第5話

大洋の風(前編)


 それは、前代未聞の企画であったらしい。
 5月15、16日に行われた、1年生による鷹沢宿泊学習のことである。
 具体的に、何が前代未聞だったのかというと、初日の班行動がである。
 生徒たちは、朝、班ごとに根見浜駅に集合する。学年全員で集合して、点呼を取るようなことはしない。あくまで、集まるのは班単位なのだ。  そこから先の班行動は、全て自由である。ただ、その日の午後3時半ごろまでに、宿泊先の、鷹沢青年の家に到着すればいいだけなのだ。
 生徒たちの班は、あらかじめ自分たちで考えてあった予定に従い、内房線を利用し、それぞれ行楽地などに向かう。
 とはいえ、南房総では、中学生が楽しめる行楽地など限られている。
 鷹沢アクアタウンや、ラバー牧場、仲江プリティガーデン程度であろうか。
 私の班は、ラバー牧場に行くことに決まっていた。
 5月15日の、朝7時ごろ、我々は、私服で根見浜駅東口に集合した。
 この、旅行の日の朝、生徒たちが班ごとに根見浜駅に集まることを、穂坂貴子先生は、「ポエに集合」と表現していた。
 しかし、ポエとは一体何だろうか?
 実は、当時、根見浜駅東口にあった大型店、エポのことだったのである。穂坂先生は、「エ」と「ポ」を逆に覚えていたのだ。あまりにもマヌケであるが、彼女は、チンピラのことをピランチなどと間違える女なのだ。この程度のことは仕方がないといえよう。
 さて、全員集合した私の班は、駅舎内へと入っていく。
 班のメンバーは、班長の池田大助殿を筆頭に、島田美紀殿、小川絵理殿、大久保靖章殿、富塚まき殿、そして私、樫木知彦である。
 この班は、中学生になって最初の席替えの際に誕生した班であった。要するに、通常の学級生活における班と、全く同じものなのだ。席の近い者同士ということである。12Rは、最も単純なやり方で、旅行の班を分けたのだ。
 改札口を突破し、ホームへと入った我が班は、電車を待つ、佐藤長隆殿率いる班と遭遇した。
 聞けば、彼らの目的地は、我々と同じ、ラバー牧場だという。
 私は、皆さんに聞こえるように、わざと大きな声で、こう言ってやった。
「えっ!? 長、ラバー牧場行くの? ダメだろ、長、牛喰っちまうよ」
 これにより、皆さんの笑いは取れたが、次の瞬間、私が、ゴリラ顔の男にホームから突き落とされそうになったのは、いうまでもない。
 ちなみに、この時の私のこの発言が、後に広く認知されることになる、「長隆は人間を初め何でも喰う」というヒドい設定へとつながっていくのである。
 電車が来たのを確認した我々は、それに乗り込み、一路、目的の駅へと向かった。目的の駅は、東京湾沿いに数えて、根見浜市から2つ南の市、手浜市にある、粟田町駅である。
 数十分後、粟田町駅に到着した我々は、ラバー牧場に向かうバスを使い、目的地へと直行した。
 しかし、本当のことをいうと、私には、この時バスに乗った記憶が全くない。ただ、普通に考えて、バス以外の交通手段を使ったとは考えにくいので、そう書いたまでなのである。
 ともかく、我々は、無事、目的地、ラバー牧場に到着した。
 入口の前には、三中生たちが集まっている。その中に、西条先生の姿もあった。
 彼がここにいるのは、各班が提出した計画書から判断し、適切と思われる行楽地、駅などに、教職員が配置されることになっていたためである。
 といっても、点検のために配置されているのではない。トラブルに対処するために配置されているのだ。そこのところは、学年主任、小川俊郎先生も強調していた。
 開園時間まで、あと数分。待たされている我々の、頭上の曇り空から、小雨がシトシトと降ってきた。
 周囲から、憂いの声が漏れる。
 今にも大泣きしそうな空を見上げつつ、我々は、ラバー牧場へと入場した。
 ラバー牧場は、南房総の、数少ない行楽地の中では、鷹沢アクアタウンと並び、代表的なものである。
 この牧場、単なる牧場と大差ない所であるにもかかわらず、客を入れて大金を取るという、味なマネをしている。まあ、我々も、その客の一部なのだが。
 我が班は、どこへ向かうわけでもなく、牧場内の、舗装された道を歩いている。
 エリンギこと、小川絵理殿は、決して大久保靖章殿に近づかないように歩いている。
 彼女は、彼のことを、一方的に嫌っているのだ。
 席替えでこの班が誕生した時、二人は隣同士の席であった。しかし、彼女は、悲しみに満ちた表情で、それを拒んだ。
「お願い、樫木、替わってよ……」
 彼女は、私に、靖章殿と席を交換しろというのだ。
 彼女と彼とは、違う小学校である。したがって、彼女は彼のことをよく知らない。つまり、彼女は彼のことを、見た目と雰囲気だけで、不審人物と決めつけ、嫌悪感を抱いたということだ。
 エリンギも、なかなかヒドい女である。
 ちなみに、この大久保靖章殿、通称を「イモ」という。名前の由来は、見た目そのまんまである……。要するに、そういうことなのだ。
 さて、我が班は、ソフトクリーム屋の前にやってきた。
 しかし、それはなぜか?
 驚くべきことに、ソフトクリームを食うためである。ラバー牧場のソフトクリームは、おいしいことで有名なのだ。
 いつの間にか、雨も上がっている。
 我々は、期待を胸に、店の中に入ろうとした。
 ところが、思わぬものに阻まれてしまった。
 なんと、店の入口の戸に、「本日の販売は終了いたしました」と書かれた札が下げてあったのだ。
 開園してから、まだ数十分しか経っていないというのに、凄まじい売れ行きである。
 正確にいえば、昨日の営業が終了したまま、今日の営業がまだ始まってないというだけのことなのだが……。
 ともかく、今現在、この店のソフトクリームを食うことはできない。それは、動かしようのない事実であった。
 そう考えると、ここにいることが、途端に空虚なことのように感じられた。あのソフトクリームのないラバー牧場など、タコの入っていないタコ焼き、「焼き」と一緒である。
 こうして、ラバー牧場に失望し、人生に絶望を感じた我々は、テキトーな場所で、テキトーに時間をつぶすこととなった。そして、テキトーな時間に、テキトーに飯を食い、テキトーな時間に、テキトーに牧場から立ち去ったのである。
 そのころには、あのソフトクリーム屋も、営業を開始していたはずだ。しかし、すでにテキトーな気持ちになっていた我々には、そこまで足を運ぶ気力など残されてはいなかったのである。
 1時ごろに牧場を出た我が班は、宿泊先、鷹沢青年の家を目指し、電車に乗る。最寄りの駅は、仲江駅だ。
 鷹沢の地に降り立った我々を襲ったのは、再び降り出した雨だった。しかも、今度は土砂降りである。我々は、弾丸のような雨をくぐり抜け、青年の家へと突入した。
 鷹沢青年の家は、太平洋に面している。名前に「鷹沢」と付いているぐらいだから、普通なら、モスクワかラサにあると思ってしまうところだが、意外なことに、ここは、外房、鷹沢市なのである。
 私は、本日宿泊する部屋に行き、そこで、私服から三中のジャージに着替えた。青年の家に着いてからは、私服は許可されていないのだ。
 4時になると、入所式が始まった。しかし、刑務所でもないのに、一体、「所」というのは何だろうか。疑問である。
 ちなみに、生徒たちの班で、入所式に間に合わなかったものは、なかった。これにより、前代未聞の企画は、大成功したといえる。
 式が終わると、生徒たちは部屋に戻る。6時前まで自由行動だ。
 12Rの男子は、2つの部屋に分かれている。私の泊まる部屋の部屋長は、佐藤長隆殿だ。もう一つの部屋の部屋長は、確か、新井直幸殿であった。
 私は、とりあえず、部屋で、佐藤長隆殿、関屋毅殿と、雑談をした。ベッドに腰を下ろした時、たまたまその二人が近くにいたためである。
「樫木君の家は、どんな家なの?」
 小学校が違うため、私のことをよく知らない、関屋毅殿が言った。
「屋根がある家」
「そうだよな。確か、お前んち、屋根があったよな」
 私と長隆殿は、つまらないことを言って、毅殿を煙に巻く。
 それにしても、本当につまらないことを言ったものだ。
 その後、私は、同じ部屋の者数名と、施設内を探検に行ったりして、時を過ごした。気づいた時には、もう自由時間は終わりである。
 6時、食堂に全員集合、晩飯を喰らう。この食事については、別に書くこともない。
 夕食が終わると、レクタイムである。学校でいうところの、体育館のような場所に、再び全員集合する。
 ここで、学年主任から、悲しい知らせがあった。
 14Rの、高沢大輔殿の父が、亡くなったというのだ。この報を受け、大輔殿は、急遽、帰宅したという。
 一瞬、生徒たちの間に沈黙が流れたが、すぐに元の調子に戻り、レクが始まった。
 このレクの中の一つに、クラス対抗長縄大会があった。
 私は、この戦いで、クラスの者たちに、得意の、長縄超低空跳びを見せつけてやった。
 この技は、ほんの少しの高さしかジャンプせずに、長縄を跳ぶというものである。足と地面との、わずかな隙間に、長縄を通すのだ。常人の目には、全く足を動かしていないのに、縄が足の下をくぐり抜けているように見えるのである。
 こうやって言葉にすると簡単だが、その裏には、「人と同じようにジャンプしているのだが、跳躍力がないため、地面すれすれにしか跳べない」という、恐るべきメカニズムが隠されているのだ。
 この超低空跳び、相当珍しいものだったらしい。
「知彦君、長縄は跳ぶものだってこと、知ってる?」
 同じクラスの、市橋恵殿など、ストレートにこう聞いてきたほどだ。
 レクが終わると、学年主任から、今日一日の総評があった。
 全体としては、大成功であったと、褒められたのだが、話の最後の最後になって、主任の表情が変わった。
「最後に一つだけ。……お前ら、うるせえんだよ!」
 学年全体が、石のように固まった。
 彼は、三中生が、施設内ではしゃぎ回っているせいで、一般の利用客が迷惑しているといいたいのだろう。
 それにしても、すごい迫力であった。私は、普段穏やかにしていれば、猛った時、大きな説得力を発揮するものだということを学んだ。
 続いては、入浴である。トンボではない。入浴だ。
 そういえば、学校での事前指導で、小川先生が、この、入浴について説明しようとした時、石浜健一殿は、真剣な顔をして、こんなことを聞いていた。
「混浴ですか?」
 しかし、残念なことに、混浴ではなかった。誠に残念である。
 11、12Rの男子は、大浴場に集まり、服を脱ぎ捨てる。1Rと2Rの生徒しかいないのは、一度に全クラスで入ることができないためだ。
 そんな、男湯の脱衣所に、突如、穂坂貴子先生が、何かブツブツ言いながら飛び込んできた。
 おそらくは、現場で入浴の指揮を執っていた、谷文也先生に用事があったのだろうが、それにしても、あまりにも常識はずれな行動である。
「来んじゃねえよ!」
「変態!」
「出てけよ、ババア!」
 脱衣所の中を、生徒たちの怒号が飛び交う。当然のことである。
 穂坂先生は、その、あまりの激しさに、逃げるようにして外へ出ていった。
 ちなみに彼女、これでも、13Rの担任の他に、第1学年副主任も兼任しているのだ。信じがたい話である。
 穂坂先生が出ていくと、我々は、安心して浴場に入った。
 入浴が終わると、再び、食堂に全員集合して、夜食をいただく。こんなものまで用意してあるとは、ここ青年の家、なかなかサービスがいい。メニューは、メロンパンだった気がする。気がするだけで確証はない。
 夜食で腹と心を満たしたら、もう就寝時間だ。いくら何でも、10時半というのは早すぎである。
 部屋には、6つほどの二段ベッドがある。私は、そのうちの一つを、吉田功司殿と共同で使うことになった。
 私は、高い所が怖いので、二段ベッドの下を希望した。
 子供というのは、多くの場合、二段ベッドでは、上に寝たがるものである。吉田功司殿とて、例外ではないだろう。だから、これで、話は丸く収まるはずであった。
 しかし、彼には、別の思惑があったのである。
「あ、俺、上ダメ。夜中、女の部屋に遊びに行くから」
 その瞬間、私は、彼の鼻の穴に、指を2本ほど突っ込んで、ひっかき回し、鼻血を誘発してやろうかと思ったが、堪えた。
 そういえば、この吉田功司殿、まだ、青年の家に着いて間もないころにも、私に対して、こんなふざけたことを言っていたのであった。
「Gショックとかなら分かるけど、その時計は何だよ」
 彼は、私のしていた、安物の腕時計のことを言っているのだ。流行りの高級時計、Gショックでないことを、バカにしているのである。
 これら、青年の家での彼の言動だけを見ると、彼は、あたかも、キザでイヤミな女たらしのようだが、実際には、そんなことは全然ない。彼は、陽気な好人物なのである。事実、これらのセリフを言っている時も、彼の表情は、憎めない笑顔に満ちているのだ。
 しかしながら、彼のGショック信仰だけは、言語道断である。
 その理由は、あの時計の長所が、全く無意味なものだからだ。
 Gショックという時計は、たとえダンプカーに轢かれても、破壊されないそうだが、それは、あまりにもむなしいことである。なぜなら、ダンプカーに轢かれたら、たとえ時計が破壊されなくても、装着している人間が破壊されてしまうからだ。全く、皮肉なものもあったものである。
 さて、結局、二段ベッドの、上に寝ることになってしまった私は、体の上下に着用している、青っぽいジャージ、通称「青服」を脱ぎ、その下に着用していた、白い半袖シャツ、通称「白服」と、紺色の短パン姿になった。これが、ここでの寝る時の格好なのだ。他のみんなも同じである。
 私は、二段ベッドの上にされた恐怖からか、なかなか寝つけずにいた。特別、寝相が悪かった覚えはないが、落っこちるに違いないと思った。
 ――明日の朝は早い。急いで眠らなければ。
 そう思えば思うほど、緊張して、寝つけなくなる。
 長い夜になりそうな、予感がした……。



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