけがない。おもしろい、わけがない。
 これまで、モヤモヤと年月を過ごしてきた元明。この年彼は、30歳。気づけばそこそこ、いい歳である。信長から、こうして明確な「答え」を受け取ってしまったことで、モヤモヤとしたモヤモヤが、むしろモヤモヤと深まっていってしまったのではなかろうか。

 そして、翌1582年。大事件が起こる。
 本能寺の変。破竹の勢いで天下平定に突き進んでいた織田信長が、京都にて、重臣である明智光秀の突然の襲撃を受け、この世を去ったのだ。
 織田家は、世の中は、大混乱。その混乱に背中を押され、光秀は、ガリガリと織田家侵食を開始。
 この機に乗じて、なんと元明は、若狭にて兵を起こす。謀反を後追い。面識があったかどうかすら怪しい明智光秀に味方することを決め、立ち上がったのだ。光秀の協力を得て、いずれ若狭国主に返り咲くことを、夢見てのことだろう。
 今回の決起において、元明の後ろに、粟屋勝久の影は無い。なにしろ、この時勝久は西国へ出張中で、若狭に不在だったのである。
 もう、勝久に操られることはない。助けられることもない。巻き込んだりも、しない。これは、元明自身の確たる意思による、決断なのだ。
 しかし、なかなかに、ユニークなご判断である。本能寺の変の後、積極的に光秀に合力した織田家の武将なんて、ほとんどいないのだ。それだけ、正当性にも将来性にも乏しい謀反だと、みんなが思っていたということなのだが、元明はそれに味方してしまった。能力を磨く機会に恵まれてこなかった元明には、やはり、世の趨勢を読む力が不足していたということなのだろうか。

 ……ともかく。ともかく、だ。元明は、ブッ放す。溜まりに溜まったモヤモヤを、フラストレーションを、ここで一気に解放するのだ。
 挙兵した彼は、織田家の城を攻める。向かった先は、なぜか少し遠く。近江国・佐和山城。織田家重臣である、あのおもしろくない存在・丹羽長秀の居城だ。
 元明率いる武田勢は、佐和山城を攻撃。これを落城させる。織田四天王の一人にも数えられる丹羽長秀の城を、元明が、見事に落としたのだ。まあ、長秀本人は、兵を率いて西国に出張中のため不在で、城には少人数のお留守番の人たちしかいなかったんだけどね。
 だが、それでも。名門・若狭武田家の残り火が燃え上がり、日本を席巻した織田家に対し、全力の咆哮で一撃を打ち込んだ。そのことは、間違いのないことなのだ。

 ところが、そんな痛快な場面の直後、事態は暗転する。
 西方の備中から、主君の仇討ちのために急ぎ京都方面に飛んできた、織田家重臣・羽柴秀吉。丹羽長秀らを従えたその秀吉の軍勢が、山城国にて明智光秀と決戦。光秀を敗走させ、そのまま死に至らしめてしまったのである。
 これにて反乱は、おしまい。明智謀反劇場の唐突な終演に面食らった元明は、佐和山城を放棄し、すぐに若狭へと撤収。兵を解散し、かつて無職時代に暮らしていた、神宮寺に引きこもる。
 今回の挙兵、是非とも、無かったことにしたい。だが、光秀の大罪に乗じてやらかしておいて、そうそう無かったことになんて、なるはずもない。

 明智光秀の討伐後、近江国に帰還した丹羽長秀。羽柴秀吉の意を受けたとされる彼は、神宮寺の元明を、近江国の海津という地へと呼び寄せる。元明にも、覚悟はできていたであろう。
 またまたどうして、ちりとてちん。海津の丹羽長秀を訪ねた元明は、その場にて、自害させられた。31歳であったという。
 背伸びを、しすぎてしまったのだろう。悲しいけれど。武田元明の夢はここに潰え、若狭武田家は、その残り火さえ消滅。今度こそ滅び去った。


(おしまい)


おまけ写真

後瀬山城
(福井県小浜市)
撮影日:2011年9月18日
周辺地図

武田元明の曾祖父である武田元光が築城した、若狭武田家の本拠。
この城から連れ去られた元明が、若狭国主として再びここに返り咲くことはなかった。

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